第七十三話 烏帽子の重さ
「髪を解くぞ。動くな」
八月半ばの朝だった。柴田修理亮の屋敷の一室で、宗助は源四郎に背を向けて座っていた。源四郎の指が髪結いの紐をほどき、櫁を入れていく。組の者の前ではいつも荒っぽい手が、今日は妙に丁寧だった。この一月、宗助は役目の合間に支度を進めてきた。着るものは源四郎が古い素襖を工面してくれた。礼の順は、修理亮の家臣が一度だけ教えてくれた。その間も、平六と佐吉は五人を回し続け、宗助が口を出さなければならないことは一度も起きなかった。
「緊張しておるな」
「しておりません」
「肩が上がっておる。桶狭間の朝と同じじゃ」
宗助は息を吐き、肩を落とした。源四郎は何も言わずに髪を結い直し、最後に一度だけ宗助の頭を軽く叩いた。
「よし。曲がってはおらん」
広間には、修理亮とその家臣が数人座っていた。武家の子の元服なら、一門や縁者が居並ぶのだろう。だが宗助の側に座るのは、介添の源四郎一人だけだった。それでよいと宗助は思った。沢井の村から来た者が、この場に座っている。それだけで、一年半前には考えもしなかったことだ。
修理亮が立ち上がった。家臣が差し出した台から烏帽子を取り、宗助の前に立つ。大きな手だった。槍を振るい、兵を居並ばせてきた手が、今は黒い烏帽子を支えている。
「首を垂れよ」
宗助が首を垂れると、頭に烏帽子の重さが乗った。軽いはずのものが、思ったよりもずっしりと感じられた。源四郎が横から手を伸ばし、紐を結んで形を整える。その手が離れたところで、修理亮は座に戻った。
家臣が一枚の紙を修理亮へ渡す。修理亮はそれを広げ、宗助の前に置いた。墨の入った字は、一つだけだった。
「家」
「わしの名の一字じゃ。これをお主に与える」
宗助はその字を見つめた。筆の運びは太く、迷いがない。修理亮の声が続いた。
「実名は家宗とする。下の字には、お主の元の名の宗を残した」
「宗を……」
「名を変えるのは、過ぎたものを捨てるためではない。桶狭間で槍を投げたのも、美濃で荷を運んだのも、宗助じゃ。それを持ったまま、先へ行け」
修理亮はそこで一度言葉を切った。
「通称は宗兵衛。名字は申した通り沢井。これよりお主は、沢井宗兵衛家宗じゃ」
広間が静まり返っていた。宗助は両手をつき、深く頭を下げた。烏帽子の重さが、頭を下げるとよりはっきりと分かった。
「……沢井宗兵衛家宗。この名に恥じぬよう、勤めて参ります」
声が少しだけ揺れた。修理亮はそれを咎めなかった。家臣が盃を運び、修理亮と宗兵衛の間で三度酒が注がれた。酒は薄かったが、喉を通るときに熱く感じた。最後の盃を置いたところで、修理亮が初めてその名を呼んだ。
「宗兵衛」
「はっ」
自分の口から、返事が自然に出た。そのことに、宗兵衛自身が一番驚いていた。
屋敷の門を出ると、弥吉と佐吉、平六が待っていた。役目の合間を縫って来たらしく、佐吉の足にはまだ泥がついている。三人は烏帽子姿の宗兵衛を見て、しばらく何も言わなかった。最初に口を開いたのは弥吉だった。
「宗助、似合うではないか」
そこまで言ってから、弥吉は小さく舌打ちした。
「……いかん。何と呼べばよいのじゃ」
「宗兵衛です」
「宗兵衛。ふむ、宗兵衛か。……口が慣れるまで、しばらく許せ」
「俺もです」
宗兵衛がそう言うと、弥吉は声を上げて笑った。佐吉が一歩前に出て、背筋を伸ばした。
「宗兵衛様、おめでとうございます」
宗助様、ではなかった。佐吉はもう、新しい名で呼んでいた。たったそれだけのことが、宗兵衛には妙に胸に来た。平六も黙って頭を下げた。
「組はどうだ」
「何事もございません。今朝も荷は動いております」
平六の答えに、宗兵衛は頷いた。自分がいなくても、荷は動いている。それが今は少しだけ寂しく、それ以上に嬉しかった。
「さて」
弥吉が手を叩いた。
「約束じゃ。祝いの日には何か旨いものを食わせてもらうと言うておったじゃろう」
「覚えていましたか」
「忘れるわけがなかろう」
その夜、宗兵衛は種金の一部で米と塩魚を求め、五人と弥吉を焦き火の前に集めた。豪勢なものではない。それでも弥吉は、一口ごとに大げさに唱ってみせた。笑い声の中で、佐吉だけが時々、何かを言いたそうな顔で宗兵衛を見ていた。
宿所へ戻ると、宗兵衛は書付を開いた。「沢井」の二文字と、烏帽子親と介添の名が並んだ頁。その下に、筆をゆっくりと運んだ。
「沢井宗兵衛家宗」
自分の名を、自分の手で書く。ただそれだけのことに、これほど時がかかるとは思わなかった。この名で、本能寺まで歩いていくのだ。そう思うと、墨の乾いていく字が、少しだけ重く見えた。
その時、戸の外から声が掛かった。
「沢井宗兵衛殿はおられるか」
初めて他人の口から聞く、新しい名だった。戸を開けると、昼間に盃を運んでいた修理亮の家臣が立っていた。
「修理亮様よりでござる。明朝、屋敷へ参られよ。――犬山の方で、気になる動きがあるとのことじゃ」
宗兵衛の胸に、あの日の光景が蘇った。切られた倒木。足りない二つの荷。そして、美濃へ続く道に残っていた、新しい轍。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、ついに宗助の元服の回でした。新しい名は「沢井宗兵衛家宗」です。名字の「沢井」は、宗助が生まれた村の名から取っています。清洲から北へ半日ほどの小さな村で、作中の架空の村です。実名の「家」は烏帽子親である柴田修理亮の名から授かった一字で、このように烏帽子親が自分の名の一字を与えることを「偏諱」といいます。そして下の字と通称には、元の名の「宗」を残しました。当時、普段呼ばれるのは通称の方で、実名は書状などで使われる名でした。これから作中でも、周りからは「宗兵衛」と呼ばれるようになります。名が変わっても、これまでの宗助を捨てるわけではありません。そして最後に、以前の荷の件が再び動き始めました。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




