第七十一話 在所の名
「宗助、手が空いたら来い」
七月に入って最初の朝だった。荷の数を改めていた宗助を、源四郎が呼び止めた。信長に呼ばれてから三日が経っている。あの日から、宗助はいつも通りに五人を動かし、いつも通りに書付をつけていた。名のことを考えておけと言われても、考えて答えが出るものではない。だから今は、目の前の役目を果たすしかないと決めていた。佐吉に後を頼んで源四郎のもとへ行くと、源四郎は珍しく周りを気にするように声を落とした。
「修理亮様がお呼びじゃ。名のことで、上から話が下りたらしい」
「上から……」
「わしも詳しくは聞いておらん。行けば分かる」
源四郎はそれだけ言って、宗助の背を軽く押した。
柴田修理亮の詰める部屋は、城の奥にあった。宗助が膝をつくと、修理亮は手元の書状を脇へ置き、前置きもなく告げた。
「信長様より仰せがあった。宗助を元服させよ、とのことじゃ」
宗助は息を詰めた。三日前、信長は「まだ今日決める話ではない」と言った。その話が、こうして言葉になって下りてきた。
「時は秋の吉日を選ぶ。八月のうちになろう」
「はっ。ありがたき――」
「礼は後にせよ。今日は聞きたいことがある」
修理亮は宗助を真っ直ぐに見た。
「お主の在所はどこじゃ」
「清洲から北へ半日ほど歩いた、沢井という村にございます」
「沢井か。家の者は」
宗助は一瞬、言葉に詰まった。この時代で初めて目を覚ました朝、自分を兵の募りへ連れ出した男の顔が浮かぶ。あの男は縁者として宗助の面倒を見てくれたが、武家の作法を知る者ではない。
「縁者が一人おります。ただ、百姓にございます」
「であろうな」
修理亮は責めるでもなく頷いた。
「武家の子であれば、元服は家の中で整う。父が支度をし、一門か縁のある者が烏帽子親に立つ。だが、お主には立ってくれる家がない」
宗助は黙った。名を授かることばかり考えていた。その名を誰が、どの家の者として授けるのか。そこまでは考えが及んでいなかった。
「烏帽子親とは、烏帽子を被せて終わる役ではない。その日から、お主の親として立つ者じゃ。お主がしくじれば親の顔に泥が付く。親が倒れれば、お主も知らぬ顔はできん」
「……はい」
「つまり、誰を親に立てるかは、お主がこの先どこに立つかを決めることにもなる。それゆえ、信長様の御意向を伺っておる。決まるまで、しばし待て」
修理亮はそこで言葉を切り、少しだけ声を和らげた。
「待つ間にもやることはある。支度もそうじゃが、まず五人のことを決めておけ」
「五人の、でございますか」
「元服となれば、お主はしばらく支度に手を取られる。その後も、今と同じ役目のままとは限らん。お主がおらずとも、あの者たちが動ける形を作っておけ。それができずに名だけ変わっても、何の意味もない」
宗助は深く頭を下げた。部屋を出ても、修理亮の言葉はしばらく耳から離れなかった。名が変わる。それは自分一人の話だと思っていた。だが実際には、自分を親として支える者がいて、自分が手を離す者たちがいる。名一つで、周りの形まで変わっていく。
昼過ぎ、宗助は五人を荷駄置き場の裏へ集めた。元服の話が動いていることは、まだ伏せた。ただ、しばらく自分が手を離す日が増えるかもしれないとだけ伝えた。
「その間、皆をまとめる者を決めておきたい」
五人の目が、自然と佐吉へ向いた。宗助も同じことを考えていた。道を見る目も、物の数を数える細かさも、五人の中では佐吉が抜けている。
「佐吉、頼めるか」
佐吉はすぐには返事をしなかった。少し考えてから、首を横に振った。
「俺では駄目だと思います」
「なぜだ」
「見ることなら、俺にもできます。でも、皆をまとめるなら平六さんの方がいいです」
佐吉は五人の中で最も年嵩の男へ目を向けた。平六は驚いたように自分の顔を指差している。
「俺が一番若いんです。宗助様がいる時は、宗助様が決めたことだから皆が動いてくれる。でも宗助様がいない時に俺が何か言っても、年上の者は腹の中で納得しません。それで揉めたら、宗助様が戻った時に余計な手間が増えます」
宗助は佐吉を見た。以前の自分なら、ここで押し切っていただろう。佐吉が一番よく見ている。だから佐吉に任せる。それが正しいと思い込んで、佐吉一人に重さを背負わせていたかもしれない。
「平六はどうだ」
「わしは道を読むのは苦手じゃ。だが、人を並ばせて動かすのは村の普請で慣れておる」
「なら、まとめ役は平六に頼む。道や荷の判断で迷ったら、必ず佐吉に聞いてくれ。佐吉は、見たものを平六に伝える。二人で決めきれない時は、源四郎様のところへ行け」
平六が頷き、佐吉もほっとしたように息を吐いた。
「佐吉」
「はい」
「お前が言わなければ、俺はお前に全部を背負わせていた。助かった」
佐吉は少し困ったように笑った。
「宗助様が、自分の考えを言えと言ったんじゃないですか」
夕刻、荷駄置き場へ顔を出すと、弥吉が車輪の具合を見ていた。宗助が近づくより先に、弥吉の方が顔を上げた。
「聞いたぞ。名のことが動いたそうじゃな」
「もう知っているんですか」
「城の中の噂は、荷車より速く回る」
弥吉は笑ってから、ふと真顔になった。
「沢井には知らせるのか」
宗助は答えられなかった。そのことは、少しも考えていなかった。
「名が変わるなら、生まれた所の者にも知らせてやれ。お主が村を出た朝、見送った者もおるじゃろう」
「……そうですね」
「それと、祝いの日には何か旨いものを食わせてもらうぞ」
「結局それですか」
「大事なことじゃ」
二人は小さく笑った。
その夜、宗助は焚き火のそばで書付を開いた。これまで書いてきたのは、見てきた土地の名と、人の名だった。森部、洲俣、十四条、軽海、於久地。そして岩室長門守。宗助は新しい紙を広げ、その一番上に「沢井」と書いた。自分の生まれた村の名を書付に記したのは、これが初めてだった。本当のことを言えば、宗助の生まれた場所はここにはない。遠い先の世の、誰に話しても信じてもらえない場所だ。だが、この時代で目を覚まし、槍を握らされ、清洲へ送り出されたのは沢井からだった。名を持つなら、自分がどこから来たのかも背負うことになる。ならば、それはあの村なのだと思った。
筆を置いたところで、足音が近づいてきた。源四郎だった。焚き火の向こうに立ったまま、源四郎はしばらく黙っていた。
「明日、わしも修理亮様に呼ばれた」
「俺のことで、ですか」
「お主の元服のことでな」
宗助は顔を上げた。
「烏帽子親の……」
「さあな。わしにもまだ何も言われておらん」
源四郎はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。その背中が闇に溶けるまで、宗助は目を離せなかった。書付の上で、乾ききらない「沢井」の二文字が、焚き火の明かりに揺れていた。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、信長の言葉を受けて宗助の元服が実際に動き出し、その中で「名を授けてくれる家がない」という宗助ならではの問題が見えてくる回にしました。武家の子であれば元服は家の中で整いますが、百姓の出である宗助には、親として立ってくれる家がありません。烏帽子親は烏帽子を被せるだけの役ではなく、その後も親子に近い縁で結ばれる相手です。誰がその役を担うのかは、宗助のこれからの立ち位置にも関わってきます。また、今回初めて宗助の在所として「沢井」という村の名が出てきました。清洲から北へ半日ほどの小さな村で、作中の架空の村です。宗助がこの時代で目を覚まし、兵として送り出された場所でもあります。名を持つということは、これから先のことだけではなく、自分がどこから来たのかを背負うことでもあるのかもしれません。佐吉が自分の考えをはっきり口にし、宗助がそれを受け入れたことも、小さいながら大事な一歩です。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




