第七十話 信長の問い
「宗助、信長様がお呼びじゃ」
声を掛けられた瞬間、宗助の手が止まった。書きかけの書付に目を落とし、それから顔を上げる。於久地での戦から日が経ち、今は清洲で次の役目を待っているところだった。ここ最近、宗助の周りでは少しずつ変化が起きていた。源四郎からは五人の足軽を任され、佐吉たちを動かすようになった。戦場だけではなく、村人との揉め事や荷の扱いにも関わり、自分で全てを抱え込むのではなく、人に任せることを覚え始めている。そして、それを柴田修理亮が見ている。藤吉郎もまた、宗助のことを気にしているらしい。昨日までなら、それはただの評判だった。だが今、その先にいる人物から直接呼ばれた。宗助は書付を畳み、懐へ入れた。
「どちらへ参れば?」
「案内する。余計なことは考えるな」
「はい」
歩きながら、宗助は何度も自分に言い聞かせた。信長と話すのは初めてではない。桶狭間の前後にも言葉を交わしたことがある。だが、あの頃の自分とは違う。あの時は、目の前の命令をこなすだけだった。今は五人を預かっている。自分の判断一つで、誰かを危険にさらすこともできる。案内された先で待っていた信長は、書状から目を上げると、宗助を一度だけ見た。その視線は長くない。だが、以前よりも深く見られているように感じた。
「宗助」
「はっ」
「近頃、人を使っておるそうだな」
「はい」
「五人ほどか」
「五人を預かっております」
信長は小さく頷いた。
「自分でやった方が早いこともあろう」
「ございます」
「ならば、なぜ任せる」
宗助は一瞬だけ考えた。ここで綺麗な答えを出す必要はない。むしろ、綺麗に見せようとすれば見透かされる気がした。
「自分一人でできることには、限りがあるからです」
「ほう」
信長の目がわずかに細くなる。
「任せた者が失敗したらどうする」
「任せた者だけの責任にはしません」
「なぜじゃ」
「任せたのは私だからです」
短い沈黙が落ちた。信長は何も言わず、宗助の顔を見ている。宗助は視線を逸らさなかった。やがて信長が低く息を吐いた。
「自分でやれば失敗しなかったと思うこともあろう」
「はい」
「それでも任せるか」
「その者ができることまで、私が奪うことになります」
信長の口元が、ごく僅かに動いた。
「なるほどな」
それだけだった。褒められたわけではない。だが、宗助には十分だった。信長は続けて尋ねた。
「お主は、先のことをよく見ているそうじゃな」
その言葉に、宗助の胸がわずかに強く鳴った。藤吉郎から聞いたのか。柴田からか。それとも、別の誰かが報告したのか。
「……そう見えることがあるだけかと」
「自分ではどう思う」
「先のことを知っているわけではありません」
「知らぬ?」
「はい。分からぬことの方が、ずっと多いです」
信長は黙った。
宗助は言葉を続けた。
「知っているつもりで決めつければ、人を巻き込むことになります。ですから、分からないことは分からないままにして、確かめるようにしております」
信長はしばらく宗助を見ていた。それから視線を外し、卓の上に置かれていた書付へ目を向けた。
「書くことも続けておるそうだな」
「はい」
「何を書く」
「見たことと、聞いたことです。自分が後で間違えぬように」
「それだけか」
宗助は少し迷った。
「……忘れたくないことも、書きます」
信長の目が戻ってきた。
「岩室のことか」
胸の奥が、静かに痛んだ。
「はい」
「なぜ残した」
宗助は答えを探した。於久地で討ち死にした岩室長門守。信長の若衆として仕え、隠れなき器用の仁と評された男。その名を自分は書付に残した。
「死んだ人間の名まで、なかったことにしたくなかったからです」
信長は何も言わなかった。しばらくして、低い声が落ちた。
「そうか」
それ以上、岩室のことを語ろうとはしなかった。ただ、その一言には、戦場で見せた信長の顔とは違うものがあった。宗助は、それ以上尋ねることもしなかった。
「宗助」
「はっ」
「お主は、これから何をするつもりじゃ」
問いは簡単だった。だが、宗助にとっては難しかった。未来を知っている。信長がどこへ進み、何を成し、最後に何が起こるのか。その全てを知っている。けれど、それを口にすることはできない。
「もっと働きたいと思っております」
「何のために」
「もっと学びたいからです」
「何を学ぶ」
「人を動かすこと。戦のこと。人を守ることです」
信長が眉をわずかに上げた。
「人を守る?」
「はい」
宗助は一度息を整えた。
「私は、もっと人を守れる立場になりたいと思っております」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に別の顔が浮かんだ。炎に包まれた本能寺。逃げ場を失う信長。あの未来だけは、変えなければならない。
だが、それを今ここで語ることはできない。
「欲はないのか」
信長が尋ねた。
「ございます」
即答だった。
信長が少しだけ笑った。
「何じゃ」
「あります。もっと上へ行きたいと思っています」
「正直じゃな」
「ですが、それだけではありません」
「ほう」
「上へ行けば、自分だけではなく、守れる人も増えると思っております」
信長は再び黙った。宗助はその沈黙の中で、自分が何かを試されているのだと感じていた。戦の腕を見ているのではない。知識の多さを見ているのでもない。人を任せることができるか。分からないことを分からないと言えるか。人の死を数字だけにしないか。そして、自分が何を求めているのかを、自分の言葉で語れるか。その全てを見られているようだった。
やがて信長が口を開いた。
「お主の働きについては、わしの耳にも入っておる」
宗助は頭を下げた。
「ありがたきことにございます」
「礼を言うことではない。まだ何かを与えたわけではないからな」
「はっ」
「柴田も、お主の働きを見ておる」
その名を聞いて、宗助は顔を上げた。
「藤吉郎も、お主を面白いと思っておるようじゃ」
宗助は少しだけ苦笑しそうになった。
「藤吉郎殿らしい……と言ってよいのか分かりませぬ」
「ふっ」
信長が短く笑った。
「だが、勘違いするな」
「はっ」
「人に見られておるからといって、もう一人前になったわけではない」
「承知しております」
「では、何が足りぬ」
宗助は答えようとして、止まった。
「……まだ、自分でも分かりません」
信長はそれを聞くと、満足したように頷いた。
「それでよい」
意外な言葉だった。
「分からぬものを分かった顔で語る者ほど、危うい」
宗助は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
「それと」
信長が呼び止める。
「名のことを考えておけ」
宗助の動きが止まった。
「名、にございますか」
「いつまでも幼い頃のままの名でいるわけにもいかぬ」
それだけを言って、信長は書状へ視線を戻した。
「だが、まだ今日決める話ではない」
宗助は意味を理解するまで、少し時間がかかった。
元服。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。
「……はい」
「名を持つなら、その名に相応しい働きをせよ」
「承知いたしました」
信長はもう宗助を見なかった。
「下がれ」
「はっ」
宗助は一礼し、部屋を出た。廊下へ出た瞬間、ようやく息を吐いた。足取りは来た時より重く、それでいて胸の奥には不思議な熱があった。元服が決まったわけではない。名も決まっていない。誰が烏帽子親になるのかも分からない。ただ、自分がこれまで積み重ねてきたものが、少しずつ次の段階へ届き始めていることだけは分かった。
外へ出ると、清洲の空は明るかった。佐吉たちがいる方へ歩きながら、宗助は懐の書付に手を触れた。そこにはこれまで見たこと、聞いたこと、忘れたくないことが書かれている。
これから先、自分は何という名で生きるのだろう。
まだ答えはない。
だが、その日が近づいていることだけは、宗助にも分かっていた。
そしてその名を持つ日が来たなら、その名に背負わせるものを、自分で決めなければならない。
宗助は足を止めず、前を向いた。
名を変えることが、人生を変えるのではない。
その名で、何をするか。
それが問われるのだ。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今回は、これまで積み重ねてきた宗助の働きが、ついに信長本人の目に触れる回となりました。元服についても、いきなり「信長が名前を決める」という形にはせず、まず本人を見極める段階として描いています。宗助はまだ一人前ではありません。だからこそ、信長からも「まだ何かを与えたわけではない」と釘を刺されています。次は、宗助がこれまでとは違う立場へ進むための具体的な動きが始まります。これから宗助がどんな名を持つことになるのか、その名に何を背負うのかも含めて、引き続き見届けていただければ嬉しいです。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




