第六十九話 名を持つ者
「宗助、少し話がある」
仕事を終えた夕刻、源四郎に呼び止められた。宗助は手にしていた道具を置き、源四郎の方へ向き直る。
「はい」
「このところのお主の働き、見ておった」
「何か、問題がありましたか?」
「逆じゃ」
源四郎は短く笑った。
「問題がないからこそ、話しておきたい」
宗助は黙って続きを待った。
「最初の頃のお主は、言われたことを自分で片づけようとしておった。荷があれば運び、道が悪ければ自分で確かめ、何かあれば自分で動いた」
「はい」
「それが間違いだったとは言わん。だが、人を任されてから変わった」
宗助は少し離れた場所にいる五人へ目を向けた。佐吉たちは今日の仕事を終え、道具を片づけている。
「自分でやることと、人に任せることを考えるようになった。人の話も聞くようになった」
「まだまだです」
「そうじゃな」
源四郎はあっさり答えた。
「だからこそ、上の者もお主を見るようになった」
宗助は源四郎を見る。
「上の者?」
「柴田修理亮様も、お主の働きについて話しておられた。それに、藤吉郎殿もお主のことを気にしておるらしい」
宗助の脳裏に、藤吉郎の顔が浮かんだ。
「……藤吉郎殿が?」
「何を考えておるのかまでは、わしにも分からん。ただ、お主の働きが少しずつ人の目に留まっておる。それだけは確かじゃ」
宗助は黙った。
これまで、自分は目の前の役目を果たすことだけを考えていた。
桶狭間。
美濃。
於久地。
そして、その後の仕事。
一つ一つをこなしてきただけだった。
だが、それらを見ている人間がいる。
その事実を、宗助は改めて意識した。
「宗助」
源四郎が静かに呼ぶ。
「お主も、そろそろ考えておいた方がよい」
「何をですか?」
「名のことをじゃ」
宗助は言葉を失った。
「……名前なら、あります」
「そういう意味ではない」
源四郎は苦笑した。
「今の名を捨てろと言っているのではない。武士として正式に名乗ることを考える時期が近づいておる、ということじゃ」
宗助はしばらく黙っていた。
元服。
その言葉が頭に浮かんだ。
だが、源四郎はすぐに続けた。
「勘違いするな。わしが決めることではない」
「では……」
「お主の働きを見ている者がいて、その先に上の者がおる。その者たちがどう判断するかじゃ」
「信長様も……?」
源四郎は一瞬だけ宗助を見た。
「いずれ、耳に入ることはあるかもしれん」
その名前を聞いた瞬間、宗助の胸がわずかに締まった。
織田信長。
自分がこの時代に来てから、ずっと追い続けてきた人物。
救いたいと思っている人物。
そして、いつか本能寺で命を落とす人物。
「俺が、信長様に……」
「まだ何も決まっておらん」
源四郎は釘を刺した。
「今すぐ元服するわけでもない。誰が烏帽子親になるのかも、どんな名を名乗るのかも、まだ分からん」
「はい」
「ただ、お主がこれから先も織田家で働いていくなら、いずれ避けては通れぬ話になる」
宗助は静かに頷いた。
「分かりました」
「急いで答えを出す必要はない」
源四郎はそう言って、宗助の肩を軽く叩いた。
「まずは今まで通り、自分の役目を果たせ」
「はい」
源四郎が去った後も、宗助はしばらくその場に立っていた。
元服。
前世の記憶では、歴史の本に簡単に書かれていた言葉だった。
だが、この時代では違う。
名を持つことは、ただ呼び方が変わることではない。
家を背負う。
主君に仕える。
自分の行いを、その名で残す。
そして、失敗した時も、その名から逃げることはできない。
「……重いな」
思わず呟いた。
「何が重いんですか?」
声がして振り向くと、佐吉が立っていた。
「聞いてたのか?」
「全部ではありません。でも、何か難しい話をしていたのは分かりました」
宗助は少し迷った。
「元服の話をされた」
佐吉の目が大きくなる。
「元服ですか?」
「ああ。ただ、まだ決まったわけじゃない」
「でも、そういう話が出るってことは、宗助様が認められてきたってことでしょう?」
「分からない」
「またそれですか」
佐吉が笑った。
宗助も苦笑する。
「ただな」
「はい」
「名前が変わったからって、人間まで急に変わるわけじゃないだろ」
佐吉は少し考えてから答えた。
「でも、呼ばれる名前が変わったら、周りの見方は変わるかもしれません」
宗助は佐吉を見る。
「どうしてそう思う?」
「俺たちは、宗助様に仕事を任されるようになりました。でも最初からそうだったわけじゃありません」
「そうだな」
「名前が変わることも、同じなんじゃないですか」
宗助は何も言わなかった。
佐吉は続ける。
「名前が変わるから立派になるんじゃなくて、立派になろうとしているから、名前を持つんじゃないですか?」
その言葉に、宗助は少し驚いた。
「お前、時々妙なことを言うな」
「宗助様に言われたくありません」
二人は顔を見合わせ、笑った。
翌日、宗助が仕事をしていると、今度は柴田修理亮から声がかかった。
「宗助」
「修理亮様」
宗助が近づくと、修理亮は周囲を確認してから口を開いた。
「源四郎から話を聞いたか」
「はい」
「元服の話じゃ」
「はい」
宗助は背筋を伸ばした。
修理亮はそんな宗助をしばらく見ていた。
「先に言っておく。わしが決めることではない」
「分かっています」
「だが、お主の働きについては、わしから上へ伝えておる」
宗助は黙って聞いた。
「戦での働きだけではない。記録を残すこと、人を任された時の動き、最近では村と兵の揉め事まで、自分で決めつけずに処理したそうじゃな」
「はい」
「派手ではない」
修理亮は言った。
「だが、そういう働きは後から効いてくる」
宗助はその言葉を聞いて、岩室長門守のことを思い出した。
戦場で働き、命を落とした男。
その名を記録に残そうとした自分。
そして今、自分自身が名を持つ側へ進もうとしている。
「修理亮様」
「何じゃ」
「もし元服することになったら、俺は何を考えればいいでしょうか」
修理亮は少し考えた。
「名をもらうことではない」
「え?」
「その名を背負うことを考えよ」
宗助は黙った。
「名を持てば、誰かがお主を頼る。お主の判断で動く者も増える。失敗した時に、自分一人で済まぬことも増える」
「はい」
「今のお主なら、それくらいは分かっておるじゃろう」
修理亮はそれだけ言うと、宗助の肩を軽く叩いた。
「後は、上の判断じゃ」
宗助は頭を下げた。
「ありがとうございます」
修理亮が去っていく。
その背中を見ながら、宗助は一つのことを理解した。
元服は、自分が勝手に決めるものではない。
源四郎が自分の変化を見て、そういう時期が近づいていると伝える。
柴田修理亮のような上位の者が、その働きを見て上へ伝える。
そして、その先にいる者が判断する。
まだ何も決まっていない。
それでも、少しずつ道ができ始めている。
その日の夜、宗助は一人で書付を開いた。
筆を手に取る。
しばらく考えた後、ゆっくりと文字を書いた。
『名を持つということは、名を与えられることではない』
そこで筆を止める。
続けて書く。
『その名で生きることだ』
宗助は書付を閉じた。
まだ何も決まっていない。
いつ元服するのかも分からない。
誰が烏帽子親になるのかも分からない。
どんな名を与えられるのかも分からない。
ただ一つだけ、以前とは違うことがあった。
その話が、もう自分だけの問題ではなくなっている。
自分の働きを見てきた者たちがいる。
その働きを上へ伝える者がいる。
そして、その先には自分が仕える主君がいる。
宗助は静かに息を吐いた。
いつか信長の家臣として、あの本能寺の日を変える。
そのためには、ただ歴史を知っているだけでは足りない。
一人の人間として信頼されなければならない。
そして、その信頼を背負えるだけの名を持たなければならない。
宗助は立ち上がった。
明日も仕事はある。
元服が決まったわけではない。
だからこそ、今は目の前の役目を果たすしかなかった。
だが、遠くない未来に、自分は一つの名を背負うことになる。
その時、自分は何者として生きるのか。
その答えを考えながら、宗助は静かにその場を離れた。
【あとがき】
第六十九話を読んでいただき、ありがとうございます。今回は、宗助の元服を誰か一人が決めるのではなく、これまでの働きが少しずつ評価され、その先で正式な話へ進んでいくための段階として描きました。源四郎は宗助の直接の上役として変化を見守り、柴田修理亮は上位の家臣として、その働きを上へ伝える立場にあります。そして藤吉郎殿も、宗助を面白い存在として見始めています。宗助にとって元服は、単に名前が変わる出来事ではありません。これまで積み重ねてきたものを背負い、これからは自分の判断で誰かの人生にも関わっていくための大きな転換点です。その先にいる信長が、宗助をどう見るのか。次の段階へ向けて、少しずつ物語が動き始めます。ここまで読んでいただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




