第六十七話 試す者
「宗助、少し付き合え」
振り返ると、木下藤吉郎が立っていた。いつもの人懐こい笑みを浮かべている。だが、今日はどこか様子が違った。宗助は手にしていた書付を畳み、五人の足軽へ目を向ける。
「佐吉。あとは頼めるか」
「はい。何をしておけば?」
「今頼んでいる仕事を続けてくれ。何か判断に迷ったら、勝手に決めずに源四郎様へ報せろ」
「分かりました」
宗助は藤吉郎の後を追った。二人が並んで歩き始めても、藤吉郎はすぐには口を開かなかった。宗助も黙っていた。以前から藤吉郎とは何度も話している。桶狭間の頃から知っている相手だ。だが、ここ最近の藤吉郎の目には、以前とは違うものがあった。宗助の働きを面白がっているだけではない。何かを確かめようとしている。
「この前の村の話、聞いたぞ」
「三俵の件ですか」
「そうじゃ。村人の話だけを聞いて決めつけず、兵の話も聞いたそうじゃな」
「片方の話だけでは、何が本当か分かりませんでしたから」
「分からぬ、と言えるか」
藤吉郎は笑った。
「大抵の者は、最初に聞いた話を信じるものじゃ。自分が見たものだけで決める。それで揉め事が大きくなる」
「だから、両方聞いただけです」
「それだけではない」
藤吉郎が足を止めた。宗助も立ち止まる。
「美濃でもそうじゃった。道を見て、荷を見て、人の動きを見ておった。最近は人の話まで見るようになった」
「見ているだけです」
「見て、考えて、必要なら動く。それを何度もしておる」
藤吉郎は宗助の顔をじっと見た。
「宗助。お主は、先のことをよく考えるな」
胸の奥がわずかに跳ねた。宗助は表情を変えないようにした。歴史を知っている。それは間違いない。だが、自分が知っているのは大きな流れだけだ。この先、信長が美濃を手に入れること。その後も勢力を広げていくこと。そして、最後に本能寺で命を落とすこと。それくらいは知っている。だが、細かな戦の日時までは知らない。誰がどこで死ぬのかも、すべて覚えているわけではない。まして、今この瞬間に目の前にいる人間が、明日どう動くのかなど分かるはずもなかった。
「……先のことを考えないと、怖いだけです」
「怖い?」
「分からないことが多いので」
藤吉郎が少し目を細めた。
「お主でも分からぬことがあるのか」
「分からないことの方が多いです」
宗助はそう答えた。
「俺が知っているのは、大きな流れくらいです。細かなことまでは分かりません」
藤吉郎は黙っていた。宗助は余計なことを言ったかと思ったが、もう取り消せない。
「大きな流れ、か」
「はい」
「妙な言い方をする」
「そうですか?」
「まあよい」
藤吉郎は再び歩き出した。
「では、一つ聞こう」
「何でしょう」
「もし明日、何かを任されたら、お主なら何を考える?」
宗助は少し考えた。
「何をするかによります」
「つまらぬ答えじゃな」
「分からないものを、分かったふりはできません」
「ならば、分かる範囲で考えてみよ」
藤吉郎は歩きながら続けた。
「明日、何人かを近くの村へ向かわせることになったとする」
「何のために?」
「それは決まっておらぬ」
「人数は?」
「決まっておらぬ」
「戻る刻限は?」
「それもじゃ」
宗助は黙った。条件が少なすぎる。だからこそ、藤吉郎が何を試そうとしているのかが見えてきた。
「なら、まず戻れなくなった時のことを決めます」
「ほう」
「誰か一人が途中で抜けても動けるようにする。道中で何か起きた時、誰に知らせるかも決めておく。戻る時間も、最初から一つに決めずに、遅れた場合の目安を作っておきます」
「何か起きると決めつけておるのか?」
「いいえ」
宗助は首を振った。
「起きないかもしれません。でも、起きてから考えるより、起きた時に困らないようにしておいた方がいいと思います」
藤吉郎はしばらく黙った。そして、小さく笑った。
「やはり妙な男じゃ」
「褒めてますか?」
「半分はな」
その日の夕方、宗助は五人を集めた。藤吉郎から聞いた話をそのまま伝えたわけではない。明日の仕事について、いくつかの条件を説明した。佐吉は腕を組んで考えている。
「一人が途中で抜けたら、どうしますか?」
「その場合でも動けるようにしたい」
「なら、最初から役目を分けておいた方がいいと思います」
「どう分ける?」
佐吉は五人を見渡した。
「二人を一組にして、それぞれの役目を持たせます。それとは別に、一人は全体を見ておく。誰かが抜けたら、その人が入る」
宗助は頷いた。
「それでいこう」
「俺が決めていいんですか?」
「お前が考えたんだ。やってみろ」
「はい」
宗助はその夜、一人で書付を開いた。藤吉郎との会話を思い返す。自分は歴史を知っている。だが、知っていることより知らないことの方がはるかに多い。この時代に来てから、それを何度も思い知らされてきた。桶狭間でも、美濃でも、於久地でもそうだった。知っていたはずの歴史と、目の前で起きている現実は同じではない。人は教科書の一行のために生きているわけではない。今日笑っていた者が明日には死ぬこともある。逆に、死ぬはずだった者が生き残ることもある。宗助は筆を取り、紙の端に短く記した。
『知っていることより、分からないことを忘れない』
翌朝、五人は決めた役割に従って動き始めた。宗助は少し離れた場所から様子を見ていた。以前なら、誰かが手間取れば自分が入り、早く終わらせようとしていただろう。だが、今は違う。任せた以上、まず見る。佐吉が仲間に指示を出し、別の足軽が周囲を確認している。宗助は必要な時だけ声をかけた。昼前、一人の足軽が宗助のところへ戻ってきた。
「宗助様、申し訳ありません。家の者から急ぎの知らせがあり、戻らねばなりません」
「分かった。家のことなら仕方がない」
「ですが、役目が……」
その時、佐吉が近づいてきた。
「俺が代わります」
宗助は佐吉を見る。
「できるか?」
「はい。さっき決めた通りなら、問題ありません」
宗助は少しだけ笑った。
「なら、頼む」
佐吉はすぐに仲間へ声をかけた。抜けた者の役目を引き継ぎ、残った者たちもそれぞれの仕事を続けた。宗助は最後まで手を出さなかった。自分が動けば早かったかもしれない。だが、それでは昨日までと同じだった。任せるというのは、手を出さないことではない。任せた者が動けるように、最初に考えておくことだった。夕方、仕事を終えた宗助たちの前に藤吉郎が現れた。
「聞いたぞ。一人抜けたそうじゃな」
「はい」
「それでも滞りなく終わった」
「佐吉たちが動いてくれました」
「お主が動かしたのではないのか?」
「俺一人ではできません」
藤吉郎は笑った。
「それでよい」
そして少し間を置いて、宗助を見た。
「昨日の話じゃがな」
「はい」
「お主は、本当に先のことを知っているわけではないのかもしれんな」
宗助の表情がわずかに固まった。
「……どういう意味ですか」
「もし先を知っておるなら、もっと簡単に答えを出そうとするはずじゃ」
藤吉郎はゆっくり言った。
「だが、お主は違う。分からぬと言う。迷う。それでも、起きた時に困らぬように考える」
「……」
「それが妙なのじゃ」
藤吉郎は笑っている。
「先が見える者より、見えぬものを恐れて備える者の方が、わしは気になる」
宗助は返事をしなかった。藤吉郎はそれ以上追及しなかった。
「まあ、今はよい」
そう言って背を向ける。
「これからも見せてもらおう」
「何をですか?」
藤吉郎は振り返らずに答えた。
「お主が、どこまで変わるのかをな」
藤吉郎の姿が遠ざかっていく。宗助はその背中を見つめた。疑われている。だが、まだ何も知られてはいない。今のところは、それで十分だった。宗助は再び書付を開いた。そこには今日の出来事が記されている。筆を走らせながら、宗助は思った。歴史を知っていることは、未来を知っていることとは違う。知識だけで人を救えるわけでもない。ならば、自分が持っているものを使いながら、目の前で起きることに向き合うしかない。大きな流れを知っているからこそ、細かな出来事を軽く扱わない。その積み重ねが、いつか歴史そのものを変えることになるのかもしれない。宗助は最後に一行を書き加えた。
『先を知ることと、先に備えることは違う』
筆を置いた宗助の胸には、これまでとは違う感覚が残っていた。歴史を変えるという大きな目標は、遠い先にある。だが、そのために必要なのは、未来を言い当てることではない。今日、目の前にいる人間を守り、任された役目を果たし、一つ先のことを考えることだった。そしてその積み重ねが、宗助自身を少しずつ、ただの足軽ではない場所へと押し上げていく。
【あとがき】
第六十七話を読んでいただき、ありがとうございます。今回は宗助が「歴史を知っている」とはいっても、細かな未来まで分かっているわけではないことを改めて描きました。宗助が知っているのは大きな歴史の流れであり、目の前の人間が明日どう動くのかまでは分かりません。だからこそ、これからの宗助には知識だけではなく、自分で考え、人に任せ、起きるかもしれないことへ備える力が必要になっていきます。そして藤吉郎も、宗助に対する興味を少しずつ深めています。まだ疑いの正体には届いていませんが、宗助が普通の足軽とは違うことだけは感じ始めています。次は、宗助の判断がさらに大きな責任につながっていきます。ここまで読んでいただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。




