第六十六話 戦ではない戦
美濃から戻ってからしばらく。清洲では、次の動きに備えて兵や荷の整理が続いていた。戦場にいる時とは違い、城下には人の声が多い。商人、荷を運ぶ者、兵、村から来た者。さまざまな人間が行き交い、それぞれの都合を抱えて動いている。宗助は五人と共に、その一角で仕事をしていた。そこへ、村人らしい男が二人、険しい顔でやってきた。
「織田の兵に、米を持っていかれた」
宗助は顔を上げた。
「どこの兵ですか?」
「それは分からん。ただ、織田の旗を立てていた」
男の声には怒りが混じっている。
「いつです?」
「三日前だ」
「どれくらい持っていかれました?」
「米俵を三つ」
宗助は周囲を見た。佐吉たちもこちらを見ている。
「証文はありますか?」
「そんなもの、もらっとらん」
「兵は何人でした?」
「五、六人だった」
宗助はすぐには答えなかった。兵が村から米を受け取ること自体は珍しくない。軍勢が動けば食料は必要になる。だが、代金や証文もなく持ち去ったのであれば話は違う。
「その兵たちは、どこへ向かいました?」
「分からん。ただ、清洲へ向かう道を通った」
宗助は頷いた。
「分かりました。俺から上へ伝えます」
「伝えるだけか?」
もう一人の男が声を荒らげた。
「三俵も持っていかれて、それで終わりなのか?」
宗助は男の目を見た。
「終わりにはしません。ただ、俺が勝手に米を返すことも、兵を捕まえることもできません」
男は不満そうに黙った。
宗助は続けた。
「誰が持っていったのか分からないまま、こちらだけで決めつけることもできません。だから、まず確認します」
男たちは顔を見合わせた。
「……本当に調べてくれるんだな?」
「はい」
二人が帰った後、佐吉が口を開いた。
「宗助さん、あの人たち、本当に米を取られたんでしょうか」
「分からない」
「でも、嘘をついているようには見えませんでした」
「俺もそう思う」
宗助は少し考えた。
「だからこそ、片方の話だけで決めたくない」
宗助は源四郎のもとへ向かった。話を聞いた源四郎は、腕を組んだ。
「兵が勝手に持っていったなら、問題だな」
「はい」
「だが、軍勢が通った村なら、別の話もあるかもしれん」
「そう思います」
「なら、お前が聞いてこい」
宗助は顔を上げた。
「俺が?」
「お前が村人の話を聞いた。なら、兵の話も聞いてこい」
「分かりました」
宗助は五人を連れて、兵が立ち寄ったという場所へ向かった。そこには数日前まで使われていた仮の休憩場所が残っていた。薪の燃え跡、踏み固められた土、捨てられた縄。宗助は周囲を見た。
「誰か、この辺りを使った兵を知っているか?」
近くにいた兵へ尋ねると、一人が手を挙げた。
「三日前なら、荷駄の一団がいたはずだ」
「誰の隊です?」
「分からん。俺たちとは別だ」
宗助は聞き方を変えた。
「米を受け取ったという話を聞いていませんか?」
「米なら、村から運ばれてきたはずだ」
「誰が運んだ?」
「村の者だったと思う」
宗助は首を傾げた。
「村人から直接受け取った?」
「いや。確か、村の庄屋が兵のところへ来ていた」
話が少し変わってきた。宗助は五人に目を向けた。
「誰か、この話を覚えている者がいないか聞いてくれ」
五人がそれぞれ動く。しばらくして、佐吉が戻ってきた。
「宗助さん。別の兵から聞いたんですが、米は三俵ではなく、最初は五俵だったそうです」
「五俵?」
「はい。そのうち二俵は、その場で金と引き換えにしたそうです」
宗助は黙った。村人の話では三俵を奪われた。兵の話では五俵を受け取り、そのうち二俵は代金を払った。残った三俵だけが問題になっている。宗助は村へ戻った。
「米を渡した時、五俵だったという話があります」
「……そうだ」
村人が答えた。
「二俵分は代金をもらった。だが、残りの三俵は何もなかった」
「なぜ、その時に言わなかったんです?」
「兵が怖かった」
宗助は黙った。それなら話は単純ではない。兵が勝手に奪った可能性は残っている。だが、村人がその場で抗議できなかった理由も分かる。宗助は村人に頭を下げた。
「分かりました。俺から報告します」
「返してもらえるのか?」
「俺が約束することはできません」
村人の顔が曇る。
「ただ、聞いたことをそのまま上に伝えます。三俵を持っていかれたことも、二俵分は代金が払われたことも、両方です」
村人は黙って頷いた。清洲へ戻ると、宗助は源四郎にすべてを報告した。
「なるほどな」
源四郎は腕を組んだ。
「最初の話だけなら、兵の不法な取り立てに見える。だが、実際には代金を払った分もある」
「はい」
「それでも三俵については、証文も代金もない」
「はい」
源四郎はしばらく考えた。
「お前ならどうする?」
宗助は答えに迷った。以前なら、上の人間に判断を任せて終わっていたかもしれない。
「村には、三俵分を補うようにします。ただし、兵の側にも確認を取ります」
「なぜだ?」
「兵が本当に勝手に持っていったのなら、今後も同じことが起きます。でも、何か事情があったなら、それも知らずに罰するのは違うと思います」
源四郎は黙って宗助を見た。
「人を動かすだけじゃなく、人の間をまとめるのも仕事だと思います」
その言葉に、源四郎は少しだけ目を細めた。
「そうか」
翌日、村には三俵分の米が届けられた。兵の行動についても確認が行われることになった。すべてが宗助の判断で決まったわけではない。それでも宗助は、自分がただ命令を伝えるだけではなく、両方の話を聞き、上へ伝える役割を果たしたことを感じていた。帰り道、佐吉が隣を歩いていた。
「宗助さん」
「何だ?」
「戦場より、今日のほうが難しかったです」
宗助は少し笑った。
「俺もそう思う」
人を斬るより、人を納得させるほうが難しい。そんなことを、宗助はこの時初めて知った。そして、その日の夕方。清洲の一角で、木下藤吉郎が宗助の名前を聞いていた。
「村との揉め事を、あの若いのがまとめた?」
「まとめたというより、双方の話を聞いて上へ持っていっただけだそうです」
藤吉郎は笑った。
「それができるのが珍しいんじゃ」
報告した男が去った後、藤吉郎は一人で考えた。戦場では道を見る。荷を見れば、そこから人の動きを読む。そして今度は、人の言葉の食い違いまで拾った。
「……宗助」
藤吉郎は小さく呟いた。以前から、妙な男だと思っていた。だが、知れば知るほど、ただの勘のいい足軽では説明がつかなくなっている。それでも、今はまだ何も聞かない。聞けば、逃げるかもしれない。藤吉郎はそう考え、いつものように笑った。
「もう少し、見てみるか」
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は戦場から少し離れ、宗助が初めて「人と人の間に立つ」仕事を経験しました。
戦なら敵が分かりますが、人同士の揉め事には、それぞれの事情があります。宗助も今回、正しい答えをすぐに出すのではなく、双方の話を聞くことを覚えました。
そして、藤吉郎の中でも宗助への疑問が少しずつ大きくなっています。
宗助自身はまだ、その視線に気づいていません。
ここから少しずつ、宗助を取り巻く人物たちの見方も変わっていきます。
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