第六十一話 新たな役目
於久地を離れた織田軍は、尾張へ向かっていた。朝の街道には、戦を終えた兵たちの足音が重なっている。負傷した者は仲間に支えられ、荷駄には昨日の戦で使われた道具や、まだ使える資材が積まれていた。宗助はいつものように荷の状態を確かめていたが、以前のように自分から荷車へ手を伸ばすことはなかった。縄が緩んでいれば近くの兵に声をかけ、壊れた箇所があれば修理を頼む。自分がすべて動くのではなく、周りに任せる。それも、ここ最近になって覚えたことだった。
「宗助。」
前方から源四郎の声がした。
「はい。」
「少し来い。」
宗助は弥吉に荷駄を任せ、源四郎のもとへ向かった。
「どうしました。」
「荷駄のことは、弥吉に任せてよい。」
「弥吉に?」
「お主が見ておらずとも、あれなら大きな間違いはせん。」
宗助は後ろを振り返った。弥吉は荷車の横で兵と話をしている。
「分かりました。」
「今日から、少し仕事を変える。」
宗助は源四郎を見た。
「変える?」
「いつまでも荷駄だけを見ておるわけにもいかん。」
宗助は黙った。
その言葉を待っていたような気がした。
だが、実際に言われると、不思議と胸が落ち着かなかった。
「俺は、何をすればいいんですか。」
「わしと一緒に来い。」
源四郎は歩き出した。
「これから、お主には人を使ってもらう。」
「人を?」
「数人じゃ。大した数ではない。」
街道脇に、五人ほどの足軽が集められていた。
宗助が近づくと、兵たちは一斉に顔を上げた。
「今日から、こいつらの面倒を見ろ。」
「俺がですか。」
「そうじゃ。」
宗助は五人を見た。
年齢も体格もばらばらだった。桶狭間以後に見覚えのある顔もいれば、初めて見る者もいる。
「何をさせれば?」
「まずは、周囲を見ておけ。命じられた仕事を確実にこなす。それだけじゃ。」
「それだけ……。」
「それが難しい。」
源四郎は宗助の肩を軽く叩いた。
「お主は今まで、自分で動けばよかった。これからは違う。お主の判断で、こいつらが動く。」
宗助は五人を見た。
「分かりました。」
「それから、一つ覚えておけ。」
源四郎の声が少し低くなる。
「人を使うとは、人を偉そうに扱うことではない。」
「はい。」
「命じた者が失敗すれば、まず命じた側が何を見落としたか考えろ。」
宗助は黙って頷いた。
それは、これまで何度も源四郎から教えられてきたことと、どこか似ていた。
荷駄も同じだった。
壊れた車輪を見て、車輪だけを責めても意味がない。
道が悪かったのか。荷を積みすぎたのか。縄の締め方が悪かったのか。
原因を見なければ、また同じことが起こる。
人も同じなのかもしれない。
「まず、何をすればいいですか。」
「昼までに、前方の宿営予定地を見てこい。」
「俺たち五人で?」
「そうじゃ。」
「何を確認すれば。」
「水場。兵が休める場所。荷駄を置ける場所。それから、道の状態。」
宗助は少し考えた。
「敵が来る可能性は?」
源四郎がわずかに笑った。
「そこまで見るなら、なおよい。」
宗助は五人を振り返った。
「行くぞ。」
五人の足軽が続く。
少し歩いたところで、一人が口を開いた。
「宗助殿。」
宗助は振り返った。
「何だ。」
「どこまで見ればいいんですか。」
宗助は少し考えた。
「俺にもまだ分からない。」
兵たちは顔を見合わせた。
「だから、一緒に見る。」
そう言って、宗助は前へ進んだ。
街道から少し外れた場所に、低い丘があった。
宗助は足を止めた。
「ここから見よう。」
水場を確認する。
道幅を見る。
荷車が通れるか確かめる。
以前なら自分一人でやっていたことだ。
だが、今日は違う。
「お前は水を見てくれ。」
「はい。」
「お前は道の状態。」
「分かりました。」
「二人は向こうまで行って、道が続いているか確認してくれ。」
「はい。」
「残った一人は、ここで待っていてくれ。」
兵たちが散っていく。
宗助はその背中を見ながら、妙な感覚を覚えていた。
自分が命じた。
それだけなのに、今までとは何かが違う。
しばらくして、兵たちが戻ってきた。
「水は使えます。ただ、浅いです。」
「道は途中からぬかるんでいます。」
「向こうまで道は続いています。ただ、荷車は一台ずつしか通れません。」
宗助はそれぞれの報告を聞いた。
「分かった。」
五人を見回す。
「なら、水場は使う。ただし、兵が集中しないようにする。荷駄は別の場所に置く。道は狭いから、荷車を一度に入れない。」
一人が尋ねた。
「宗助殿、敵が来たら?」
宗助は丘の向こうを見た。
「その時は、ここを守る人数が必要になる。」
「では、誰を置きますか。」
宗助は少し黙った。
ここで初めて、自分で決めなければならないと気づいた。
「……まだ決めない。」
「決めない?」
「敵が来ていないのに、兵を余分に置けば他が薄くなる。まず源四郎殿に報告する。」
兵が頷いた。
宗助は歩き出した。
自分で決められることと、自分だけでは決めてはいけないこと。
その境目が、少しだけ分かった気がした。
昼過ぎ。
宗助たちは源四郎のもとへ戻った。
「どうだった。」
宗助は見たことを順番に報告した。
水場。道幅。ぬかるみ。荷駄の置き場所。敵が来た場合の問題。
源四郎は黙って聞いていた。
「それで?」
「水場は使えます。ただ、兵を集中させない方がいいです。荷駄は少し離して置いた方がいい。道が狭いので、荷車が重なると動けなくなります。」
「敵が来た場合は。」
「守りを置く必要があります。ただ、今の人数では決めずに、上から兵を回してもらった方がいいと思います。」
源四郎は少しだけ頷いた。
「よい。」
短い言葉だった。
だが、宗助にはそれで十分だった。
「今日から、お主はわしのそばで動け。」
「はい。」
「荷駄のことは、もう弥吉たちに任せてよい。」
宗助は一度だけ後ろを振り返った。
遠くで弥吉がこちらを見ている。
目が合うと、弥吉が手を上げた。
宗助も小さく手を上げ返した。
長かった。
桶狭間の頃は、ただ荷を運ぶことに必死だった。
戦場では、何をすればいいのか分からなかった。
美濃では、道を見て、川を見て、荷を守り、兵の動きを見た。
そして今、自分の判断で誰かを動かしている。
まだ五人だけだ。
それも、たった一日のことだ。
だが、宗助にとっては大きな一歩だった。
夕方。
宿営の準備が始まった。
宗助は荷駄の列へ戻らず、源四郎の近くで明日の動きを確認していた。
その時、後ろから声がした。
「宗助。」
振り返ると、木下藤吉郎が立っていた。
「藤吉郎様。」
「荷駄のところにおらんと思えば、こちらに来ておったか。」
「今日から少し役目が変わりました。」
「聞いたぞ。」
藤吉郎は笑った。
「人を使う側になったそうじゃな。」
「まだ五人です。」
「五人も人じゃ。」
宗助は黙った。
「荷駄なら、壊れたら直せばよい。道なら、悪ければ別の道を探せばよい。」
藤吉郎は五人の足軽へ目を向けた。
「人はそう簡単にはいかん。」
「分かっています。」
「なら、よい。」
藤吉郎は宗助の肩を軽く叩いた。
「失敗せぬ者より、失敗した後に覚える者の方が使いやすい。」
「……それは褒めているんですか。」
「もちろんじゃ。」
藤吉郎は笑いながら去っていった。
宗助はその背中を見送った。
夜。
焚き火のそばで、宗助は今日のことを書付に残していた。
荷駄から離れた。五人を任された。自分で命じた。
自分だけでは判断できないこともあった。
最後に、宗助は一行を書き加えた。
人を動かすなら、自分が先に考えなければならない。
筆を置く。
懐には、岩室長門守の名を書いた紙も入っている。
人の名を残すこと。人を動かすこと。
どちらも、これまでの自分にはなかった役目だった。
だが、その二つが少しずつ繋がり始めているような気がした。
宗助は焚き火を見つめた。
まだ、自分がどこまで行けるのかは分からない。
ただ、今日までとは違う道を歩き始めたことだけは分かっていた。
翌朝。
「宗助殿。」
昨日の五人が集まっていた。
「今日は何をしますか。」
宗助は立ち上がった。
「まず、昨日の道をもう一度見る。」
「またですか?」
「昨日見たからこそ、今日もう一度見るんだ。」
五人が頷く。
宗助は先頭に立った。
荷駄の列から離れた場所を、自分の足で歩いていく。
その背中はまだ若い。
だが、もう一人で歩いているわけではなかった。
宗助の後ろには、五人の兵がついている。
それは、ほんの小さな変化だった。
けれど宗助にとっては、武士への道を進むための最初の一歩だった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、於久地での戦いを終えた宗助が、これまでの荷駄役から一歩離れ、源四郎の下で少人数の足軽を任される話としました。
ここから宗助の役目は少しずつ変わっていきます。ただ仕事の種類が変わるだけではなく、自分自身が動く立場から、人を動かす立場へ。その経験が、やがて一人の武士として認められていくことにつながっていきます。
これまで宗助が積み重ねてきた荷駄、道、戦場での経験が、ようやく次の役目へ繋がり始めています。
於久地の戦いは永禄4年(1561年)6月下旬の出来事として扱われることが多く、『信長公記』でも小口・於久地への出陣と小姓衆の先陣、岩室長門守の討死が記されています。年代比定には研究上の議論もありますが、本作ではこれまでの流れに合わせて永禄4年として進めています。
そして、ここから宗助は少しずつ「名前を知られる側」へ進んでいきます。
次回『第六十二話 初めて人を動かす』




