第六十話 名を呼ぶ者
於久地を離れた織田軍は、朝の街道を進んでいた。戦場を離れれば、兵たちの表情も少しずつ戻っていく。だが、誰も昨日の戦いを口にしなかった。荷駄の列を歩く宗助も、いつもより口数が少なかった。背後に残した於久地を振り返ることはなかった。ただ、懐に入れた書付だけが気になっていた。そこには、昨夜書いた一人の男の名前がある。
岩室長門守。
まだ、その名前を何度も書く気にはなれなかった。書けば書くほど、その男を知っているような気がしてしまう。だが、宗助は岩室のことをほとんど知らない。だからこそ、余計なことを書かず、名前だけを残した。
「宗助。」
前を歩いていた源四郎が振り返った。
「はい。」
「昨夜の紙は持っておるか。」
「持っています。」
「見せてみよ。」
宗助は懐から紙を取り出した。
源四郎は歩きながら目を落とす。
「岩室長門守。」
書かれている名前を、源四郎が口にした。
「はい。」
「それだけか。」
「はい。」
「何も書かぬのか。」
「まだ、俺が書けることがありません。」
源四郎はしばらく黙っていた。
「それでよい。」
「でも、記録としては足りないですよね。」
「知らぬことまで書く必要はない。」
源四郎は紙を返した。
「お主がその男を知った時に、続きを書けばよい。」
宗助は紙を受け取った。
「知る時……。」
「戦場で人を知るとは、そういうものじゃ。」
それだけ言って、源四郎は前を向いた。
宗助は紙を懐へ戻した。その言葉が、妙に残った。
しばらく進むと、前方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
道を開けるように兵たちが左右へ寄る。
一頭の馬が荷駄の横を通り過ぎようとした。
「宗助。」
突然、声がした。
宗助が顔を上げる。
馬上にいたのは、柴田修理亮だった。
「修理亮様。」
「昨日、岩室の名を書いていたそうだな。」
宗助は少し驚いた。
「ご存じだったんですか。」
「源四郎から聞いた。」
「はい。」
柴田は馬を止めた。
「なぜ書いた。」
「忘れたくなかったからです。」
「岩室をか。」
「名前だけでも。」
柴田は宗助を見た。
しばらくして、口元をわずかに緩めた。
「お主は変わったな。」
「そうでしょうか。」
「美濃へ行く前のお主なら、戦死した者の名前を自分から残そうとはせなんだ。」
宗助は返事をしなかった。
「ですが、知らない人です。」
「それでも書いた。」
「はい。」
柴田は少し考えた。
「ならば覚えておけ。」
「何をですか。」
「戦場で名を残す者は、武功を立てた者だけではない。」
宗助は顔を上げた。
「人を支えた者もいる。命を救った者もいる。道を作った者もいる。そして、そうした働きを後から伝える者も必要じゃ。」
柴田は荷駄へ目を向けた。
「お主の仕事も、その一つかもしれんな。」
宗助は驚いた。
以前、柴田から掛けられた言葉を思い出す。
あの時も、荷駄の様子を尋ねられた。
自分のしていることを、ただの雑用だと思っていた。
だが、今は少し違う。
「ありがとうございます。」
「礼を言われるほどのことではない。」
柴田は馬を進めようとした。
「修理亮様。」
宗助が呼び止める。
「何じゃ。」
「岩室様は、どんな方だったんですか。」
柴田は振り返った。
「昨日も聞いたのではないか。」
「もっと知りたくなりました。」
柴田は少し黙った。
「わしが語れることは多くない。」
「それでも。」
柴田は馬上から宗助を見下ろした。
「ならば、いずれ誰かに聞け。」
「誰にですか。」
「岩室を長く知っていた者にな。」
それだけ言うと、柴田は馬を進めた。
宗助はその背中を見送った。
誰に聞けばいいのかは分からない。
だが、昨日までは知らなかった名前が、今日は少しだけ近くなった気がした。
昼を過ぎる頃、織田軍は一度足を止めた。
兵たちが昼食を取り、荷駄の確認が始まる。
宗助も荷車を見て回った。
「この縄、替えた方がいいです。」
「まだ使えるぞ。」
「昼のうちに替えておいた方がいいです。夜になって切れたら面倒なので。」
「お主は本当に細かくなったな。」
兵が笑う。
「美濃で何度も困ったので。」
宗助も少し笑った。
すると、後ろから別の声がした。
「宗助。」
振り返る。
木下藤吉郎だった。
「藤吉郎様。」
「忙しそうじゃの。」
「荷駄を見ています。」
「見れば分かる。」
藤吉郎は荷車を覗き込んだ。
「昨日より荷が減っておるな。」
「使った分がありますから。」
「それなら、帰るまでに何が足りなくなるか考えておけ。」
「帰るまでに?」
「そうじゃ。」
宗助は少し考えた。
「縄と板は足りなくなると思います。あと、食料も。」
「他には。」
「替えの車輪も、一つ用意した方がいいです。」
藤吉郎は笑った。
「ずいぶん即答するようになったな。」
「美濃で困ったので。」
「そればかりじゃな。」
「失敗したことは覚えています。」
「それはよいことじゃ。」
藤吉郎はそう言って、宗助の手元を見た。
「ところで、書付は持っておるか。」
「はい。」
「また何か書いたのか。」
「岩室様の名前を。」
藤吉郎の表情が少し変わった。
「そうか。」
「昨日、初めて名前を知ったので。」
「岩室は、昔から信長様のお側にいた男じゃ。」
宗助は顔を上げた。
「藤吉郎様もご存じだったんですか。」
「もちろんじゃ。」
「どんな方でしたか。」
藤吉郎は少し考えた。
「わしが語るより、信長様の近くにいた者へ聞いた方がよい。」
「柴田様にも同じことを言われました。」
「なら、聞いてみるとよい。」
藤吉郎は笑った。
「人の話を聞くのも、記録する者の仕事じゃろう。」
宗助は頷いた。
「はい。」
その日の夕方。
織田軍は宿営の準備に入った。
宗助は荷駄を整理しながら、何度も同じことを考えていた。
岩室長門守。
戦場で死んだ男。
信長の若衆。有能だったという話。
それだけでは、人となりは分からない。
どんな声だったのか。どんな顔で笑ったのか。
どんな時に怒ったのか。
どんな仕事をしていたのか。
宗助には何も分からない。
だからこそ、知りたかった。
夜。
宗助は焚き火のそばで書付を開いた。
岩室長門守。
その下に、初めて一行を書き足す。
「信長様の若衆として仕え、於久地にて討死。」
筆を止める。
それだけではない。
柴田から聞いたこと。
藤吉郎から聞いたこと。
そして、これから聞くこと。
宗助は余白を残したまま紙を閉じた。
まだ、書くには早い。
だが、いつかこの紙が埋まる日が来るかもしれない。
「宗助。」
弥吉が隣へ座った。
「何を書いておる。」
「岩室様のことです。」
「まだ気にしておるのか。」
「はい。」
「そうか。」
弥吉は火を見つめた。
「なら、忘れんことじゃ。」
「はい。」
「ただし、自分まで背負い込むな。」
宗助は黙った。
「戦で死んだ者を全部背負っていたら、お主の荷駄より重くなるぞ。」
「……それは困りますね。」
「そうじゃ。」
二人は小さく笑った。
夜の闇の中で、焚き火が静かに燃えている。
宗助は火を見ながら、自分の役目について考えた。
荷を運ぶ。荷を守る。道を見る。戦場を見る。
そして、見たものを残す。
それだけだったはずなのに、いつの間にか、人の名前まで残そうとしている。
それが何を意味するのか、今の宗助にはまだ分からない。
ただ一つ分かることがある。
名前を知れば、その人間を知りたくなる。
そして、人を知れば、その人間が生きていた場所や、仕えていた主君のことも知りたくなる。
宗助は懐の書付を確かめた。
そこには、まだ余白がある。
その余白が、これから何を埋めていくのか。
宗助にはまだ分からなかった。
翌朝。
織田軍は再び動き始めた。
宗助は荷駄の列へ戻る。
いつもの仕事だ。
だが、昨日までとは少しだけ違っていた。
宗助は前を歩く兵たちの名前を、少しずつ覚え始めていた。
荷駄を引く者。縄を結ぶ者。車輪を直す者。水を運ぶ者。
それぞれに名前がある。
戦場では、誰か一人の働きが軍全体を支えることがある。
ならば、その名前も残しておきたい。
宗助はそう思った。
その時、前方から伝令が走ってきた。
「宗助!」
呼ばれて振り返る。
「何ですか。」
「源四郎殿がお呼びじゃ!」
「俺を?」
「すぐ来いとのことじゃ!」
宗助は荷駄を見た。
弥吉が頷く。
「行ってこい。」
宗助は走り出した。
源四郎が待っている。
何の用なのかは分からない。
だが、これまでとは違う話になる気がした。
宗助は足を速めた。
その先で待っていたのは、これまで自分が受けたことのない、新しい役目だった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、於久地からの撤収後、宗助が岩室長門守の死をきっかけに、「人の名前を残す」ということを意識し始める話としました。
岩室長門守は『信長公記』に、信長の若衆として仕えた人物として登場し、於久地の戦いで討死した際には、信長がその死を大いに惜しんだと記されています。
今回の本文では、史実として確認できる岩室の人物像をそのまま宗助に詳しく語らせるのではなく、「宗助がこれから岩室という人物を知っていく」という形にしました。まだ知らないことを知ったふりで埋めてしまうと、記録ではなく創作の都合になってしまうので、そこは地味に大事です。
また、於久地攻めの後には、織田信長が小牧山へ移る流れが史料上確認されています。小牧山と於久地が近接していたことも記されており、今後の織田家の動きを描くうえで重要な転換点になります。
宗助自身も、これまでの「荷駄を扱う者」から、戦場で見たことを記録し、人の働きまで意識する段階へ進み始めました。
そして最後に源四郎から呼び出されたことで、宗助の役目がもう一段変わろうとしています。
次回『第六十一話 新たな役目』




