第五十九話 戦のあと
戦が終わった後の陣は、戦っている時より静かだった。於久地の惣構から離れた織田軍では、負傷した兵が次々と運ばれている。折れた槍。血のついた布。泥にまみれた具足。さっきまで人の声で満ちていた場所に、今は呻き声と足音だけが残っていた。宗助は荷駄のそばで、使い終えた板をまとめていた。
「その板、捨てるんですか。」
兵に尋ねる。
「割れておるものはな。」
「割れている場所だけ切れば使えます。」
「まだ使うつもりか。」
「次に必要になるかもしれません。」
兵は苦笑した。
「戦が終わったばかりだぞ。」
「だからです。」
宗助は板を拾い上げた。泥を落とす。割れた部分を確かめ、使えるものと使えないものを分けていく。その時、少し離れた場所から声が聞こえた。
「岩室様の遺骸はどこだ。」
宗助の手が止まった。岩室長門守。今日、於久地で討死した男。戦場で聞いた名前だった。周囲の兵たちも口数が少ない。信長の若衆として仕え、桶狭間以来、幾度も戦場に立ってきた人物だと宗助は聞いていた。
「宗助。」
源四郎が近づいてきた。
「はい。」
「荷駄の整理が終わったら、負傷兵のところへ行け。」
「何か手伝うことが?」
「運ぶものがある。」
「分かりました。」
宗助は板を置き、源四郎の後を追った。負傷兵が集められている場所には、簡素な天幕が張られていた。兵たちが水を運び、布を切り、傷口を押さえている。
「この者をあちらへ。」
「はい。」
「次はこの男じゃ。」
宗助も手を貸した。肩を負傷した兵を支える。足を引きずる兵を運ぶ。途中で何度も足を止めながら、一人ずつ横に寝かせていく。戦っている時には、誰がどこで傷ついたのか分からなかった。今になって、それが一人ずつ目の前に現れてくる。
「宗助。」
声を掛けられて振り返る。柴田修理亮だった。
「修理亮様。」
「負傷兵はこれで全てか。」
「まだ向こうに何人かいます。」
「分かった。」
修理亮は周囲を見渡した。いつもの厳しい顔だった。だが、今日は少し違って見える。
「岩室のことは聞いたか。」
「はい。」
「そうか。」
それだけ言うと、修理亮はしばらく黙った。
「惜しい男だった。」
宗助は返す言葉がなかった。戦場では、敵も味方も人の姿をしている。それを頭では知っていた。だが、今日初めて、戦が終わった後に残るものを目の前で見た気がした。
「修理亮様。」
「何じゃ。」
「岩室様は……どんな方だったんですか。」
修理亮は少しだけ宗助を見た。
「働きのある男じゃった。」
「それだけですか。」
「戦場で余計なことをせず、必要な時には前へ出る。信長様からの信頼も厚かった。」
修理亮はそこで言葉を切った。
「だからこそ、惜しい。」
宗助は黙って頭を下げた。しばらくして、陣の空気が変わった。兵たちが道を開ける。宗助が振り返ると、信長が歩いてきていた。その後ろには数人の家臣が続いている。信長は負傷兵の並ぶ場所を見渡した。誰かに声を掛けることもなく、一人ずつ目を向けていく。やがて、岩室の遺骸が置かれている場所で足を止めた。誰も声を上げない。信長も何も言わなかった。ただ、しばらくその場に立っていた。宗助は少し離れたところから、その姿を見ていた。いつもの信長とは違う。怒っているようにも見えない。泣いているわけでもない。ただ、動かなかった。
「宗助。」
弥吉の声が小さく聞こえた。
「はい。」
「見るな。」
宗助は前を向いた。その言葉には、前日の源四郎とは違う重さがあった。やがて信長が歩き出す。
「明朝、引く。」
低い声が響いた。
「はっ。」
家臣たちが一斉に頭を下げる。於久地を落とすことはできなかった。だが、信長はそこで立ち止まるつもりもないらしい。戦が終われば、次の場所へ動く。そのための準備が始まる。宗助は荷駄置き場へ戻った。
「明朝撤収です!」
兵たちへ声を掛ける。疲れた兵たちが立ち上がる。
「また荷をまとめるのか。」
「はい。」
「今日一日で何度目じゃ。」
「数えてません。」
「お主は平気そうじゃな。」
「平気ではないです。」
宗助は笑わなかった。
「ただ、やることがあるので。」
兵は少し黙り、それから荷車へ向かった。夜が深くなる。宗助は一台ずつ荷車を確認した。壊れた車輪。足りない縄。泥のついた板。使えるものと捨てるものを分ける。その横では、兵たちが翌朝の撤収準備を進めている。宗助は書付を開いた。今日の出来事を書こうとした。於久地。惣構。負傷者。撤収。そこまで書いて、筆が止まる。岩室長門守。その名前を書こうとして、しばらく動けなかった。やがて、宗助はゆっくりと筆を置いた。戦場で起きたことを記録する。それが自分の役目だと思っていた。けれど、人の死を数字だけで残すことはできない。十人負傷。一人討死。それだけでは、その人がそこにいたことまで残らない。宗助は新しい紙を取り出した。そして、名前を書いた。岩室長門守。その下には何も書かなかった。まだ、自分には書けることがなかった。
「宗助。」
源四郎が声を掛けた。
「はい。」
「何をしておる。」
「名前を書いていました。」
「誰のじゃ。」
「岩室様です。」
源四郎は紙を見た。しばらくして、静かに頷いた。
「それでよい。」
「これだけでいいんでしょうか。」
「今はな。」
源四郎は前を向いた。
「いつか、お主自身がその男のことを知る日も来る。」
宗助は紙を見つめた。知らない。まだ何も知らない。けれど、今日この戦場で死んだ一人の男の名前だけは覚えておこうと思った。夜明けが近づいていた。織田軍は於久地を離れる。宗助は最後の荷車を確認し、縄を結び直した。
「よし。」
荷車を押す。戦場を離れる準備は整った。だが、宗助は一度だけ於久地を振り返った。昨日まで、ただの知らない土地だった。今は違う。そこには、死んだ人間の名前が一つ残っている。そして、その名前は宗助の書付にも残った。軍勢が動き始める。宗助も歩き出した。戦は終わった。だが、終わったからこそ見えるものがある。勝ったか負けたかだけではない。誰が生き残り、誰が帰れなかったのか。何を失い、何を持ち帰るのか。そして、そのすべてを次の戦へどう繋げるのか。宗助は前を向いた。まだ知らない戦が、これからも続いていく。その中で、自分が何を残せるのか。それを考えながら、織田軍の列は朝の道を進んでいった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は於久地での戦いを終えた後、宗助が初めて「戦の勝敗」ではなく、その後に残るものへ目を向ける話としました。
史実では、於久地への攻撃で織田方に負傷者が出たほか、信長の若衆であった岩室長門守が討死したことが『信長公記』に記されています。岩室は「隠れなき器用の仁」と記されるほど評価されており、信長もその死を大いに惜しんだとされています。
本文では、この史実を踏まえ、宗助が岩室の死を「一人の戦死者」として処理するのではなく、その名前を記録に残す場面を描きました。
宗助はまだ大きな武功を立てる武将ではありません。
それでも、戦場で見たものを記録し、人の動きを支え、そこから次に必要なことを考える。その積み重ねが、少しずつ宗助自身の役割を変えていきます。
そして、於久地での戦いを経験した織田家にも、次の動きが待っています。
次回『第六十話 名を呼ぶ者』




