第五十七話 新たな役目
六月。
清洲の空は朝から重く曇っていた。
城下では、いつもより早く荷車が動いている。
兵たちの姿も多い。
宗助は荷駄置き場へ向かう途中、その様子を見ていた。
「また動くみたいですね。」
隣を歩く弥吉が答えた。
「そのようじゃ。」
「美濃ですか。」
「おそらくな。」
宗助は足を速めた。
荷駄置き場では、すでに兵たちが忙しく動いていた。
米俵が積まれ、矢が束ねられ、縄や油、鍬や鋤まで運び込まれている。
宗助は荷車を一台ずつ見ていった。
「この車は後ろへ。」
「なぜじゃ。」
「前の道が悪かったら、すぐ使えるように替えの車輪を積んだ車を前に置きます。」
「前に置いたら戦の邪魔にならんか。」
「戦場まで持っていくわけではありません。途中で壊れた荷車を直すためです。」
兵が納得したように頷いた。
宗助は次の荷車へ移る。
「こっちは水を積みすぎています。」
「減らすのか。」
「全部は減らしません。ただ、兵が持つ分と荷車で運ぶ分を分けた方がいいです。」
言いながら、宗助は書付を確認した。
美濃へ向かった時には、こんな判断はできなかった。
だが、今は違う。
何が必要なのか。何を分けるべきなのか。
何をすぐ使える場所へ置くべきなのか。
経験したことが、少しずつ手の中に残っている。
「宗助。」
振り返る。
源四郎が立っていた。
「はい。」
「準備は。」
「進んでいます。」
「そうか。」
源四郎は荷車を見回した。
「今回は、前より動かしやすそうじゃな。」
「美濃で困ったことを直しました。」
「それでよい。」
その時、城の方から使いが走ってきた。
「出陣の触れが出た!」
荷駄置き場の空気が変わる。
宗助は一瞬だけ手を止めた。
やはり、美濃だった。
「いつですか。」
弥吉が尋ねる。
「すぐじゃ。支度を急げとのことだ。」
兵たちが一斉に動き始めた。
宗助も荷車へ向かう。
もう、前のような不安はなかった。
怖くないわけではない。
ただ、何をすればいいのかが分かる。
それだけで、足は動いた。
昼前。
織田軍は清洲を出た。
兵の列が街道を進み、荷駄がその後ろに続く。
宗助は歩きながら、周囲を見ていた。
今回の行軍は、前回とは少し違う。
兵たちの動きが速い。
荷駄も乱れていない。
美濃での経験が、軍全体に残っているわけではない。
それでも、自分の周囲だけは確かに変わっていた。
「宗助。」
前方から声がした。
柴田修理亮だった。宗助は頭を下げる。
「修理亮様。」
「荷駄の様子はどうだ。」
「今のところ問題ありません。」
「今のところ、か。」
「はい。道が悪くなれば変わると思います。」
修理亮は少し笑った。
「前より慎重になったな。」
「美濃で痛い目を見ましたから。」
「それでよい。」
修理亮は荷駄を一度見てから前へ戻っていった。
その姿を見送り、宗助は小さく息を吐いた。
以前なら、修理亮に声を掛けられるだけで緊張していた。
今は違う。
まだ緊張はする。だが、自分の仕事を話せる。
「ずいぶん慣れたの。」
弥吉が笑った。
「慣れてはいません。」
「そうかの。」
「ただ、何を聞かれているのかは分かるようになりました。」
弥吉は満足そうに頷いた。
やがて軍勢は尾張と美濃の境へ近づいた。
宗助の胸に、あの土地の景色が浮かぶ。
森部。洲俣。十四条。軽海。
だが、今回は以前とは違う場所へ向かうらしい。
「於久地へ向かうそうじゃ。」
伝令から聞いた兵が話している。
宗助はその地名を聞き、書付を開いた。
「於久地……。」
まだ行ったことのない場所だった。
だからこそ、今回は最初から見る。
道。川。村。荷駄を置く場所。
敵が動きそうな場所。
宗助は紙の端へ書き込んだ。
その時、前方から激しい音が響いた。
太鼓だった。
軍勢が止まる。
「敵か?」
兵たちが槍を構える。
だが、前方から戻ってきた伝令は首を振った。
「於久地の惣構へ近づいたとのこと!」
宗助は前を見る。
遠くに土塁が見え始めていた。
城そのものはまだ見えない。
しかし、道を塞ぐように構えられた防御がある。
「ここから先は荷駄を前へ出すな。」
源四郎が言った。
「はい。」
宗助はすぐに荷車を止める。
だが、そこで一つ気づいた。
道の両側に細い脇道がある。
兵が進めば、荷駄を避ける場所がなくなる。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「荷駄を少し右へ寄せます。」
「理由は。」
「このままだと戻ってくる兵の道が塞がります。」
源四郎は周囲を見た。
「よし。」
宗助は兵たちへ指示を出す。
荷車を動かす。
縄を外す。
車輪の向きを変える。
一台ずつ位置を変えていく。
その間にも前方では声が上がっていた。
「押せ!」
槍を持った兵たちが前へ走る。
宗助は荷駄を見た。
戦いが始まる。
だが、自分がやることは変わらない。
荷を守る。
道を空ける。
必要な時に動かせるようにする。
それだけだった。
やがて、惣構の向こうから激しい物音が響いた。
兵たちが攻め込んでいる。
宗助は思わず前へ出そうになった。
だが、足を止める。
自分が行けば、荷駄の監視が手薄になる。
それは、今の自分の役目ではない。
その時だった。
「宗助!」
弥吉が叫ぶ。
「何ですか!」
「あの荷車を見ろ!」
振り返る。
一台の荷車が傾いていた。
車輪が地面へ沈みかけている。
宗助はすぐに駆け寄った。
「止めてください!」
兵たちが荷車を止める。
「ここで無理に押したら、車輪が折れます。」
「どうする。」
「荷を一度だけ軽くします。」
宗助は積んである荷を確認した。
「この二袋を外してください。」
「分かった。」
荷を下ろす。
その間に、宗助は周囲から板を集めた。
「車輪の下へ入れます。」
板を差し込む。
兵たちが押す。
車輪がゆっくり動いた。
「抜けました!」
荷車が固い地面へ戻る。
宗助は息を吐いた。
その直後、前方から大きな歓声が上がった。
織田方の兵が惣構へ押し入ったらしい。
宗助は顔を上げた。
だが、そこで歓声が終わらなかった。
まだ戦は続いている。
土塁の向こうから矢が飛ぶ。
兵たちが身を低くする。
「荷駄を下げますか。」
宗助が源四郎を見る。
「いや。」
「では、この位置で。」
「そうじゃ。」
源四郎が頷く。
「お主の判断でよい。」
宗助は前を見た。
以前なら、ここで迷っていただろう。
だが今は、何を基準に決めればいいか分かっている。
敵との距離。兵の通る道。荷車の状態。
そして、退く時に残しておく道。
宗助は荷駄の位置をもう一度確認した。
戦は続いている。
だが、自分の仕事も続いている。
その日の夕方。
於久地の周辺には、戦の跡が残っていた。
織田方にも負傷した兵がいる。
宗助は荷駄の確認を終え、書付を開いた。
これまでとは違うことを書き始める。
「於久地。惣構付近。荷駄待機位置……。」
筆が止まる。
宗助は少し考えた。
そして、その下へ書き足した。
「前回の経験が役に立った。」
それだけ書いて、筆を置いた。
美濃で経験したことが、初めて次の戦場で役に立った。
それは小さなことだった。
だが、宗助にとっては大きかった。
「宗助。」
声がした。
振り返ると、木下藤吉郎が立っていた。
「藤吉郎様。」
「また書いておるのか。」
「はい。」
「何を書いた。」
「荷駄を置いた場所と、今日困ったことです。」
藤吉郎は紙を覗き込む。
「困ったことばかり書くのか。」
「困ったことの方が、次に役に立つので。」
藤吉郎が笑った。
「なるほどのう。」
そして、紙から顔を上げる。
「だが、今日は一つ違うものも書いておけ。」
「何ですか。」
「上手くいったことじゃ。」
宗助は少し驚いた。
「上手くいったこと……。」
「失敗ばかり残せば、次に何を真似すればよいか分からぬ。」
宗助は藤吉郎を見た。
「確かに。」
「それに、人は失敗より成功の方が忘れやすい。」
藤吉郎は笑った。
「わしもよく忘れるからな。」
「藤吉郎様でもですか。」
「人間じゃからの。」
宗助は思わず笑った。
そして、紙の下へ新しい一行を書いた。
「於久地では、荷駄を早めに下げたことで兵の通路を確保できた。」
筆を置く。
藤吉郎が頷いた。
「それでよい。」
遠くでは、まだ兵たちの声が聞こえている。
今日の戦は、宗助にとって大きな勝利ではなかった。
誰かを討ち取ったわけでもない。
敵の陣を一人で崩したわけでもない。
ただ、荷駄を守り、道を空け、経験を次へ繋げた。
それでも。
宗助は、自分が少しずつ前へ進んでいることを感じていた。
美濃へ行く前とは違う。
美濃から帰った時とも違う。
次に軍が動けば、また新しいことを覚える。
その積み重ねの先に、自分がまだ知らない何かがある。
夜。
宗助は書付を閉じた。
その表紙へ、新しく日付を書き込む。
美濃で終わったと思っていた記録は、まだ続いている。
そして今度は、ただ戦場を記録するだけではない。
自分自身の働きも、そこへ残り始めていた。
その夜、清洲から届いた別の伝令が陣へ入った。
「明朝、軍勢の一部を動かすとのこと!」
宗助は顔を上げた。
於久地での戦は、まだ終わっていない。
そして、織田軍の次の動きも始まろうとしていた。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第三章最初の実戦として、今回は六月の織田軍による於久地への攻撃を背景に、宗助が美濃で得た経験を実際の戦場で活かす話としました。
第二章までの宗助は、失敗を記録して次に備えるところまで成長しました。今回は、その「次」が初めて訪れています。準備したことが実際に役立つことで、宗助の成長を読者にも実感できるようにしています。
史実では『信長公記』に永禄四年六月の於久地(小口)攻めが記されており、織田軍が惣構へ攻め入り、数刻にわたって戦い、織田方にも負傷者が出たとされています。ただし、この出来事の具体的な日付や、永禄四年ではなく別年の可能性を指摘する研究もあるため、本文では日付を断定せず、六月の出来事として扱いました。
第三章『名を継ぐ者』では、実戦、功績、人物との関係、そして宗助自身の立場が少しずつ変わっていく展開へ進めていきます。
次回『第五十八話 小さな命令』




