第五十四話 帰還
美濃の山々が、少しずつ遠ざかっていた。織田軍は尾張へ向かって進んでいる。宗助は荷駄の列の後ろを歩きながら、何度も振り返った。洲俣を離れてから、しばらく経っている。後ろには、もう織田軍の陣は見えない。
「宗助。」
前を歩いていた源四郎が振り返った。
「はい。」
「何度も後ろを見るのう。」
「……少し気になって。」
「何がじゃ。」
「また、あそこへ戻ることがあるのかなと思って。」
源四郎はしばらく美濃の方角を見た。
「分からぬ。」
「そうですよね。」
「だが、覚えておけ。」
「はい。」
「一度戦った場所を、二度目に見る時は景色が違う。」
宗助はその言葉を聞いて、黙って美濃を見た。初めて来た時は、敵の土地だった。森部では敵兵だけを見ていた。二度目に来た今回は、村を見た。焼かれた家を見た。逃げる人を見た。古い道を見た。川を見た。そして、十四条と軽海で実際に敵と戦った。
「……本当に、違いますね。」
「何がじゃ。」
「最初に来た時より、あの土地のことを知っています。」
源四郎は何も言わなかった。
宗助は懐へ手を入れた。そこには、今回の美濃で書き留めた書付が入っている。道のこと。川のこと。村のこと。敵の動き。そして、荷駄を動かした時に起きたこと。書き始めた頃より、ずいぶん増えていた。
「それ、帰ったらどうするんじゃ。」
弥吉が横から覗き込んだ。
「整理します。」
「また書くのか。」
「忘れたくないので。」
「何をじゃ。」
宗助は少し考えた。
「失敗したことです。」
弥吉が眉を上げる。
「失敗?」
「道を見間違えそうになったこともありました。荷駄を動かすタイミングも、最初は分かりませんでした。」
「ずいぶん正直に書くのう。」
「失敗を書かないと、次に同じことをすると思うんです。」
弥吉はしばらく黙っていた。やがて、小さく笑った。
「なるほどの。」
「何ですか。」
「お主、本当に変わったな。」
宗助は苦笑した。
「自分では分からないです。」
「わしには分かる。」
その時、前方から兵が駆けてきた。
「源四郎殿!」
「どうした。」
「先ほどの負傷兵の一人、熱が出ております。」
源四郎の顔が変わった。
「医師へ知らせよ。」
「はっ。」
兵が走っていく。
宗助はその様子を見ていた。戦場を離れたからといって、戦が終わったわけではない。傷を負った者は、帰る途中でも苦しんでいる。荷駄も同じだった。壊れた車輪を直さなければならない。減った食料を数えなければならない。失った武具を確認しなければならない。戦が終わった後だからこそ、次の戦の準備が始まる。
「宗助。」
「はい。」
「荷駄の食料をもう一度見ておけ。」
「分かりました。」
宗助は荷車へ向かった。数を確認する。残っている米。乾物。水。矢。縄。替えの車輪。戦の前には十分にあると思っていたものが、今ではずいぶん少なくなっている。
宗助は一つずつ書き留めた。
「米、これだけ。」
「矢は?」
「矢も減っています。」
「縄はまだある。」
「替えの車輪が足りません。」
兵が頷く。宗助は書付に数字を記した。
その時、ふと思った。これを清洲へ持ち帰れば、次に軍が動く時の準備に使える。今回の戦で何が足りなくなったのか。どこで荷駄が止まったのか。どんな道が通りにくかったのか。それを残しておけば、次は同じ失敗を減らせる。
「宗助。」
源四郎が戻ってきた。
「何をしておる。」
「次の準備に使えるように、足りなかったものを書いています。」
「次の準備?」
「はい。」
源四郎は書付を見た。
「お主は、もう次の戦のことを考えておるのか。」
「戦が終わったばかりですけど。」
「だからじゃ。」
源四郎は書付を返した。
「戦が終わってから次の戦が始まるまでの間に、できることは多い。」
宗助はその言葉を胸に刻んだ。
軍が進む。日が傾き始める。やがて、遠くに尾張の土地が見え始めた。宗助は少しだけ肩の力を抜いた。
帰ってきた。
そう思った。
だが、不思議だった。安心すると同時に、少し物足りなさも感じていた。戦場へ行く前の自分なら、早く帰りたいと思っていただろう。今は違う。もう少し知りたい。今回見たことを、もっと整理したい。次に美濃へ行くことがあれば、今度は何を見ればいいのか考えたい。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「俺、次に美濃へ行ったら……。」
宗助はそこで言葉を止めた。
「何じゃ。」
「もっと役に立てるようになりたいです。」
源四郎は宗助を見た。
「今でも役には立っておる。」
「でも、まだ足りません。」
「そう思うなら、帰ってから学べ。」
「学ぶ?」
「道だけではない。兵の数、食料の量、荷駄の必要数。戦は槍だけで決まるものではない。」
宗助は頷いた。
「はい。」
「それから、字も覚えろ。」
「字ですか。」
「自分で書いたものを、他人が読めなければ意味がない。」
宗助は自分の書付を見た。確かに、急いで書いた文字は自分にしか読めないところもある。
「……分かりました。」
「帰ったら直せ。」
弥吉が後ろから声を上げた。
「源四郎殿、それならわしも字を習わねばならんのう。」
「お主はまず自分の名前を書けるようになれ。」
「それは厳しい。」
宗助は思わず笑った。長かった美濃からの道のりで、初めて自然に笑えた気がした。
やがて、織田軍の列は尾張へ入っていく。美濃の山々が遠くなる。宗助は懐の書付を握った。
今回の戦で持ち帰るものは、荷駄だけではない。経験も。失敗も。見た景色も。そして、次に活かすための記録も。それらを持って帰る。
清洲へ戻れば、また日常が始まる。だが、宗助にとっては以前と同じ日常にはならない。
美濃へ行く前の自分と、帰ってきた自分。何が変わったのか。それを確かめるのは、これからだった。
夕暮れ。遠くに清洲へ続く道が見えてきた。宗助は前を向いた。
美濃での戦は終わった。だが、そこで得たものは、まだ終わっていない。それは次の戦へ。そして、自分自身の次の一歩へ繋がっていく。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は第五十三話で洲俣を引き払った後の帰還の道中を描きました。「戦場から帰った後に何を持ち帰るのか」という部分に焦点を当てています。
史実では、永禄四年五月二十四日に織田軍は洲俣へ戻り、その後洲俣の要害を引き払って尾張へ撤収しています。今回はその史実上の撤収後を、宗助の視点から描いた形です。
今回の美濃攻めを通して、宗助は少しずつ「言われた仕事をする」段階から、「自分で考え、記録し、次に活かす」段階へ進んできました。
ここからは、その経験を次の展開へ繋げていきます。
次回『第五十五話 書付に残る戦』




