第五十五話 書付に残る戦
清洲へ戻った翌朝。宗助は、いつもより早く目を覚ました。美濃へ出る前と同じ朝だった。城下には人の声があり、荷車が行き交い、商人たちが店を開け始めている。戦場から離れれば、すべてが元に戻ったように見えた。だが、宗助にはそうは見えなかった。道を歩く人々を見ても、荷車を見ても、以前とは違うところに目が向く。どれだけの荷を積めるのか。車輪は壊れていないか。道幅は十分か。もし軍がここを通るなら、どこで詰まるのか。美濃へ行く前には、そんなことを考えたこともなかった。
「宗助。」
声を掛けられて振り返ると、源四郎が立っていた。
「はい。」
「書付を持っておるか。」
「持っています。」
「来い。」
源四郎はそれだけ言うと歩き始めた。
「どこへ行くんですか。」
「報告じゃ。」
宗助は少し驚いた。
「俺もですか。」
「お主の書いたものを使う。」
その言葉を聞いて、宗助は懐の書付を握った。向かった先には、帰還した兵たちの報告をまとめる者たちが集まっていた。今回の戦でどれだけの兵が動いたのか。何を失ったのか。どこで戦ったのか。戻ってきた者たちから次々と話を聞き、書き留めている。宗助はその様子を見て、少し緊張した。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「ここで何をするんですか。」
「お主の書付を見せる。」
宗助は紙を取り出した。道の状態。川を渡った場所。荷駄が止まった場所。必要だった物資。失ったもの。そして十四条や軽海で荷駄を動かした時のこと。書き始めた時は、自分が忘れないためだけの記録だった。それを、今は他人が見る。
「これが、お主の書いたものか。」
記録をまとめていた男が尋ねた。
「はい。」
「ずいぶん細かいな。」
「忘れないように書いただけです。」
「それで十分じゃ。」
男は書付をめくった。
「この川は、荷車を通すのに時間がかかったのか。」
「はい。川岸の地面が柔らかくて、一台車輪が沈みました。」
「こちらの道は。」
「ぬかるんでいました。荷車を一度に通すと、後ろの車がもっと沈むので、間を空けた方が通りやすかったです。」
男は頷きながら書き写していく。宗助は不思議な気持ちになった。自分が現地で見たことが、別の人間の手によって記録されていく。それは、戦場で槍を振るうのとはまったく違う仕事だった。
「十四条ではどうだった。」
別の男が尋ねた。
「荷駄は本隊から離しすぎない方がいいと思いました。ただ、退く兵の通路を塞がないように、少し横へ寄せました。」
「なぜそうした。」
「兵が戻ってくるからです。荷駄を動かしてしまうと、逃げてくる兵の邪魔になると思いました。」
男は少し考えた。
「それも書いてあるのか。」
「はい。」
「なるほど。」
宗助は黙っていた。自分では当たり前だと思っていたことが、他人にとっては必要な情報になる。そのことに、今になって気づいた。
「源四郎。」
後ろから声がした。宗助が振り返る。そこには数人の家臣が立っていた。
「この書付、少し借りるぞ。」
「はい。」
源四郎が答える。家臣の一人が宗助を見る。
「お主が書いたのか。」
「はい。」
「字はまだ荒いが、見たものが分かる。」
「ありがとうございます。」
「次からは、日付と場所を最初に書け。」
宗助は目を瞬いた。
「日付と場所ですか。」
「そうだ。後から読む者は、いつ、どこで見たものか分からぬと判断できん。」
宗助は源四郎を見た。昨日言われたことと同じだった。自分で書いたものを、他人が読めなければ意味がない。そして、読めるだけでも足りない。いつ、どこで、何が起きたのか。それが分かって初めて、記録は役に立つ。
「分かりました。」
「それと、兵の数も分かる範囲で書け。」
「兵の数……。」
「正確でなくてもよい。見たものと聞いたものを分けて書けばいい。」
宗助は頷いた。
「はい。」
男は書付を返した。
「次の出陣までに、もう一度整理しておけ。」
「次の出陣……。」
宗助はその言葉を聞いて、胸が少しだけ高鳴るのを感じた。美濃から帰ってきたばかりなのに、もう次の話が出ている。だが、嫌ではなかった。むしろ、今度は何を準備すればいいのかを考えたくなった。
昼過ぎ。宗助は荷駄置き場へ向かった。戻ってきた荷車には、戦場で使われた跡が残っている。傷ついた車輪。泥のついた板。切れた縄。宗助は一台ずつ確認した。
「これ、直せそうです。」
近くにいた兵が顔を上げる。
「どれじゃ。」
「車輪の軸は無事です。外側だけ替えれば使えます。」
「分かるのか。」
「美濃で何台も見たので。」
兵は笑った。
「いつの間にか詳しくなったのう。」
宗助も少し笑った。以前なら、壊れた荷車を見ても「直しておいてください」と言うだけだった。今は、どこが壊れているのかを自分で確認できる。それだけではない。どんな場所で壊れやすいのかも分かる。
「この車輪は、ぬかるんだ道で使ったものです。」
「よく分かるな。」
「泥の入り方が違います。」
兵は車輪を見た。
「なるほどのう。」
宗助は書付を開いた。
「これも書いておきます。」
「また書くのか。」
「次に同じことにならないように。」
そう言いながら、宗助は筆を動かした。
夕方。作業を終えた宗助は、清洲の町を歩いていた。美濃から帰ってきた。戦は終わった。けれど、終わったはずの戦が、自分の中にはまだ残っている。焼けた村。逃げていた男。十四条で退く兵。軽海で夜まで続いた戦い。そして、洲俣を離れた朝。どれも忘れることはできない。だが、忘れないだけでは意味がない。自分が見たことを、次に繋げなければならない。
「宗助。」
後ろから弥吉の声がした。
「何ですか。」
「何をぼんやりしておる。」
「考えていました。」
「また戦のことか。」
「はい。」
弥吉が苦笑する。
「帰ってきたばかりだぞ。」
「だからです。」
「だから?」
「次に行く時には、もっと役に立ちたいんです。」
弥吉はしばらく宗助を見た。
「なら、まず飯を食え。」
「……はい。」
「腹が減っては何も考えられん。」
宗助は笑った。
「それは確かに。」
二人は清洲の町を歩いていく。美濃へ向かった時と同じ道だった。けれど、宗助には違う道に見えた。行く前には知らなかった。帰ってきた今は、道の先に何があるのか少しだけ想像できる。戦場では、敵の動きだけを見ていたわけではない。道を見る。川を見る。荷駄を見る。人を見る。そして、それらを繋げて考える。それが自分の役目なのかもしれない。
その夜。宗助は机の前に座り、新しい紙を広げた。上に日付を書く。その下に、場所を書く。そして、今回の美濃で起きたことを順番に整理し始めた。森部。洲俣。十四条。軽海。帰還。宗助は筆を止めた。これまでの自分なら、ここで書き終えていただろう。だが、今日は違った。その下に、こう書き加えた。
「次に備えること。」
宗助は考える。替えの車輪。縄。食料。矢。川を渡るための道具。ぬかるんだ道への対策。そして、敵の動きを伝えるための記録。一つずつ書いていく。しばらくして、紙が文字で埋まった。宗助は筆を置いた。美濃での戦は終わった。だが、自分の戦は終わっていない。次に軍が動く時までに、できることがある。宗助は書付を畳んだ。そして、その上に新しい紙を重ねた。次の一枚は、これまでとは違う。ただの記録ではない。次の戦に備えるための記録だった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、美濃から帰還した宗助が、戦場で見たことを「記録」として残すだけではなく、それを次の準備へ繋げていく話としました。
第五十四話では、宗助が「何を持ち帰るのか」に気づきました。今回はそこから一歩進み、自分の書付を他者に見せ、情報として整理することで、宗助の役割が少しずつ変わり始めています。
史実では、永禄四年五月の森部・十四条・軽海の戦いの後、信長は五月二十四日に洲俣へ戻り、その後洲俣の要害を引き払って尾張へ戻っています。今回の物語は、その史実上の撤退後を創作として描いたものです。
また、この時点で美濃攻略が終わったわけではありません。永禄四年の戦いは信長にとって大きな前進ではあったものの、美濃を一気に制圧する結果にはならず、その後も長い攻略戦が続きます。
だからこそ、ここから宗助の役割も少しずつ変えていきます。
これまでの「荷駄を守る宗助」から、「戦場を見て、情報を残し、次の動きを考える宗助」へ。
そして、その変化が次の美濃攻めへ繋がっていきます。
次回『第五十六話 次の備え』




