第五十三話 持ち帰るもの
夜が明けた。
西軽海の陣には、昨夜までの戦いの跡が残っていた。
折れた槍。
泥にまみれた旗。
傷ついた荷車。
そして、夜通し戦った兵たちの疲れた顔。
宗助は荷駄の列を確認しながら、一台ずつ状態を見ていた。
「車輪が一つ壊れています。」
「こちらもです。」
兵から声が上がる。
「使える荷車に積み替えましょう。壊れた車は後で修理します。」
「分かった。」
宗助は周囲を見渡した。
昨夜まで戦場だった場所には、もう敵の姿はない。
斎藤方は夜のうちに退いた。
だが、織田軍もここに留まり続けるわけではない。
「宗助。」
源四郎がやってきた。
「はい。」
「洲俣へ戻る。」
「分かりました。」
「戻ったら、すぐに荷駄を整理する。」
「すぐにですか。」
「その後、洲俣を引き払う。」
宗助は一瞬だけ黙った。
「ここまで来たのに、ですか。」
「そうじゃ。」
「また尾張へ戻るんですね。」
「そうなる。」
宗助は西軽海の方角を振り返った。
十四条で押され、北軽海まで敵が進み、西軽海へ移って夜戦になった。
そして今、帰る。
以前なら、それだけを見て「負けた」と考えていたかもしれない。
だが、今は違った。
織田軍は昨日、敵を押し返した。
敵も退いた。
そして今、軍勢を無事に戻す必要がある。
「何を持って帰るか、考えます。」
源四郎が宗助を見る。
「何を持って帰るか、か。」
「はい。壊れたものを全部運ぶより、使えるものを優先した方がいいと思います。」
「よい考えじゃ。」
「それと、食料の残りも確認します。」
「頼む。」
織田軍は洲俣へ向けて動き始めた。
帰り道。
宗助は荷駄の列を何度も振り返った。
行きとは違う。
荷物は減っている。
兵も疲れている。
負傷した者もいる。
だが、列は崩れていない。
宗助はそれを確認しながら歩いた。
昼前。
洲俣が見えてきた。
そこには、これまで織田軍が使ってきた要害が残っている。
土塁。
柵。
兵が休んだ場所。
荷駄を置いた場所。
宗助は立ち止まった。
「ここも片付けるんですね。」
「そうじゃ。」
源四郎が答えた。
「残していかないんですか。」
「敵に使われる可能性がある。」
「だから引き払う。」
「そういうことじゃ。」
宗助は要害を見渡した。
初めてここへ来た時には、ただの陣だと思っていた。
今は違う。
ここには、道がある。
川がある。
荷駄を置く場所がある。
兵が休む場所がある。
そして、それを守る兵がいる。
軍が前へ進むためには、こうした場所が必要なのだ。
「宗助。」
「はい。」
「まず荷駄からじゃ。」
「分かりました。」
宗助は兵たちを集めた。
「持ち帰る荷物を分けます。食料と武具を先にしてください。壊れた道具は使える部品を外してから積みます。」
「この木材はどうしますか。」
兵が尋ねた。
「まだ使えますか。」
「一部は使えます。」
「なら、外して積みましょう。全部は無理です。」
「分かりました。」
兵たちが動き始める。
宗助も荷車のそばへ行き、積み荷を確認する。
以前なら、与えられた荷物を運ぶことしか考えなかった。
今は違う。
帰り道で何が必要になるか。
次の戦いで何を使うか。
そして、何を残していくべきか。
それを考えていた。
夕方。
荷駄の整理が終わった。
要害の一部はすでに片付けられている。
兵たちも洲俣を離れる準備を進めていた。
宗助は最後にもう一度、周囲を見渡した。
「ここで、いろいろ覚えました。」
弥吉が隣に立つ。
「何をじゃ。」
「道を見ること。川を見ること。荷駄を動かすこと。それから……戦場を見ること。」
「ずいぶん覚えたの。」
「まだまだです。」
「そうじゃな。」
弥吉が笑う。
「だが、最初に比べれば別人じゃ。」
宗助は少し照れた。
「そうですかね。」
「最初は荷車が倒れただけで顔を真っ青にしておった。」
「……そんなことありましたっけ。」
「忘れたふりをするようになったか。」
二人が笑う。
だが、宗助はすぐに表情を戻した。
洲俣の向こうには、美濃の土地が広がっている。
今回はここまでだ。
美濃を取ったわけではない。
稲葉山城へも届いていない。
それでも、何も得なかったわけではない。
敵がどう動くのか。
どこで戦うのか。
どこに道があるのか。
どこまで兵を進められるのか。
そして、自分が何をすれば軍の役に立てるのか。
宗助には、それが少しずつ分かってきていた。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「今回の戦いで、俺が見たことを書き残してもいいですか。」
「もちろんじゃ。」
「次に美濃へ来た時、役に立つかもしれません。」
源四郎は頷いた。
「それが大事じゃ。」
「はい。」
「戦は、一度戦って終わりではない。」
「……はい。」
「今日見たものを覚えておけば、次は昨日より先へ進める。」
宗助は洲俣を振り返った。
この場所を離れる。
だが、ここで見たものまで失うわけではない。
それを持って帰る。
それが、今の宗助にできることだった。
翌朝。
織田軍に出発の命が下った。
兵たちが一斉に動き始める。
洲俣に残っていた荷物が運び出される。
柵が外される。
使える道具は荷駄へ積まれる。
そして、織田軍は洲俣を離れた。
宗助は最後尾から要害を見た。
ここまで来た時とは違う景色に見える。
初めての美濃攻めでは、敵の土地に入ったという恐怖があった。
今回は、そこに道があり、村があり、人が暮らしていることを知った。
そして、戦場では敵も味方も動き続けることを知った。
軍が進むには、兵だけでは足りない。
道が必要だ。
食料が必要だ。
荷駄が必要だ。
そして、それらを動かす人間が必要だ。
宗助は自分の荷車へ手を置いた。
「帰ったら、全部書きます。」
弥吉が振り返る。
「何をじゃ。」
「今回のことです。」
「全部か。」
「覚えているうちに。」
弥吉は笑った。
「なら、帰り道で忘れんようにせんとな。」
「はい。」
織田軍は尾張へ向けて進み始めた。
美濃への道を戻っていく。
だが、宗助の中では、今回の戦いはまだ終わっていなかった。
森部。
洲俣。
十四条。
北軽海。
西軽海。
いくつもの場所を歩き、いくつもの戦いを見た。
そのすべてが、次に美濃へ来る時の材料になる。
そして宗助は、まだ知らない。
この美濃攻めから戻った先で、自分の役目がこれまでとは大きく変わり始めることを。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、第五十二話の西軽海での夜戦を終えた織田軍が洲俣へ戻り、そこを引き払って尾張へ戻る流れを描きました。
史実では、永禄四年五月二十四日の朝、信長は洲俣へ帰陣し、その後、洲俣の要害を引き払ったと『信長公記』に記されています。今回の話では、この史実を大きく変更せず、宗助が戦後の荷駄整理や要害の撤収に関わる形で描いています。
今回の美濃攻めは、織田軍が美濃を攻略して終わったわけではありません。しかし、森部から十四条、軽海までの一連の戦いを通して、宗助は「荷駄を運ぶ」だけではなく、道や地形、敵味方の動き、戦後の整理まで考えるようになりました。
また、洲俣の要害については、後世の「墨俣一夜城」の伝説とは分けて扱っています。『信長公記』が伝える永禄四年の洲俣の要害は、今回の美濃攻めの中で実際に築かれ、その後に引き払われたものです。秀吉の一夜城伝説をこの時点の史実として混ぜない方針で進めます。
これで今回の美濃攻めは一区切りとなります。
次回からは、宗助が今回の経験を持ち帰ったことで、少しずつ新しい役割を任される段階へ進みます。
次回『第五十四話 帰還』




