第五十二話 軽海の夜
夕暮れが近づいていた。
十四条で押し込まれた織田軍は、北軽海まで進出してきた斎藤方と向き合う形になっていた。
宗助は荷駄の列を引きながら、何度も前方を確認していた。
朝とは違う。
敵との距離が近い。
しかも、まだ戦は終わっていない。
「宗助。」
源四郎が馬を寄せてきた。
「はい。」
「ここでは長く止まらぬ。」
「また動くんですか。」
「そうじゃ。」
源四郎は前方を見た。
「信長様が西軽海へ移られる。」
宗助は驚いた。
「敵の前を横切るんですか。」
「そうなる。」
宗助は荷駄を振り返った。
「では、急いで動かした方がいいですね。」
「その通りじゃ。」
宗助はすぐに荷駄の列へ向かった。
「前の荷車から順番に動かします! 間を空けすぎないでください!」
兵たちが声を掛け合う。
荷車が動き出す。
道は狭い。
兵も馬も行き交っている。
少しでも列が乱れれば、全体が止まってしまう。
「左へ寄せてください!」
「そこは兵が通ります!」
「荷車を止めないで!」
宗助は走りながら指示を出した。
朝までなら、源四郎の指示を待っていた。
だが今は違う。
何をすれば軍が動けるのか。
自分で考えながら動いていた。
やがて西軽海へ入った。
前方では信長が軍勢を整えている。
古宮の前。
織田軍は東を向いて陣を構えた。
宗助は息を整えながら、その様子を見ていた。
「敵が来ます。」
弥吉が呟いた。
東の方角に、斎藤方の旗が見える。
織田軍も槍を構えた。
だが、すぐには大きな衝突にはならなかった。
足軽が前へ出る。
敵も少し進む。
また下がる。
そして、また進む。
戦場の距離が伸びたり縮んだりしていた。
「何をしているんでしょう。」
宗助が尋ねる。
「探っておるのじゃ。」
源四郎が答えた。
「相手の隙を探している。」
「朝とは違いますね。」
「そうじゃ。朝は勢いでぶつかった。今は互いに相手を見ておる。」
宗助は敵陣を見た。
確かに、敵もこちらの動きを見ている。
簡単には踏み込んでこない。
日が沈み始めた。
空が暗くなる。
篝火が一つ、また一つと灯されていく。
「夜になっても戦うんですか。」
「敵が退かぬなら、そうなる。」
その言葉が終わった直後だった。
東から大きな声が上がった。
「敵が来るぞ!」
斎藤方の兵が一斉に動いた。
先頭を走る兵が、織田軍へ向かって突っ込んでくる。
「構えろ!」
織田方からも怒号が上がる。
槍がぶつかった。
暗闇の中で、金属音が響く。
宗助は荷駄の前に立った。
「荷車を下げますか。」
「まだじゃ。」
源四郎が答えた。
「戦場から離れすぎると、今度は戻れん。」
宗助は頷いた。
だが、その時だった。
敵兵の一部が織田軍の側面へ回ろうとしている。
「源四郎殿!」
「何じゃ。」
「あちらです!」
宗助が指を差す。
「敵が横へ回っています。」
源四郎が目を細めた。
「確かに。」
「荷駄を少し下げた方がいいと思います。」
「理由は。」
「もしあそこを抜かれたら、荷駄の列まで巻き込まれます。」
源四郎は一瞬だけ考えた。
「よし。後ろへ下げろ。」
「はい!」
宗助は兵へ声を掛けた。
「荷車を三台ずつ下げます! 道は空けてください!」
荷車が動く。
その直後、敵兵が近くまで迫ってきた。
「来たぞ!」
弥吉が槍を構える。
宗助も槍を握った。
敵兵が一人、こちらへ向かってくる。
宗助は足を踏ん張った。
だが、その兵の横から別の織田兵が飛び出した。
槍がぶつかる。
敵兵が倒れた。
宗助は息を呑んだ。
戦は、もう目の前にある。
「宗助!」
「はい!」
「荷駄をさらに下げるぞ!」
「分かりました!」
宗助は走った。
だが、戦場の一角で突然大きな歓声が上がった。
「押し返せ!」
「敵が退くぞ!」
織田方の兵が前へ出る。
斎藤方が後退していく。
宗助は何が起きたのか分からなかった。
「何があったんですか。」
弥吉が答えた。
「先頭で敵を追い立てたらしい。」
「誰が。」
「真木村牛介という者が先を仕掛けてきたそうじゃ。」
宗助が前を見る。
暗闇の中で、敵の隊列が崩れている。
その中へ織田方の兵が入り込んでいく。
そして、さらに大きな声が響いた。
「敵将を討ったぞ!」
宗助は思わず前へ目を向けた。
「誰をですか。」
「稲葉又右衛門だ!」
池田勝三郎と佐々内蔵佐の二人が討ち取ったらしい。
戦場の空気が変わった。
敵も味方も、暗闇の中で入り乱れている。
槍の音。
怒号。
馬のいななき。
誰がどこにいるのかさえ、分からなくなっていく。
「宗助! 荷駄を動かすな!」
源四郎が叫んだ。
「はい!」
「今動かせば、味方の兵を巻き込む!」
宗助は荷車を止めた。
そして、道を空ける。
兵が走り抜ける。
負傷した者が戻ってくる。
「こちらへ!」
宗助は荷駄の脇へ兵を誘導した。
戦は夜になっても終わらない。
敵が押す。
織田軍が押し返す。
また敵が前へ出る。
宗助は、ただその様子を見ていた。
朝の十四条では、敵に押されて退いた。
だが、今は違う。
退いた後に陣を組み直し、敵を待ち受けている。
そして夜になっても戦い続けている。
「戦って……こんなに長いんですね。」
宗助が呟いた。
「そうじゃ。」
源四郎が答える。
「勝ったか負けたかだけで終わるものではない。」
「朝は負けたと思いました。」
「それでも今、ここにおる。」
宗助は前を見た。
「じゃあ、まだ分からないんですね。」
「何がじゃ。」
「最後に、どちらが勝つのか。」
源四郎が少し笑った。
「その通りじゃ。」
夜はさらに深くなった。
やがて、東の敵陣から動きが見えた。
「敵が下がっています。」
宗助が言う。
「本当か。」
「はい。篝火が少しずつ遠ざかっています。」
源四郎が目を凝らす。
「……退いたか。」
織田軍の兵たちにも、その動きが伝わっていく。
「敵が退いたぞ!」
だが、信長はすぐには追撃を命じなかった。
夜の戦場で深追いする危険を知っていたからだ。
宗助はその判断を見ていた。
勝ったから追う。
そう単純なものではない。
敵が退いた。
ならば、こちらも陣を保つ。
それも戦だった。
夜が明けるまで、織田軍は西軽海に留まった。
宗助は荷駄のそばに座り込み、空を見上げた。
長い夜だった。
十四条で押され、北軽海まで敵が進み、西軽海へ移って夜戦になった。
一日の中で、戦う場所が何度も変わった。
宗助はようやく分かった。
戦場は、決まった場所にあるものではない。
敵と味方が動けば、戦場も動く。
そして、そのたびに荷駄も、人も、判断も動かさなければならない。
「宗助。」
源四郎が呼んだ。
「はい。」
「明朝、洲俣へ戻る。」
「分かりました。」
「戻ったら、荷駄をまとめ直す。」
「はい。」
宗助は立ち上がった。
「今度は、帰るための準備ですね。」
「そうじゃ。」
源四郎が頷く。
「戦が終わった後にも、仕事はある。」
東の空が明るくなり始めていた。
宗助は荷駄の列を見た。
傷ついた荷車。
減った食料。
泥にまみれた道具。
今日の戦いで、いくつものものが失われた。
だが、まだ残っているものもある。
それを持って帰る。
次に必要になるものを整える。
宗助は荷車へ手を掛けた。
「まず、数を確認します。」
「頼む。」
朝が来る。
織田軍は洲俣へ戻る。
そして、この美濃攻めも一つの区切りを迎えようとしていた。
だが宗助はまだ知らなかった。
今回の戦で見たものが、これから先の自分の考え方を大きく変えることになるとは。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、第五十一話の続きとして、十四条で押された織田軍が西軽海へ移り、夜の戦いに入るところから描きました。
史実では、永禄四年五月二十三日、十四条で織田方が退いた後、斎藤方は北軽海まで進出しました。信長は西軽海へ移り、古宮の前に東向きで陣を構えています。その後、夜に入って斎藤方の真木村牛介が先陣を仕掛け、織田方がこれを追い立て、池田勝三郎と佐々内蔵佐が稲葉又右衛門を討ち取ったと『信長公記』に記されています。夜戦となった後、斎藤方は夜の間に陣を引き、信長は夜明けまで陣を維持しました。
次回は史実上、翌五月二十四日の動きへ進みます。織田軍は洲俣へ戻り、その後、洲俣を引き払うことになります。ここは今回の美濃攻めを一区切りつける重要な場面になるため、物語としてもテンポを落とさず進めていきます。
次回『第五十三話 持ち帰るもの』




