第五十話 洲俣の陣
朝。洲俣の陣では、夜明けとともに兵たちが動き始めていた。
昨日までとは違う。
ここは、ただ軍が通り過ぎる場所ではない。
織田軍が美濃へ進むための拠点として、兵も荷駄も集められている。
宗助は荷駄の周囲を歩きながら、配置を確認していた。
「宗助。」
源四郎が声を掛けた。
「はい。」
「昨日決めた場所で問題はないか。」
「今のところは大丈夫です。」
宗助は荷車を見た。
「兵が通る道も空けています。川へ向かう道も塞いでいません。」
「敵が来た場合は。」
「すぐ動かせるようにしています。」
源四郎が頷く。
「よし。」
それだけ言うと、源四郎は前方へ向かった。
宗助はその背中を見送った。
以前なら、それだけで満足していた。
言われた仕事を終えた。
荷駄に問題はない。
それで十分だった。
だが、今は違う。
この場所に敵が来たら、どこから来るのか。
その時、荷駄をどこへ動かすのか。
兵が出れば、どの道が空くのか。
そうしたことまで考えるようになっていた。
宗助は洲俣の周囲を見渡した。
川。
道。
低い土地。
そして、その先に広がる美濃。
ここを押さえる意味が少しずつ分かってきた。
しばらくして、前方から伝令が駆けてきた。
「美濃勢の動きあり!」
兵たちの間に緊張が走る。
「数は。」
「まだ分かりません。ただ、北の方へ兵が動いているとのことです。」
宗助は北を見た。
「北……。」
昨日までなら、ただ敵がいると聞いただけで終わっていた。
だが、今は違う。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「北へ向かっているなら、この陣を直接攻めるつもりじゃないかもしれません。」
源四郎が宗助を見る。
「どうしてそう思う。」
「もし洲俣を攻めるなら、こちらへ近づいてくるはずです。でも、北へ進んでいるなら、別の場所に陣を置くつもりかもしれません。」
「それで。」
「こちらから出てこさせるためかもしれません。」
源四郎は黙った。
宗助は続けた。
「洲俣にいる織田軍をそのままにして、北へ進めば、こちらも追わなければならなくなる。そうなれば、洲俣を離れることになります。」
源四郎の表情が変わった。
「……なるほどな。」
源四郎は近くの兵を呼んだ。
「今の話を伝令へ伝えよ。敵の進路をよく見ておけ。」
「はっ。」
兵が走っていく。
宗助は少し驚いた。
自分の考えが、すぐに伝令として扱われた。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「今のは、ただの考えです。」
「分かっておる。」
「間違っているかもしれません。」
「だからこそ、敵の動きを見続けるのじゃ。」
宗助は頷いた。
それからしばらく、織田軍は洲俣で待った。
敵が来るのか。
別の場所へ向かうのか。
誰も確かなことは分からない。
昼前。
再び伝令が戻ってきた。
「美濃勢、北へ進んでおります!」
「さらに詳しく。」
「十四条という場所へ向かっているとのことです。」
源四郎が顔を上げた。
「十四条……。」
宗助もその地名を聞いた。
周囲の兵たちがざわめく。
「敵が陣を構えるつもりか。」
「ならば、こちらも動くのでは。」
宗助は絵図を覗き込んだ。
洲俣から北へ伸びる道。
その先に十四条がある。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「敵は洲俣を直接攻めるんじゃなくて、北に陣を置いているんですね。」
「そのようじゃ。」
「なら、ここを出ることになりますか。」
「そうなるかもしれん。」
宗助は考えた。
ここを離れれば、洲俣の守りは薄くなる。
だが、敵が北へ進めば、そのままにしておくこともできない。
洲俣を守ることと、敵を迎え撃つこと。
どちらか一つでは済まない。
それが戦なのだと、宗助は初めて実感した。
午後。
陣の中で、出陣の準備が始まった。
兵たちが槍を整え、馬が引き出される。
荷駄の周囲でも動きが変わった。
「宗助。」
源四郎が来た。
「はい。」
「本隊が出る。」
「荷駄はどうしますか。」
「一部を残す。」
「全部ではないんですか。」
「戦場へすべて持っていく必要はない。」
宗助は頷いた。
「残す荷駄は、ここで守るんですね。」
「そうじゃ。」
「なら、戦が終わった後にすぐ使えるようにしておきます。」
源四郎が笑った。
「もうそこまで考えるか。」
「昨日、洲俣は通り過ぎる場所じゃないと分かったので。」
「よい。」
源四郎は周囲を見た。
「ただし、敵がこちらへ回ってくる可能性もある。」
「分かっています。」
「なら、何を見る。」
宗助は少し考えた。
「敵の本隊がどこにいるか。それと、こちらが出た後に別の兵が洲俣へ向かわないかです。」
源四郎は頷いた。
「そこまで見られれば十分じゃ。」
宗助は槍を握った。
だが、今度は自分が戦場へ行くわけではない。
残された荷駄を守る。
それでも、以前とは違う。
ただ待つのではない。
敵の動きを見る。
味方の動きを見る。
必要なら伝える。
それも戦の一部だった。
やがて織田軍の本隊が動き始めた。
洲俣の陣から、兵たちが北へ進んでいく。
宗助はその列を見送った。
「行きましたね。」
弥吉が隣に立った。
「そうじゃのう。」
「今回は、今までとは違います。」
「何がじゃ。」
「敵を追うだけじゃなくて、敵が何をしようとしているのか考えています。」
弥吉は笑った。
「ずいぶん難しいことを考えるようになったの。」
「源四郎殿に教えてもらっています。」
「なら、儂も負けておれんな。」
二人は笑った。
だが、その直後だった。
遠くから馬の音が聞こえてきた。
宗助が振り返る。
伝令だった。
「宗助!」
「はい!」
「北の方で敵と織田勢が接触した!」
宗助の表情が変わる。
「戦が始まったんですか。」
「まだ大きな合戦ではない! だが、敵は十四条に陣を構えている!」
宗助は北を見た。
そこには、先ほどまで見送っていた織田軍が向かっている。
洲俣から出た織田軍と、北へ進んだ美濃勢。
両軍が、いよいよぶつかろうとしている。
「荷駄を動かす準備をしておけ。」
宗助が言った。
弥吉が驚く。
「動かすのか。」
「まだ分かりません。でも、戦が大きくなれば、ここへ敵が回ってくる可能性があります。」
「源四郎殿の命はまだないぞ。」
「分かっています。」
宗助は荷車を見た。
「だから、動かさない。でも、いつでも動かせるようにはしておきます。」
弥吉が頷いた。
「それなら分かる。」
宗助は周囲の兵へ声を掛けた。
「荷駄の縄を確認してください。車輪も見てください。道を塞がないようにしてください。」
兵たちが動き始める。
その姿を見ながら、宗助は北を見た。
遠くから、かすかに法螺の音が聞こえる。
洲俣からさらに北。
十四条。
そこで、織田軍と美濃勢が向かい合っている。
宗助は槍を握り直した。
自分はそこへ行かない。
だが、ここに残ることにも意味がある。
戦は、槍を交える者だけが作るものではない。
道を確保する者。
荷を守る者。
敵の動きを知らせる者。
それぞれが自分の役目を果たして、軍は動く。
宗助はそのことを、ようやく理解し始めていた。
そして同時に、もう一つ分かったことがある。
敵もまた、同じように動いている。
ならば次に見るべきなのは、敵がどこへ向かうかではない。
その動きによって、何を狙っているのか。
宗助は北を見つめた。
十四条の向こうから、再び法螺の音が響いた。
戦が始まった。
そして、この戦いは洲俣の陣そのものを巻き込もうとしていた。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、第四十九話で洲俣へ到着した織田軍が、ここを美濃攻めの拠点として整えながら、斎藤方の動きを警戒する話としました。
第四十三話以降、宗助は「目の前の敵を見る」段階から、「敵が何をしようとしているのかを考える」段階へ少しずつ成長しています。今回はその流れを一段進め、敵が洲俣を直接攻めず北へ進むことから、その意図を考える場面を入れました。
史実では、永禄四年五月、織田信長は洲俣に要害を整えて滞陣し、五月二十三日に斎藤方が井口から軍勢を出して十四条に布陣しました。織田軍は洲俣から出撃して十四条方面で戦い、その後さらに西軽海方面へ戦場が移っています。今回の終盤は、この史実上の十四条合戦へつながる直前の状況として構成しています。
なお、洲俣の要害については『信長公記』に記録がありますが、後世に有名になった木下藤吉郎による「墨俣一夜城」の逸話はこの時点では扱っていません。今回も史実として確認できる洲俣の要害と十四条への出陣を基準にしています。
次回『第五十一話 十四条の戦い』




