第四十五話 敵地の夜
翌朝。織田軍は夜明けとともに陣を出た。前日の小競り合いから一夜が明けても、美濃勢の姿は見えない。だが、誰も敵が遠くへ逃げたとは考えていなかった。
「宗助。」
源四郎が呼んだ。
「はい。」
「今日は荷駄を後ろから見ておれ。」
「昨日と同じですね。」
「いや、今日は少し違う。」
源四郎は前方を指した。
「村をいくつか通る。」
「村を?」
「そうじゃ。敵が兵を置いている場所だけが美濃ではない。」
宗助は頷いた。
軍勢は再び進み始めた。
しばらくすると、道の先に小さな村が見えてきた。
人の姿は少ない。
家の戸は閉じられている。
畑にも人影がない。
「誰もいませんね。」
宗助が言う。
「兵が近づけば、逃げる者も多い。」
源四郎が答えた。
「戦うのは兵だけでも、戦が起きれば暮らしている者まで巻き込まれる。」
宗助は村を見た。
桶狭間の時には、敵の兵しか見ていなかった。
森部でも、目の前の敵と味方だけを見ていた。
だが、ここには戦っていない人々の生活があった。
それが戦の中に巻き込まれている。
やがて先頭から命令が伝わってきた。
「進め!」
兵たちが村を抜けていく。
宗助も荷駄とともに進んだ。
しばらくして、前方から煙が上がった。
宗助は足を止めた。
「火事ですか。」
「違う。」
弥吉が答えた。
「火を放っておる。」
宗助は目を見開いた。
いくつかの家から煙が上がっている。
炎が屋根へ移り、風にあおられて大きくなっていく。
「どうして……。」
宗助は言葉を失った。
「敵の兵糧や物資を使わせぬためじゃ。」
源四郎が静かに答えた。
「敵が利用できる場所を残せば、こちらが進んだ後に使われる。」
「でも、そこには人が住んでいたんですよね。」
「そうじゃ。」
源四郎はそれ以上言わなかった。
宗助も何も言えなかった。
戦場では、敵を倒すことが戦だと思っていた。
だが、戦はそれだけではない。
土地を奪う。
物資を奪う。
敵が使えるものを失わせる。
そのために、暮らしそのものが壊されることもある。
軍勢はさらに進んだ。
昼を過ぎた頃、前方から伝令が戻ってきた。
「美濃勢はさらに北へ退いた模様です。」
「兵数は。」
「詳しくは分かりません。」
「追うか。」
「信長様から、深追いはせぬとのことです。」
源四郎が頷いた。
「ならば、このまま進む。」
宗助は少し驚いた。
「追わないんですか。」
「敵を一人でも多く倒せばよいという戦ではない。」
「では、何をするんですか。」
「敵の土地を使わせぬ。そして、こちらが動ける場所を増やす。」
宗助は黙った。
それなら、昨日の戦いで敵が退いたことにも意味がある。
追わなくても、織田軍が進み続ければ、美濃側は守る場所を増やさなければならない。
兵を動かせば、その分だけ別の場所が薄くなる。
昨日、使者から聞いた話が頭に浮かんだ。
美濃の兵も、すべての場所を守れるわけではない。
戦場は目の前だけではない。
軍が動くことで、敵の動きそのものを変えることができる。
夕方。
織田軍は小さな高台の近くで一度足を止めた。
先頭から、ここで夜を過ごすとの命が伝えられる。
宗助は荷駄をまとめながら周囲を見た。
村から少し離れている。
近くに水場がある。
兵たちが休む場所も確保できる。
だが、敵から見れば、この場所も見つけやすい。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「ここで夜を過ごすんですか。」
「そうじゃ。」
「敵に見つかりませんか。」
「だから見張りを置く。」
源四郎は周囲を見渡した。
「戦場では、夜も戦のうちじゃ。」
日が落ちると、陣の中は静かになった。
昼間まで聞こえていた兵たちの声も減っている。
火の明かりがいくつか見えるだけだった。
宗助は荷駄の近くで見張りをしていた。
遠くから風が吹いてくる。
昼間に見た煙の匂いが、まだ残っていた。
「眠れんのか。」
弥吉が隣に来た。
「少し考えていました。」
「何をじゃ。」
「戦って、敵を倒すだけじゃないんですね。」
「そうじゃな。」
「今日、村が焼かれているのを見ました。」
弥吉はしばらく黙っていた。
「戦というのは、そういうものじゃ。」
「……はい。」
「だが、だからこそ自分の役目を忘れるな。」
「役目?」
「荷駄を守る。兵を支える。できることをやる。」
宗助は頷いた。
「はい。」
「全部を背負おうとするな。」
「分かりました。」
弥吉はそれ以上何も言わなかった。
夜が深くなる。
遠くで鳥の鳴く声がした。
宗助は槍を握りながら、暗闇の向こうを見ていた。
その時だった。
かすかな物音が聞こえた。
「……誰かいます。」
弥吉が顔を上げる。
「どこじゃ。」
「あそこです。」
宗助が指した。
暗闇の中で、何かが動いた。
見張りの兵がすぐに駆け寄る。
「誰だ!」
返事はない。
兵が槍を構える。
すると、草むらから一人の男が姿を現した。
「待ってくれ!」
男は両手を上げた。
「戦うつもりはない。」
「何者だ。」
「村の者だ。」
宗助は男を見た。
昼間、誰もいなかった村。
そこから逃げてきたのだろうか。
「何をしに来た。」
兵が尋ねる。
「家族を探している。」
男の声は震えていた。
宗助は何も言えなかった。
敵兵ではない。
ただ、自分の暮らしていた場所を失った男だった。
「この者はどうしますか。」
宗助が源四郎へ尋ねる。
いつの間にか、源四郎も近くまで来ていた。
「武器は持っているか。」
「ありません。」
男が答える。
源四郎は男をしばらく見た。
「食べ物を少し渡せ。」
宗助は驚いた。
「いいんですか。」
「兵を相手にするのとは違う。」
宗助は持っていた食料を男へ渡した。
「ありがとうございます。」
男は何度も頭を下げた。
「家族はどこにいる。」
宗助が尋ねる。
「分からない。」
男は首を振った。
「逃げる途中ではぐれた。」
宗助は胸が重くなった。
男が去っていくのを見送る。
弥吉が小さく息を吐いた。
「戦は難しいのう。」
「はい。」
宗助は答えた。
「敵か味方かだけでは、決められないことがあります。」
源四郎が宗助を見る。
「そういうことじゃ。」
夜が明ける前。
宗助は空を見上げた。
まだ暗い。
だが、東の空がほんの少し明るくなり始めている。
やがて朝が来る。
また軍は動く。
また敵と戦うことになるかもしれない。
それでも、今日見たものは忘れられない。
戦場には兵だけがいるわけではない。
その土地で暮らしていた人々もいる。
宗助はそのことを初めて実感していた。
朝。
織田軍に出発の命が下った。
「宗助。」
源四郎が呼ぶ。
「はい。」
「今日はさらに進む。」
「分かりました。」
「だが、昨日とは違う。」
「何がですか。」
「敵がこちらを待っている可能性が高い。」
宗助は槍を握った。
「戦になる。」
「そのつもりでおれ。」
織田軍は再び西へ進み始めた。
遠くには、美濃の山々が見えている。
宗助はその景色を見ながら歩いた。
美濃へ来る前は、敵の土地だと思っていた。
今は違う。
敵もいる。
味方もいる。
そして、戦とは関係なく暮らしていた人々もいる。
そのすべてを抱えた土地なのだ。
宗助は前を向いた。
今日の戦いが、もう近くまで来ている。
遠くで、法螺の音が響いた。
織田軍の足が止まる。
前方に、斎藤方の旗が見えた。
宗助は槍を握り直した。
今度の戦いは、昨日までとは違う。
敵もこちらを待ち構えている。
そして、その先には美濃のさらに奥がある。
宗助は静かに息を吸った。
戦が始まる。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、再び美濃へ入った宗助が、敵兵との戦いだけではなく、戦によって土地や民の暮らしまで変わってしまう現実を目にする回としました。
これまで宗助は「軍を支えること」を中心に学んできましたが、今回は戦場の外側にいる人々にも目を向けています。
史実でも、この時期の信長の美濃侵攻では村々への放火が記録されており、単純な合戦だけではなく、敵の支配地域を圧迫する軍事行動が行われていました。『信長公記』にも、在々所への放火と、その後の墨俣の要害整備が記されています。
物語はここから、美濃のさらに奥へ進みます。
宗助が見る戦場も、少しずつ変わっていきます。
次回『第四十六話 待ち受ける軍勢』




