第四十二話 尾張に残る敵
美濃から戻って十日ほどが過ぎた。
清洲城の中では、森部や十四条、軽海で負った傷も少しずつ癒え、兵たちは普段の仕事へ戻り始めていた。
宗助も荷駄置き場で仕事を続けていたが、以前のようにただ荷物を確認しているだけではなかった。
荷駄の状態を見れば、次に必要になる修理を考える。
兵糧が減っていれば、補充の時期を考える。
他の者から聞いた話も書き留める。
そんな仕事が少しずつ増えていた。
だが、その日の朝は城内の空気が違っていた。
兵たちの間を、何人もの伝令が行き来している。
宗助は荷車を止め、遠くを見た。
「何かあったんですか。」
近くにいた兵へ尋ねる。
「尾張の北の方で動きがあったらしい。」
「北ですか。」
「犬山の方だ。」
宗助は眉を寄せた。
美濃ではない。
それでも、織田にとって無関係な話ではなかった。
やがて源四郎が姿を見せた。
「宗助。」
「はい。」
「今日は荷駄を置いて、俺についてこい。」
「どこへ行くんですか。」
「小口へ向かう。」
宗助は驚いた。
「小口ですか。」
「そうじゃ。」
源四郎は短く答えた。
「尾張の中にも、信長様に従わぬ者がおる。」
「犬山の織田信清殿ですか。」
「よく知っておるな。」
「名前を聞いたことがあるだけです。」
「なら、今日覚えよ。」
源四郎は歩き始めた。
「戦は美濃だけで起きるわけではない。」
宗助はその後を追った。
清洲を出ると、兵たちは北へ向かった。
美濃へ向かった時とは違う。
今回は大軍ではない。
だが、緊張は強かった。
相手が織田の一族だからだ。
道中、宗助は周囲を見ていた。
だが、以前のように道そのものを細かく観察することはしなかった。
今度は兵たちの動きを見る。
誰が前にいるのか。
誰が後ろを守っているのか。
伝令がどこを行き来しているのか。
そして、荷駄がどこに置かれているのか。
「宗助。」
源四郎が振り返る。
「はい。」
「何を見ておる。」
「兵の動きです。」
「何か分かるか。」
「今回は、荷駄を守る兵が少ないです。」
「なぜじゃ。」
「大きな荷駄を連れてきていないからだと思います。」
源四郎が頷いた。
「そうじゃ。」
「美濃の時とは違うんですね。」
「戦う場所が違えば、必要なものも変わる。」
宗助はその言葉を覚えておいた。
昼頃。
小口の近くまで来ると、前方に兵が集まっていた。
織田方の兵たちだった。
「敵は?」
源四郎が尋ねる。
「城に籠もっております。」
「動きは。」
「今のところありません。」
宗助は遠くに見える城を見た。
これまで見てきた美濃の戦とは違う。
敵が目の前に並んでいるわけではない。
城という一つの場所に兵が籠もっている。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「こういう戦もあるんですね。」
「そうじゃ。」
「敵が出てこなければ、槍を合わせることもない。」
「だから城攻めは難しい。」
宗助は黙って城を見た。
戦場は、いつも敵とぶつかる場所ではない。
待つことも戦なのだ。
やがて織田方から城へ向けて動きが始まった。
兵たちが前へ進む。
宗助は少し後ろで待機した。
突然、城の方から声が響いた。
「来るぞ!」
兵たちが身構える。
矢が飛んできた。
宗助は反射的に身を低くした。
「荷駄は下げますか。」
「まだ動かすな。」
源四郎が答える。
「ここで動かせば、かえって混乱する。」
「分かりました。」
宗助は周囲を見る。
前方では兵が城へ迫っている。
後方には退路がある。
荷駄はその間に置かれている。
美濃で学んだこととは違う。
だが、考えることは同じだった。
今、何を動かすべきか。
何を動かしてはいけないか。
しばらくして、前方から退却の声が上がった。
「下がれ!」
兵たちが戻ってくる。
宗助はすぐに荷駄の位置を確認した。
「こちらへ!」
近くの兵へ声を掛ける。
「荷車を一台ずつ下げます。走らせないでください。」
「分かった。」
兵たちは荷駄を動かした。
戦は長く続かなかった。
城を力ずくで落とすことはできず、織田方は一度引いた。
宗助は遠くの城を振り返った。
「落とせなかったんですね。」
「今日はな。」
源四郎が答える。
「戦は一度で決まるとは限らん。」
「美濃と同じですね。」
「いや。」
源四郎は首を振った。
「美濃とは違う。」
「違う?」
「美濃では、国そのものを相手にしている。ここでは、同じ織田の血を引く者と争っておる。」
宗助は黙った。
敵と味方。
それだけでは割り切れない戦がある。
帰り道。
宗助はほとんど口を開かなかった。
美濃では、敵が斎藤家だった。
今回は織田家の中に敵がいる。
戦国の世では、同じ名字だから味方とは限らない。
それが少し分かった気がした。
清洲へ戻ると、城内ではすでに次の命令を待つ兵たちが集まっていた。
源四郎が宗助を見る。
「今日の戦で、何を覚えた。」
「城を攻める時は、敵が出てこなくても戦になることです。」
「それだけか。」
「それと……。」
宗助は少し考えた。
「戦う相手が、いつも自分たちと同じような敵とは限らないことです。」
源四郎は頷いた。
「よい。」
「美濃へ行く前に、尾張でも戦わないといけないんですね。」
「そういうことじゃ。」
宗助は清洲の城内を見渡した。
美濃だけを見ていた時には気づかなかった。
信長が戦っているのは、一つの国だけではない。
尾張をまとめること。
美濃を攻めること。
その両方を進めなければならない。
その夜。
信長のもとには、小口での戦いについて報告が届いていた。
「城は落ちなんだか。」
「はっ。」
「ならば、今は追い込む必要はない。」
信長は絵図へ目を落とした。
「美濃ばかり見ておれば、背後が騒がしくなる。」
「では、小口は。」
「いずれ落とす。」
信長はそう言って、別の場所へ目を向けた。
美濃。
尾張北部。
その両方を見なければならない。
宗助はその頃、荷駄置き場で一人、今日使った道具を片付けていた。
美濃へ行けば戦がある。
尾張にいても戦がある。
ならば、自分の仕事も一つではない。
そのことを、今日初めて実感した。
そして数日後。
清洲城に、再び美濃方面からの使者が訪れることになる。
今度の知らせは、これまでとは違っていた。
美濃の内側で、織田にとって思いもよらぬ動きが始まっていたのである。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、清洲での準備を繰り返すのではなく、宗助が尾張北部の戦いへ参加することで物語を前へ進めました。
史実では永禄四年六月下旬、織田信長は犬山城主・織田信清の支城である小口城を攻めたことが『信長公記』に記されています。小口城をめぐる攻防は、美濃だけでなく尾張国内にも信長の敵が存在していたことを示す重要な出来事です。
宗助にとっても、戦場での役目だけでなく、「織田家の中にも敵がいる」という現実を知る回となりました。
次回『第四十三話 美濃からの使者』




