第四十話 清洲の静けさ
美濃から戻った翌朝。清洲城は、出陣前とは比べものにならないほど静かだった。
兵たちの怒号も、馬の蹄の音も、荷駄を急かす声もない。城内を歩く者の足音だけが、朝の空気の中に響いている。
だが、戦が終わったから静かなわけではない。
戻ってきた兵たちは疲れており、負傷者の手当てや武具の整理に追われていた。荷駄も同じだった。
宗助は朝から荷車の確認をしていた。
泥の付いた車輪を洗い、傷んだ車軸を調べる。緩んだ縄を締め直し、破れた兵糧袋を分けていく。
森部から続いた戦いで、荷駄にもかなりの負担がかかっていた。
「この車、しばらく使わない方がいいですね。」
宗助が車軸を確認しながら言った。
「どこが悪いんじゃ?」
弥吉が覗き込む。
「ここです。少し歪んでいます。荷物を積んだまま長く使うと、途中で輪が外れるかもしれません。」
「見ただけで分かるようになったのう。」
「前に一度、同じようになってましたから。」
「なるほど。」
弥吉は感心したように頷いた。
「戦が終わっても、見る仕事は続くわけじゃな。」
「そうみたいです。」
宗助は傷んだ荷車を脇へ移した。
以前なら、壊れてから修理を頼んでいたかもしれない。
今は、壊れる前に止めることを考えるようになっていた。
「宗助。」
後ろから源四郎の声がした。
「はい。」
「荷駄の確認は終わったか。」
「まだ少し残っています。」
「昼までに終わらせよ。」
「分かりました。」
源四郎はそのまま立ち去ろうとしたが、ふと足を止めた。
「それから、昼過ぎに詰所へ来い。」
「何かありますか。」
「話がある。」
「はい。」
宗助は気になったが、尋ねなかった。
まず目の前の仕事を終わらせる。
それが今の自分の役目だった。
昼過ぎ。
宗助が詰所へ向かうと、源四郎だけでなく数人の武士が集まっていた。
机の上には清洲周辺の絵図と、美濃から持ち帰った書付が置かれている。
「来たか。」
「はい。」
「座れ。」
宗助は端へ腰を下ろした。
源四郎が絵図を広げる。
「今回の出陣で、いくつか問題が見つかった。」
「荷駄ですか。」
「それもある。」
源四郎は絵図の上を指した。
「洲股へ入るまでの道、渡河、そこから美濃へ進む道。兵が増えれば増えるほど、道と荷駄の問題が大きくなる。」
宗助は黙って聞いていた。
「兵だけなら、多少道が悪くても進める。だが荷駄はそうはいかん。」
「はい。」
「そこで、お主に今回の行軍について書き出してもらう。」
宗助は目を瞬いた。
「俺がですか。」
「そうじゃ。」
源四郎は一枚の紙を差し出した。
「どこで荷車が遅れたか。どこで人手が必要だったか。どこなら休めたか。川を渡る時に何が問題になったか。」
「全部ですか。」
「覚えている範囲でよい。」
宗助は紙を見つめた。
これまで自分が頭の中で覚えていたことを、今度は書き残す。
「書いたものは、どうするんですか。」
「次に兵を出す時に使う。」
「俺の書いたものを?」
「そうじゃ。」
宗助は少し驚いた。
自分が見たものが、次の出陣に使われる。
それは、これまでとは違う仕事だった。
「分かりました。」
「なら頼む。」
宗助は紙を受け取った。
その日の夕方、宗助は詰所の隅で書付を作っていた。
森部へ向かった時の道。
雨の中で川を渡った場所。
荷車が泥に沈んだ場所。
坂道で人手が必要だった場所。
荷駄をまとめすぎると動かせなくなる場所。
思い出しながら、一つずつ書いていく。
弥吉が横から覗き込んだ。
「難しい顔をしておるの。」
「書くのって、思ったより難しいですね。」
「飯のことも書いておけ。」
「兵糧のことなら書いてます。」
「ならよい。」
「弥吉さんは本当に飯が好きですね。」
「大事なことじゃ。」
宗助は笑いながら筆を動かした。
しばらくして、ふと筆が止まった。
今回の戦いで、荷駄そのものに大きな被害はなかった。
だが、渡河に時間がかかった。
雨が降れば道は悪くなる。
兵が増えれば、それだけ荷駄も増える。
そして荷駄が増えれば、軍の進む速度も変わる。
宗助はそこまで書き加えた。
夜。
清洲城の奥では、戻ってきた武士たちによる報告が続いていた。
信長のもとには、美濃での戦いについて次々と書付が届けられている。
森部での勝利。
十四条、軽海での戦い。
洲股からの撤退。
兵の損害。
兵糧の消費。
そして、美濃側の動き。
信長は報告を聞きながら、黙って絵図を見ていた。
「美濃も、思ったほど容易ではございませんな。」
家臣の一人が言った。
「容易ならば、とうに取っておる。」
信長は短く答えた。
その言葉の後、部屋に静けさが戻った。
「だが、森部では勝った。」
「はい。」
「十四条、軽海では苦戦した。」
「その通りにございます。」
「ならば、次に何が必要かを考えよ。」
家臣たちは顔を見合わせた。
戦場で勝つだけでは足りない。
兵を動かすための道。
兵糧。
川を越える手段。
敵の動きを知るための情報。
それらを揃えなければ、美濃の奥へ進むことはできない。
信長は絵図へ目を落とした。
「次は、もっと遠くまで兵を動かす。」
家臣たちが静かに頭を下げる。
清洲の夜は静かだった。
だが、その静けさの中で、次の戦いの準備はすでに始まっていた。
翌朝。
宗助は昨日の書付を源四郎へ渡した。
「これでよいでしょうか。」
源四郎は一通り目を通した。
「よく覚えておる。」
「間違っているところはありませんか。」
「大きな問題はない。」
源四郎は書付を畳んだ。
「これを上へ回す。」
「上へ?」
「軍の準備に使う。」
宗助は少しだけ背筋を伸ばした。
「俺の書いたものがですか。」
「そうじゃ。」
源四郎は宗助を見る。
「お主が見たものが、次に兵を動かす者の役に立つ。」
「……はい。」
「だから、これからも見たものは覚えておけ。」
「分かりました。」
源四郎が立ち上がる。
「ただし、一つ覚えておけ。」
「何でしょう。」
「書付は書付じゃ。実際に行けば、違うことも起こる。」
「はい。」
「だから、書いたものだけを信じるな。」
宗助は頷いた。
「自分の目でも見る。」
「そういうことじゃ。」
昼前。
宗助は城内を歩いていた。
戦から戻ったばかりだというのに、兵糧の搬入が始まっている。
修理を終えた荷車も戻ってきていた。
馬の世話をする者。
武具を手入れする者。
新しい矢束を運ぶ者。
城は静かに、次の準備へ移り始めている。
宗助はその様子を眺めた。
以前なら、出陣の時だけが戦の始まりだと思っていた。
今は違う。
兵が帰ってきた時から、次の戦の準備が始まる。
それを、少しずつ理解していた。
その時、城内の奥から武士が数人出てきた。
宗助は道を空ける。
その中に、見覚えのある姿があった。
信長だった。
宗助は頭を下げた。
信長も足を止めた。
「宗助。」
「はっ。」
「戻ってからも荷駄を見ておるのか。」
「はい。」
「休まぬの。」
「休んでおります。」
宗助が答えると、信長はわずかに口元を緩めた。
「そうか。」
信長の視線が、宗助の手にある書付へ移った。
「それは何じゃ。」
「今回の行軍で見たことを書いたものです。」
「ほう。」
宗助は簡単に説明した。
荷車が遅れた場所。
渡河に時間がかかった場所。
道が狭くなった場所。
信長は黙って聞いていた。
「面白いな。」
「ありがとうございます。」
「戦の話は武士がする。だが、兵がどこで苦労したかは、別の者でなければ分からぬこともある。」
宗助は顔を上げた。
「次に使えるよう、残しておけ。」
「はい。」
信長はそれだけ言うと、再び歩き始めた。
宗助も頭を下げた。
その姿が遠ざかるのを見ながら、宗助は手元の書付を見た。
自分が書いたものが、ただの記録ではなくなる。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
夕方。
宗助は荷駄置き場へ戻った。
修理を終えた荷車が並んでいる。
兵糧も少しずつ補充されていた。
「宗助。」
弥吉が声を掛ける。
「はい。」
「また美濃へ行くと思うか。」
宗助は少し考えた。
「行くと思います。」
「やっぱりか。」
「信長様が、あきらめるとは思えません。」
「そうじゃな。」
弥吉は荷車へ腰を掛けた。
「では、その前に飯じゃ。」
「まだ言いますか。」
「次の戦に備えるためじゃ。」
宗助は笑った。
清洲の夕暮れは穏やかだった。
兵たちの声も、昨日までのような緊張を帯びてはいない。
だが、城の中では兵糧が集められ、武具が修理され、戦の記録が整理されている。
静かな時間は、戦が遠ざかった証ではない。
次の戦へ向けて、力を蓄える時間だった。
宗助は美濃の方角を見た。
今度またあの土地へ向かう時、自分は何を見ることになるのだろう。
まだ分からない。
ただ一つ分かっていることがある。
次に美濃へ向かう時には、今回より多くのものを見て、今回より多くのことを伝えられるようになっていたい。
清洲の夜が静かに更けていく。
その静けさの向こうで、美濃との戦いはまだ終わっていなかった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、十四条・軽海の戦いを終えて尾張へ戻った宗助が、戦場で見たことを「記録として残す」段階へ進む話としました。
これまで宗助は、道や荷駄の状態を自分で判断することを覚えてきました。今回は、それを他の者が次の軍事行動に利用できる情報として残すことで、少しずつ役割が広がっています。
戦いのない清洲であっても、次の戦に向けた準備は静かに進んでいます。
次回『第四十一話 新たな役目』




