第三十九話 尾張への帰還
十四条、そして軽海での戦いを終えた織田軍は、夜が明けてもすぐには動かなかった。兵たちは疲れ切っていた。泥にまみれた槍や具足がそこかしこに置かれ、負傷した者には手当てが施されている。宗助も荷駄の状態を確認しながら、周囲の様子を見ていた。
森部の時とは違い、今回は織田側にも少なくない損害が出ている。
「宗助。」
源四郎が呼んだ。
「はい。」
「荷駄はどうじゃ。」
「大きな損傷はありません。ただ、何台か車輪を直す必要があります。」
「そうか。今日、洲股へ戻る。」
「墨俣へですか?」
「そうじゃ。」
宗助は周囲を見渡した。
「このまま美濃へ進むんじゃないんですか。」
「今は無理じゃ。」
源四郎は短く答えた。
「兵も疲れておる。傷ついた者も多い。荷駄も整え直さねばならん。」
「分かりました。」
しばらくすると、織田軍は少しずつ動き始めた。負傷者を後方へ回し、荷駄を整える。戦場に残された武具を回収し、持ち運べるものをまとめていく。
宗助は荷車の縄を締め直した。車輪の傷みを確認し、荷の重さを見ながら配置を変えていく。
「この車は後ろへ回してください。」
「なぜだ?」
「車輪が少し傷んでいます。急ぐと外れるかもしれません。」
「分かった。」
「こちらは重いので、坂では人を増やした方がいいです。」
「了解した。」
弥吉がその様子を見ながら近づいてきた。
「ずいぶん細かく見るようになったのう。」
「壊れてからでは遅いですから。」
「もっともじゃ。」
弥吉は荷車へ手を掛けた。
「なら、わしも手伝うかの。」
「お願いします。」
「飯を食う時間が遅くなるぞ。」
「そこは忘れないんですね。」
「大事なことじゃ。」
宗助は苦笑した。
やがて一行は洲股へ戻った。そこには森部の戦い以降、織田軍が拠点としていた場所がある。
宗助は荷駄を所定の場所へ移し、兵糧と矢束の数を確認した。残っている量は、出陣した時より明らかに少ない。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「兵糧、補充が必要ですね。」
「そうじゃ。」
「尾張から運ぶんですか。」
「それだけでは足りん。まずは軍そのものを立て直す。」
源四郎は周囲を見渡した。
「今回の戦で、兵も荷駄もかなり消耗した。無理に進めば、戦う前にこちらが動けなくなる。」
「はい。」
宗助は頷いた。
昼を過ぎた頃、陣内に新たな命が伝えられた。
織田軍は洲股を引き払い、尾張へ戻ることになった。
「帰るんですか。」
宗助は思わず聞き返した。
「そうじゃ。清洲へ戻る。」
宗助は美濃の方角を見た。
森部で勝利し、その後も美濃で戦った。それでも、美濃はまだ遠い。
「美濃を諦めるんでしょうか。」
「そんなことはない。」
源四郎が答えた。
「ただ、今は戻る。それだけじゃ。」
「はい。」
帰還のための準備が始まった。
空になった兵糧袋。
壊れた荷車。
使い切った矢束。
負傷者のための道具。
持ち帰る武具。
宗助は一つずつ確認し、荷車へ振り分けていった。
「この荷は別にしてください。」
「なぜだ?」
「負傷者の手当てに使うものです。普通の荷と混ぜると、後で探すのが大変になります。」
「分かった。」
宗助は次の荷車へ移る。
戦場から戻る時も、やることは多い。
兵が歩けば、荷駄も動く。
荷駄が動けば、それを支える者も必要になる。
宗助は黙々と作業を続けた。
やがて隊列が動き始める。
兵たちは疲れていた。会話も少ない。
それでも、荷駄の列は崩れず、少しずつ尾張へ向かって進んでいった。
「重いのう。」
弥吉が荷車を押しながら言った。
「身体ですか?」
「荷車もじゃ。」
「無理しないでください。」
「お主に言われるようになったか。」
「弥吉さんが倒れたら、飯を運んでくれる人がいなくなりますから。」
「それは困るのう。」
弥吉は笑った。
宗助も笑ったが、すぐに前へ視線を戻した。
帰り道では、行きとは違う景色が目に入った。
傷んだ道。
車輪の跡。
兵が休めそうな場所。
川を渡った場所。
美濃へ向かう時には通り過ぎた場所を、今度は帰還する軍勢の立場から見る。
だが、宗助はそれを口には出さなかった。
ただ、必要な場所を覚えていた。
夕暮れが近づく頃、隊列の前方から声が上がった。
「尾張へ入るぞ!」
兵たちの間に、わずかな安堵が広がった。
清洲へ戻ったのは、日が落ちる頃だった。
城内へ入った兵たちは、それぞれの持ち場へ戻っていく。
宗助も荷駄を所定の場所へ運び、最後の確認を始めた。
「兵糧、これだけ残っています。」
「矢は?」
「こちらです。」
「壊れた荷車は?」
「修理へ回します。」
報告を終えると、宗助はようやく肩の力を抜いた。
久しぶりに見る清洲の城内だった。
美濃で使った荷車には、まだ泥が残っている。車輪には傷があり、縄にも擦れた跡が残っていた。
「終わったな。」
弥吉が言った。
「はい。」
「しばらく休めるじゃろ。」
「そうだといいですね。」
「何じゃ、その言い方は。」
「弥吉さん、戦が終わったと思ったら次が始まるって言ってたじゃないですか。」
「そんなことを言ったかのう。」
「言いました。」
「なら、今は忘れよう。」
宗助は笑った。
その夜。
清洲城では、美濃から戻った兵たちの報告がまとめられていた。
森部での勝利。
十四条での戦い。
軽海での戦い。
敵味方双方の損害。
そして、洲股を引き払ったこと。
織田軍が美濃から戻ったことは、城内の武士たちにも伝わっていた。
宗助はその報告を直接聞く立場にはいなかった。
ただ、荷駄を片付けながら、城の空気が普段とは少し違っていることを感じていた。
「宗助。」
源四郎が最後に声を掛けた。
「はい。」
「今日はもう休め。」
「分かりました。」
「明日から、戻ってきた荷駄の整理を続ける。」
「……明日からですか。」
「荷車が勝手に直ると思うか?」
「思いません。」
「なら働け。」
「はい。」
源四郎は少し笑って、その場を離れた。
宗助は一人で荷駄の列を見つめた。
美濃から戻ってきた荷車には、今回の戦いの跡が残っている。
その一台へ手を置く。
しばらくして、宗助は手を離した。
美濃への道は、まだ終わっていない。
次に向かう時には、また違う道を歩くことになるかもしれない。
その時、自分がどこまで役に立てるのか。
今はまだ分からない。
ただ、今日やるべきことは終わった。
宗助は清洲の夜空を見上げた。
美濃の山々は、ここからでは見えない。
それでも、あの土地で起きたことは、確かに宗助の中に残っていた。
そして清洲では、すでに次の動きが始まろうとしていた。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、十四条・軽海の戦いを終えた織田軍が洲股を引き払い、尾張へ戻るまでを描きました。
戦場から戻った後も、兵糧や武具、荷車の整理など、宗助たちの仕事は終わりません。
そして、清洲へ戻ったことで、物語はいったん美濃の戦場を離れ、次の動きへ進んでいきます。
次回『第四十話 清洲の静けさ』




