第三十八話 迫る十四条
翌朝。まだ空が白み始めたばかりだというのに、陣内には普段とは違う緊張が漂っていた。昨夜、遅くに届いた報せの内容は、斎藤方が大きく動き始めたというものだった。宗助は荷駄の列を確認しながら、周囲の兵たちがいつもより早く支度をしていることに気づいた。槍を手にする者。弓の具合を確かめる者。馬の鞍を締め直す者。誰も大きな声を出してはいない。それでも、これから何かが起こることは分かった。
「宗助。」
源四郎が近づいてきた。
「はい。」
「荷駄を確認したら、すぐに動かせるようにしておけ。」
「出るんですか。」
「そうなるかもしれん。」
源四郎は美濃の方角を見た。
「敵が十四条へ兵を出した。」
「十四条……。」
宗助は知らない地名だった。
「ここから近いんですか。」
「戦になれば、すぐにこちらも動くことになる。」
宗助は頷いた。
「分かりました。」
荷駄の確認を急ぐ。兵糧。矢束。縄。車輪。馬具。昨日までなら一つずつ確認するだけだったが、今は戦になった時のことまで考えている。
荷車を置く場所。逃げ道。兵が通る道。負傷者を運ぶ場所。
宗助は一つずつ頭の中に入れていった。
やがて、陣の前方から伝令の声が響いた。
「敵、十四条に陣を構えたり!」
兵たちの間に緊張が走る。
宗助は槍を手に取った。
「来ますね。」
弥吉が隣に立った。
「来るのう。」
「森部の時とは違います。」
「何がじゃ。」
「向こうから、こちらを攻めるために出てきています。」
弥吉は黙って美濃の方角を見た。
「そうじゃな。」
源四郎が声を上げた。
「荷駄を整えろ! 出陣に備えよ!」
兵たちが一斉に動き始めた。
墨俣の陣から、織田勢が動き出す。
宗助も荷駄の列に加わった。
道を進むにつれて、兵の数が増えていく。
前方には足軽。その後ろに武士たち。
さらに荷駄が続く。
宗助は何度も後ろを振り返った。
荷車が遅れていないか。
道が詰まっていないか。
兵の間隔が狭くなっていないか。
森部の戦いを経験してから、そうしたことが気になるようになっていた。
やがて十四条の近くへ入ると、前方に美濃勢の姿が見え始めた。
旗が並んでいる。兵の数も多い。
森部で戦った時とは、明らかに違っていた。
「宗助。」
源四郎が振り返る。
「はい。」
「荷駄は後ろから離れるな。」
「分かりました。」
「だが、戦が始まれば道が塞がる可能性がある。」
「その時は、横へ逃がします。」
「よく覚えておるな。」
「何度も言われましたから。」
源四郎が少し笑った。
「それでよい。」
前方で戦が始まった。
足軽同士がぶつかる。
槍が交わり、怒号が上がる。
宗助は荷駄の近くから戦場を見ていた。
だが、すぐに様子がおかしいことに気づいた。
「弥吉さん。」
「何じゃ。」
「敵が多いです。」
「そうじゃな。」
「それに、こちらが押されています。」
織田勢の前方が少しずつ後ろへ下がっていた。
兵の列が乱れる。
前へ出ようとする者と、後ろへ退こうとする者が重なり始めていた。
「下がれ!」
前方から声が飛んだ。
「退け!」
宗助は荷駄を見た。
このまま兵が下がれば、荷車とぶつかる。
「荷駄、動かします!」
宗助が叫んだ。
「後ろを空けてください!」
近くの兵たちが荷車を押し始める。
その直後、前方から負傷した兵が走ってきた。
「道を空けろ!」
宗助は荷車を横へ寄せる。
「こちらへ!」
兵が荷車の脇を抜けていく。
宗助は周囲を見た。
森部では勝った。
だが、今日は違う。
敵の勢いが強い。
味方の列が崩れかけている。
「源四郎殿!」
源四郎が振り返った。
「何じゃ!」
「このままだと荷駄まで詰まります!」
「分かっておる!」
源四郎は前方へ向き直った。
「さらに下げるぞ!」
織田勢が少しずつ後退していく。
宗助も荷駄を動かしながら後ろへ下がった。
戦場では、勝つことだけが戦ではない。
崩れそうになった時に、どこまで隊列を保てるか。
どこまで兵を逃がせるか。
荷駄を失わずに退けるか。
宗助は必死に周囲を見ていた。
その時、兵たちの間から大きな声が上がった。
「織田の武士が討たれた!」
宗助の足が止まりそうになる。
だが、止まれない。
「動かせ!」
源四郎の声が飛ぶ。
「はい!」
宗助は再び荷車を押した。
織田勢は十四条から退き始めた。
敵は勢いに乗って追ってくる。
宗助は何度も後ろを確認した。
追撃してくる兵がいる。
だが、こちらも少しずつ隊列を整え始めていた。
やがて織田勢はさらに南へ退き、西軽海の方へ向かった。
「ここで止まる!」
前方から声が響いた。
兵たちが次々と足を止める。
宗助も荷駄を止めた。
「ここは……。」
弥吉が周囲を見る。
「さっきまでとは違うのう。」
宗助は周囲を見回した。
先ほどまでの混乱が少しずつ収まっている。
兵たちが並び直す。武士たちが指示を出す。
織田勢は崩れたまま逃げ続けるのではなく、もう一度敵と向き合うための形を作り始めていた。
宗助はその光景を見つめた。
戦は、ただ押して押されるだけではない。
崩れたら立て直す。
退くなら、次に戦える場所まで退く。
そのことを初めて目の前で見た。
「宗助。」
源四郎が戻ってきた。
「はい。」
「荷駄は無事か。」
「大きな損傷はありません。」
「よし。」
源四郎は周囲を見た。
「ここから動く時は、また指示する。」
「分かりました。」
しばらくすると、敵の姿が見えてきた。
美濃勢はさらに南へ進み、こちらへ向かっている。
織田勢も再び備える。
日が傾き始めても、戦は終わらなかった。
宗助は荷駄のそばで槍を握ったまま、前方を見ていた。
昼間とは違う。
日が落ちれば、敵の姿は見えにくくなる。
それでも戦は続く。
「夜になるぞ。」
弥吉が言った。
「はい。」
「怖いか。」
宗助は少し黙った。
「怖いです。」
「そうじゃろうな。」
「でも、前ほどではありません。」
「なぜじゃ。」
宗助は槍を握り直した。
「何をすればいいか、少し分かるようになったからです。」
弥吉は笑った。
「それなら、少しは成長したのう。」
夜になった。暗闇の中で、再び兵たちが動き始めた。
槍がぶつかる音。
怒号。足音。
敵味方の区別がつきにくい中で、戦はさらに激しくなっていった。
宗助は荷駄の位置から離れない。
それでも、前方の動きには目を配っていた。
「右から来ます!」
宗助が叫ぶ。
近くの兵が槍を向ける。
敵の姿が暗闇から現れた。
槍が交わる。
すぐに別の場所でも声が上がる。
「押せ!」
「退くな!」
夜の戦は、昼間よりも何倍も恐ろしかった。
見えない。何が起きているのか分からない。
ただ、誰かの声を頼りに動くしかない。
宗助は荷駄の位置を確認した。
無事だ。
それだけを確かめると、再び前方を見る。
やがて、敵の動きが少しずつ遠ざかっていった。
「退いているぞ!」
兵の声が響いた。
だが、誰もすぐには追わなかった。
夜の闇の中で、敵を深追いする危険を皆が理解していた。
宗助は荒い息を吐いた。長い一日だった。
朝から戦い。退却。立て直し。そして夜の戦。
森部での勝利とはまったく違う。
戦に勝つ日もあれば、押される日もある。
それでも兵は生き残り、次の戦へ備えなければならない。
「宗助。」
源四郎が近づいてきた。
「はい。」
「荷駄は?」
「無事です。」
「よく守った。」
源四郎はそれだけ言った。
宗助は前方を見た。
敵は夜のうちに引いていったらしい。
だが、こちらも追うことはなかった。
夜が明ける。
翌朝。
織田勢は墨俣へ戻ることになった。
宗助は荷駄を整えながら、昨日の戦場を思い出していた。
森部では勝った。
十四条では押された。
そして、最後には夜まで戦った。
戦場は一つの形ではない。
勝つこともあれば、退くこともある。
そのたびに、自分の役目を果たさなければならない。
「宗助。」
弥吉が飯を持ってきた。
「食え。」
「またですか。」
「昨日はよく働いたからの。」
「弥吉さんは、戦があるたびに飯をくれますね。」
「戦がなくても食わせるぞ。」
宗助は笑った。
墨俣へ戻る道を歩きながら、宗助は美濃の方角を振り返った。
森部で勝った時には、このまま美濃へ進めるのではないかと思った。
だが、現実はそう簡単ではなかった。
美濃にはまだ力がある。
斎藤龍興もいる。
今回の戦いで、織田勢は一度退いた。
それでも、戦は終わらない。
墨俣へ戻ると、陣の撤収準備が始まった。
宗助は荷駄を一つずつ確認した。
兵糧。矢。縄。車輪。
昨日までと同じ作業だった。
だが、宗助の目はもう以前とは違っていた。
荷駄を守ること。
隊列を見ること。
敵を見ること。
退く時に道を空けること。
そして、見たものを仲間へ伝えること。
そのすべてが、自分の役目なのだ。
宗助は荷車の縄を締め直した。
「これで大丈夫です。」
弥吉が頷く。
「では、帰るか。」
「はい。」
織田勢は墨俣を引き払い、尾張へ向けて戻っていく。
宗助は歩きながら、何度も後ろを振り返った。
美濃の大地。
その向こうにある稲葉山城。
まだ遠い。
今回の戦いで、そこへ近づくどころか、一度押し返された。
それでも宗助には分かった。
森部での勝利も、十四条での退却も、すべて次へつながっている。
戦は一度で終わらない。
そして、自分もまだここで終わるわけではない。
宗助は前を向いた。
清洲へ戻れば、また次の命が待っている。
それが戦国という時代だった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、森部での勝利から一転し、十四条で織田勢が斎藤方に押され、いったん退きながら戦線を立て直す流れを描きました。
史実では、永禄四年五月二十三日、斎藤龍興の軍勢が井口から出陣して十四条に陣を構え、墨俣にいた織田信長もこれを迎え撃ちました。朝の戦いでは織田方の瑞雲庵の弟が討たれ、織田勢はいったん退却しています。その後、信長は西軽海の古宮付近で再び陣を整え、夜まで戦闘が続きました。翌五月二十四日の朝、信長は墨俣へ戻り、その後、墨俣の要害を引き払っています。
森部で勝ったからといって、そのまま美濃を制圧できるわけではない。今回の十四条での苦戦によって、宗助もその現実を知ることになります。
次回『第三十九話 尾張への帰還』




