第三十七話 勝利の先
森部での戦いから一夜が明けた。雨はようやく上がっていたが、地面にはまだ水が残り、兵たちが歩くたびに泥が跳ねた。夜の間に運び込まれた負傷者の手当てが続き、戦場に残された武具や荷物の整理も始まっている。宗助は荷駄のそばで、泥にまみれた荷車を一台ずつ確認していた。
「車輪は大丈夫そうです。」
「昨日あれだけ泥の中を走らせたのに、よく壊れんかったのう。」
弥吉が荷車の車輪を覗き込む。
「壊れかけているものもあります。これと、あっちの荷車は修理した方がいいです。」
「分かった。後で人を呼ぶか。」
「はい。」
宗助は荷車の周囲を歩いた。昨日の戦いでは、荷駄を守ることだけで精一杯だった。だが、一夜明けて見ると、戦場で何が起きたのかが少しずつ分かってくる。荷車には泥がこびりつき、縄は緩み、兵糧を入れた俵のいくつかには雨が染みていた。
「宗助。」
源四郎が近づいてきた。
「はい。」
「荷駄の確認は終わったか。」
「まだです。大きな被害はありませんが、修理が必要な荷車があります。」
「分かった。使えぬものがあれば後ろへ回せ。」
「はい。」
源四郎は少し離れた場所を見た。
「それと、今日中にここを動く。」
宗助は顔を上げた。
「もうですか。」
「そうじゃ。」
「どこへ向かうんですか。」
「墨俣へ向かう。」
宗助は美濃の方角を見た。
「森部から、さらに進むんですね。」
「昨日の勝利だけで満足しておれば、こちらが攻められる。」
源四郎は静かに言った。
「敵が立て直す前に、こちらも次の手を打つ。」
宗助は頷いた。
「分かりました。」
織田の兵たちは、戦の後始末を終えると移動の準備に入った。負傷者は後方へ回され、荷駄は順番を整えられていく。昨日まで敵のいる土地へ進むことに恐怖を感じていた宗助も、今では荷車が通れる道を探し、兵たちへ伝えることに意識を向けていた。
「この道なら通れます。」
宗助が前方の兵へ声を掛ける。
「右側はぬかるんでいます。荷車は左へ寄せた方がいいです。」
「分かった。」
隊列が少しずつ進んでいく。
森部での戦いを終えた織田軍は、西美濃での足場をさらに固めるために動いていた。向かう先は墨俣だった。
やがて、兵たちの前に川が見えてきた。
「また川ですか。」
弥吉が言う。
「そうですね。」
「戦より川を渡る方が疲れるんじゃないかのう。」
「荷駄を運ぶ方は大変でしょうね。」
「だから飯が必要じゃ。」
「そこに戻るんですね。」
宗助は笑った。
渡河の準備が始まる。兵たちが先に進み、荷駄は後から慎重に運ばれていく。宗助は川岸に立ち、荷車を通す場所を確認した。
「こちらなら浅いです。」
近くの兵へ伝える。
「向こう側はどうだ。」
「少し上がったところが狭くなっています。荷車を一台ずつ通した方がいいです。」
「分かった。」
荷駄が少しずつ川を越えていく。
宗助は最後までその様子を見ていた。
森部で戦った翌日でも、軍は止まらない。
兵が戦えば、兵糧が必要になる。
兵が移動すれば、荷駄も動かなければならない。
戦場で槍を振るうことだけが戦ではない。
そんなことを、宗助は少しずつ理解し始めていた。
墨俣へ到着すると、兵たちは周囲の地形を確認しながら陣を整え始めた。川に近く、道も複数に分かれている。兵を置く場所だけでなく、荷駄を置く場所も考えなければならない。
「宗助。」
源四郎が呼んだ。
「はい。」
「荷駄はどこへ置く。」
宗助は周囲を見回した。
「ここです。」
「理由は。」
「川から離れすぎていません。それに、道を塞ぎません。敵が来ても後ろへ動かせます。」
源四郎は黙って宗助を見た。
「分かった。そこへ置け。」
「はい。」
宗助は兵たちへ指示を伝えた。
荷車が並べられ、兵糧が降ろされる。矢束も濡れない場所へ移された。
陣が整っていくにつれて、墨俣は一つの軍事拠点のような姿になっていった。
その日の夕方。
宗助は陣の外側を歩いていた。
昨日の森部とは違い、ここにはすぐに敵がいるわけではない。
だが、静かだからこそ不気味だった。
「宗助。」
弥吉が後ろから追いついた。
「何ですか。」
「また一人で見回っておるのか。」
「道を覚えておこうと思って。」
「もう十分覚えておるじゃろ。」
「それでも、知らない場所ですから。」
弥吉は笑った。
「お主、本当に道を見るのが好きになったのう。」
「好きというより、見ておかないと落ち着かないんです。」
「それなら立派な病じゃ。」
「病気扱いしないでください。」
二人が笑っていると、遠くから馬の音が聞こえた。
宗助が振り返る。
陣へ向かって、一頭の馬が走ってくる。
「伝令です!」
兵たちが集まった。
「何があった。」
源四郎が尋ねる。
「美濃方が兵を集めております。」
周囲の空気が変わった。
「どこで。」
「十四条の方です。」
源四郎は表情を変えなかった。
「数は。」
「まだ正確には分かりません。ただ、森部で敗れた兵を集め、再びこちらへ向かう動きがあるとのことです。」
宗助は美濃の方角を見た。
やはり終わってはいなかった。
森部で勝った。
それでも敵は立ち上がる。
昨日の戦いで倒れた兵たちを思い出す。
勝利すれば、すべてが終わると思っていた。
だが、そうではない。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「また戦になるんでしょうか。」
「その可能性は高い。」
「ここも危なくなりますか。」
「分からん。」
源四郎は墨俣の周囲を見た。
「だから備える。」
宗助は頷いた。
その夜、陣内では兵たちが交代で見張りについた。荷駄もただ置いてあるだけではない。いつでも動かせるよう、縄や車輪の状態が確認されていた。
宗助も荷車のそばに座り、槍を抱えていた。
「眠らんのか。」
弥吉が隣に座った。
「少し眠ります。」
「なら飯を食え。」
「寝る前にですか。」
「腹が減っては眠れん。」
弥吉から渡された飯を受け取る。
「ありがとうございます。」
「今日もよく働いたからの。」
宗助は飯を口に運んだ。
森部で食べた飯とは違う。
あの時は勝利の後だった。
今は、次の戦いを待つ夜だった。
「弥吉さん。」
「何じゃ。」
「戦って、勝って、それでもまた戦うんですね。」
「そうじゃ。」
「大変ですね。」
「だから飯を食う。」
「そこは本当に変わりませんね。」
「腹だけは裏切らんからの。」
宗助は笑った。
だが、笑い終えると再び美濃の方角を見た。
遠くの闇の中で、敵もまた次の戦いに備えている。
森部の勝利によって、織田軍は西美濃へさらに足場を築き始めた。
しかし、美濃方もまた態勢を整えようとしていた。
そして、十四条の地で再び両軍がぶつかることになる。
宗助は槍を握り直した。
次の戦では、森部とは違う働きが求められるかもしれない。
だからこそ、今は見る。
道を見る。
陣を見る。
荷駄を見る。
そして、敵の動きを見る。
夜の墨俣に、見張りの声が響いた。
「異常なし!」
宗助は空を見上げた。
雨は止んでいた。
だが、美濃との戦いはまだ続いている。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、森部での勝利の直後から、織田軍がさらに西美濃へ進み、墨俣を押さえて次の戦いに備える流れを描きました。
森部での戦いそのものや戦果については前話ですでに描いているため、今回はそこを繰り返さず、戦後の移動と墨俣での陣構え、そして美濃方が再び兵を集め始めるところまでを中心にしています。
史実では、森部の戦いの後、織田信長は墨俣を押さえて要害とし、その後、五月二十三日に十四条で再び斎藤方と戦っています。
宗助にとっても、森部での経験をただ振り返るのではなく、それを墨俣での荷駄運用や陣の構築に実際に生かす段階へ進みました。
次回『第三十八話 十四条へ』




