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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第三十六話 森部の雨

 雨は次第に強くなっていた。勝村の陣を出た美濃勢が近づいているという報せが届くと、織田の兵たちは一斉に動き始めた。槍を手に取る者、弓を確かめる者、馬の具合を見る者。さっきまで休んでいた陣内が、瞬く間に戦の場所へ変わっていく。

「宗助!」

 源四郎の声が飛んできた。

「はい!」

「荷駄をまとめろ。ただし、一か所へ固めすぎるな。」

「分かりました。」

 宗助は近くの兵へ声を掛けた。

「この荷車を少し後ろへ。あちらは道を空けてください。」

「分かった。」

「矢束は濡らさないように。」

「今やっている!」

 雨に濡れた地面は、すでに泥になり始めていた。荷車の車輪が深く沈めば、それだけで動かすのが難しくなる。

「宗助。」

 弥吉が駆け寄ってきた。

「何じゃ。」

「この雨じゃ。荷駄を動かすのも大変そうです。」

「だから、今のうちに動かせるようにしておきます。」

「なるほどのう。」

 弥吉は周囲を見回した。

「お主、本当に変わったな。」

「そうですか?」

「前なら、敵が来ると聞いただけで槍を握って震えておった。」

「今も震えてますよ。」

「なら大して変わっておらん。」

 宗助は苦笑した。

 だが、手は止めなかった。

 敵が来る。

 それだけではない。

 雨が降っている。

 地面がぬかるんでいる。

 荷車が動きにくくなる。

 道が狭くなれば、兵の動きも鈍る。

 昨日までなら、それぞれ別々のことに見えていた。

 今は、それらが一つにつながっている。

「敵影!」

 前方から声が響いた。

 宗助が顔を上げる。

 雨の向こうに、いくつもの人影が見えた。

 旗が揺れている。

 美濃勢だった。

「来たぞ!」

 兵たちの間に緊張が走る。

 源四郎が槍を構えた。

「宗助。」

「はい。」

「ここを頼む。」

「分かりました。」

 源四郎は前方へ走っていった。

 宗助は荷駄の周囲を見回した。

 敵はまだ遠い。

 だが、戦が始まれば一気に近づいてくる。

「弥吉さん。」

「何じゃ。」

「荷車を少し下げましょう。」

「今からか?」

「今だからです。」

 宗助は道の先を指した。

「あそこが詰まったら、ここまで動けなくなります。」

 弥吉は一度だけ道を見た。

「よし。手を貸すぞ。」

「お願いします。」

 何人かの兵が荷車を押し始める。

 車輪が泥に沈む。

「重い!」

「もう少し押せ!」

 荷車がゆっくり動いた。

 その直後、前方から大きな声が上がった。

「進め!」

 織田の兵が動き始めた。

 宗助は思わず前を見る。

 雨の中、兵たちが一斉に走っていく。

 槍が並び、旗が揺れる。

 その先には、美濃勢がいる。

 織田軍は川へ向かった。

「川を渡るぞ!」

 源四郎の声が聞こえる。

 宗助は一瞬、足を止めた。

 目の前には雨で水かさを増した川がある。

 先頭の兵たちが次々と水へ入っていく。

 泥に足を取られながら、それでも前へ進む。

「宗助!」

「はい!」

「荷駄は後ろだ! 渡れる場所を見ろ!」

 宗助は川岸を見た。

 水の流れが強い場所と、比較的浅い場所がある。

「こっちです!」

 宗助は声を張った。

「荷車はあちらへ! ここは深い!」

「分かった!」

 兵たちが荷車を別の場所へ動かす。

 川を渡るだけでも時間がかかった。

 だが、織田の兵たちは止まらなかった。

 宗助も荷駄の後ろから川を渡った。

 冷たい水が足を包む。

 泥に足が沈む。

 それでも前へ進む。

 対岸へ上がった時には、すでに前方で戦いが始まっていた。

 槍と槍がぶつかる音がする。

 怒号が雨音を突き抜けて響く。

「始まった……。」

 弥吉が呟いた。

 宗助は槍を握った。

「荷駄を守ります。」

「そうじゃ。」

 弥吉も槍を構える。

「わしもおる。」

 宗助は前方を見た。

 美濃勢は思っていたより多い。

 しかも、左右へ広がるように動いている。

「弥吉さん。」

「何じゃ。」

「あちら、広がっています。」

「敵がか?」

「はい。」

 宗助は目を凝らした。

「中央が薄くなっているように見えます。」

 その時、前方から織田の兵が一気に押し込んだ。

 槍がぶつかる。

 兵が叫ぶ。

 泥の中で足を取られながら、両軍が押し合う。

 宗助は荷駄の位置から戦場を見ていた。

 前へ出れば敵と戦える。

 だが、ここを離れれば荷駄が無防備になる。

 源四郎から言われた役目を思い出す。

 見る。

 そして伝える。

「源四郎殿!」

 声が届かない。

 宗助は近くの伝令役の兵を呼んだ。

「中央が押しています! 敵の左右が広がっています!」

「分かった!」

 兵は前方へ走っていった。

 しばらくして、戦場の動きが変わった。

 織田勢が中央へさらに兵を入れていく。

 美濃勢の動きが乱れ始めた。

「押せ!」

「退くな!」

 怒号が飛び交う。

 宗助はその光景を見つめた。

 雨は止まない。

 槍は泥で汚れ、兵たちの顔にも泥が跳ねている。

 それでも織田勢は押し続けた。

 やがて、美濃側の一角が崩れた。

「退いているぞ!」

 誰かが叫んだ。

 その声に反応するように、別の場所でも美濃勢が後ろへ下がり始める。

「追え!」

 織田の兵たちが動く。

 宗助も一歩前へ出かけた。

 だが、すぐに止まった。

 荷駄がある。

 ここを離れるわけにはいかない。

「宗助!」

 源四郎が戻ってきた。

「はい!」

「そのままでよい!」

「はい!」

 源四郎は息を切らしていた。

「敵は崩れた。だが、荷駄を守れ。」

「分かりました。」

 宗助は前方を見た。

 戦場には、まだ敵の兵が残っている。

 勝ったからといって、すべてが終わったわけではない。

 それが少し分かるようになっていた。

「弥吉さん。」

「何じゃ。」

「追わないんですか。」

「わしらの役目は別じゃ。」

「そうですね。」

 宗助は頷いた。

 しばらくして、戦場の声が少しずつ遠ざかっていった。

 雨の中を逃げていく美濃勢の姿が見える。

 織田の兵たちも、少しずつ足を止め始めていた。

 宗助は荷駄の状態を確認する。

 荷車は泥だらけだったが、大きな損傷はない。

 兵糧も残っている。

 矢束も無事だった。

「荷駄、問題ありません!」

 宗助が叫ぶ。

「よし!」

 近くの兵から返事が来た。

 宗助はようやく息を吐いた。

 その時、前方から大きな歓声が上がった。

「勝ったぞ!」

「美濃勢が退いた!」

 兵たちの声が雨の中に響く。

 宗助はその声を聞きながら、槍を握ったまま立っていた。

 自分が戦場の中心にいたわけではない。

 大将でもない。

 名のある武将でもない。

 それでも、自分の見たものを伝えた。

 荷駄を守った。

 そして、仲間が戦うための場所を守った。

「宗助。」

 弥吉が声を掛ける。

「はい。」

「今日は、よく見ておったな。」

「見ていただけです。」

「それが大事なんじゃろ。」

 宗助は少し笑った。

「そうですね。」

 しばらくすると、前方から新たな知らせが届いた。

「敵の大将たちも討ち取ったそうだ!」

 兵たちの間にざわめきが広がる。

 長井甲斐守。

 日比野下野守。

 美濃側の主だった者たちが討たれたという。

 宗助はその名を聞き、言葉を失った。

 これまで道の向こうにいた敵が、今は戦場で倒れている。

 戦とは、こういうものなのだ。

「宗助。」

 源四郎が近づいてきた。

「はい。」

「覚えておけ。」

「何をですか。」

「戦に勝っても、油断するな。」

 宗助は頷いた。

「はい。」

「それから、今日お主が伝えたことは役に立った。」

 宗助は驚いて源四郎を見る。

「本当ですか。」

「嘘を言ってどうする。」

 源四郎は少しだけ笑った。

「見るだけでは足りん。だが、見たものを伝えれば、それは力になる。」

 宗助はその言葉を胸に刻んだ。

 雨はまだ降っていた。

 泥にまみれた兵たちが、倒れた者を運び、武具を集めている。

 遠くでは、美濃勢の姿が少しずつ消えていく。

 この戦いで、織田は美濃に対して初めて大きな勝利を得た。

 だが、宗助にはまだ知らないことが多かった。

 美濃との戦いは、これで終わりではない。

 むしろ、ここから先はさらに大きな戦いへ続いていく。

 その夜、陣では戦果の確認が行われた。

「長井甲斐守、討死。」

「日比野下野守も討ち取られたとのことです。」

「百七十余りの首が上がっております。」

 報告を聞く武士たちの顔は険しかった。

 宗助は少し離れた場所で荷駄の確認を続けていた。

 戦に勝った。

 それでも、やることは変わらない。

 兵糧を確認する。

 矢を数える。

 壊れた荷車を調べる。

 負傷者のために必要な物を運ぶ。

 戦が終われば、次の戦の準備が始まる。

「宗助。」

 弥吉が飯を持ってきた。

「食え。」

「ありがとうございます。」

「今日はよく働いたからの。」

 宗助は飯を受け取った。

 冷めていた。

 だが、不思議といつもよりうまく感じた。

「弥吉さん。」

「何じゃ。」

「戦に勝った後の飯って、少し違いますね。」

「そうじゃろう。」

 弥吉は満足そうに頷いた。

「だから飯は大事なんじゃ。」

 宗助は笑った。

 雨の音を聞きながら、二人は黙って飯を食べた。

 その頃、別の場所では織田の武士たちが次の動きを話し合っていた。

 森部で勝った。

 美濃勢は大きく崩れた。

 ならば、このまま終わるはずがない。

 宗助はそのことをまだ知らない。

 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 これまで「道を見る」ことから始まった自分の役目は、少しずつ変わっている。

 道を見る。

 敵を見る。

 味方を見る。

 荷駄を見る。

 そして、それを誰かへ伝える。

 それが、戦場で自分にできることなのだと、宗助は初めて実感していた。

 雨は夜になっても降り続いていた。

 その向こうには、美濃の城と、まだ戦う力を残した敵がいる。

 森部での勝利は、次の戦いを呼び込むことになる。


――あとがき――

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 今回は、宗助が初めて大きな戦の流れを目の前で経験し、「見る」だけではなく、見たものを伝えることが仲間を支える力になると実感する回となりました。

 史実では、永禄四年五月十四日、雨の中で森部の合戦が行われ、織田信長は楡俣川を越えて美濃勢を迎え撃ちました。長井甲斐守、日比野下野守らが討ち取られ、美濃勢は大きな損害を受けています。また、この戦いでは前田利家が二つの首を取り、その働きによって信長から赦免されたことが『信長公記』に記されています。森部での勝利によって、織田と美濃の戦いはさらに大きな局面へ進んでいきます。

 次回『第三十七話 勝利の先』

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