第三十五話 戦場での働き
翌朝。織田の兵たちは、夜が明けるとともに動き始めていた。前日の戦いで傷ついた者には手当てが施され、荷駄の状態も一台ずつ確認されている。矢が突き刺さった荷車は側板を補修され、縄が緩んだ荷には新しい縄が掛けられていた。宗助は自分の腕に巻かれた布を見下ろした。浅い傷だった。槍を握ることもできる。だが、昨日までとは何かが違っていた。敵の姿を実際に見た。そして、自分の判断が隊列を守ることにつながった。そのことが、宗助の中に残っていた。
「痛むか。」
弥吉が隣から覗き込んだ。
「少しだけです。」
「なら飯を食えば治る。」
「それ、前にも言ってませんでしたか。」
「飯は何度食ってもよい。」
宗助は苦笑した。そこへ源四郎が近づいてきた。
「宗助。」
「はい。」
「腕は使えるか。」
「問題ありません。」
源四郎は傷を一度確認すると頷いた。
「ならば荷駄を見てこい。」
「分かりました。」
宗助は荷駄の列へ向かった。昨日までなら、ただ荷物が無事かどうかを見るだけだった。だが今は違う。荷車の車輪、積まれた兵糧、矢束の数、縄の状態。戦になった時にどこまで動かせるのかまで考えるようになっていた。
「ずいぶん真剣に見ておるの。」
弥吉が後ろから声を掛ける。
「昨日、少し分かった気がします。」
「何がじゃ?」
「荷駄を守るって、荷車のそばに立っているだけじゃないんですね。」
弥吉は少し黙った。
「そうじゃな。」
「どこで止めるか。どこなら動かせるか。敵が来た時に、どこへ下げるか。」
「考えることが多いのう。」
「はい。」
「なら、わしは飯を考えておこう。」
「そこは考えなくても大丈夫です。」
宗助が笑う。だが、その笑いも長くは続かなかった。
昼前になると、陣内に新たな命が伝えられた。兵たちは一斉に動き始め、負傷者を後方へ移し、荷駄をまとめていく。
「戻るぞ。」
源四郎が言った。
「清洲へですか。」
「そうじゃ。今回の役目は終わった。」
宗助は美濃の方角を振り返った。林の向こうにいた敵の姿が頭に浮かぶ。
「また来るんでしょうか。」
「おそらくな。」
源四郎は短く答えた。
「向こうも、こちらが兵を出すことを知った。こちらも、向こうが黙って見ておらぬことを知った。」
「では、次はもっと大きくなる。」
「そうなるかもしれん。」
隊列が動き始める。帰り道、宗助は行きとは違う目で周囲を見ていた。道幅、坂、林、川、荷車が止まりやすい場所。昨日までなら単なる風景だったものが、すべて意味を持って見える。
清洲へ戻ったのは夕刻近くになってからだった。城へ入ると、宗助は荷駄の報告を済ませ、そのまま詰所へ向かった。だが、城内の様子は普段とは違っていた。兵糧が運ばれ、矢束が積まれ、馬が繋がれている。前の出陣を終えたばかりだというのに、すでに次の準備が始まっていた。
「また出るんですか。」
宗助が呟く。
「そのようじゃな。」
弥吉も疲れた顔で答えた。
「戦というのは、終わったと思ったら次が始まる。」
「休む暇がありませんね。」
「だから飯を食うのじゃ。」
「結局そこですか。」
詰所へ入ると、源四郎が待っていた。だが、その表情はいつもより硬かった。
「座る必要はない。」
「はい。」
「新しい報せが来た。」
源四郎は書付を広げた。
「美濃で、斎藤義龍が死んだ。」
宗助は目を見開いた。
「斎藤義龍が……?」
「病で急死したらしい。」
永禄四年五月十一日。美濃を支配していた斎藤義龍が死去し、嫡男の龍興が家督を継いだと伝えられている。
「では、美濃は今……。」
「代替わりの最中じゃ。」
源四郎は書付を畳んだ。
「こういう時は国の中も落ち着かん。」
「だから織田が動くんですか。」
「そうじゃ。」
源四郎は美濃の絵図を広げた。
「今度は小さな隊ではない。」
宗助は絵図を見た。
「大きな軍を出すんですか。」
「そのつもりじゃ。」
弥吉が息を呑む。
「また美濃へ?」
「今度は、ただ道を確かめるためではない。」
源四郎の指が絵図の上を動いた。
「西美濃へ入る。」
宗助は黙って絵図を見つめた。これまで歩いてきた道が、その先の川へ続いている。その向こうには美濃の土地が広がっている。
「川を越えるんですね。」
「そうじゃ。」
「荷駄も?」
「兵だけでは戦はできん。」
源四郎は宗助を見る。
「兵糧も矢も必要になる。馬もいる。だからこそ、荷駄を止めるわけにはいかん。」
「分かりました。」
「お主には、これまで通り荷駄を見てもらう。」
「はい。」
「だが、今回はもう一つ覚えておけ。」
宗助は顔を上げた。
「何でしょう。」
「自分が見たものを、他の者へ伝えろ。」
「伝える?」
「道の幅。坂。川。荷車が通れる場所。兵が休める場所。敵が隠れそうな林。昨日までなら、お主が覚えていればよかった。」
源四郎は絵図を指した。
「これからは、他の兵にも分かるようにせよ。」
宗助はしばらく絵図を見つめた。
「俺に、できますか。」
「できるかどうかではない。」
源四郎は静かに言った。
「見てきたものを無駄にするな。」
宗助は頷いた。
「分かりました。」
数日後。清洲城を出る軍勢は、これまでとは比べものにならない規模になっていた。足軽、弓兵、騎馬の侍、荷駄を扱う者たちが列を作り、兵糧や矢を積んだ荷車が続いている。
宗助は隊列の中から周囲を見渡した。これだけの人数が動けば、道は簡単には進まない。先頭が進んでも後ろが詰まり、荷駄が止まれば、その影響は何十人、何百人にも及ぶ。
「宗助。」
弥吉が隣へ来た。
「今度は本当に人が多いのう。」
「はい。」
「これだけおれば、飯もたくさん要る。」
「弥吉さん、そこばかり見てませんか。」
「兵糧は戦の命じゃ。」
宗助は笑った。
隊列は清洲を離れ、西へ進んだ。やがて川へ近づく。渡河の準備が始まり、船が何度も往復する。兵だけではない。荷駄も馬も渡さなければならない。時間はかかったが、軍勢は少しずつ美濃側へ渡っていった。
宗助は対岸へ着くたびに、道の状態を確認した。
「ここは荷車が通れます。」
近くの兵へ伝える。
「この先は坂があります。車輪を押す人手が必要です。」
「分かった。」
「林の手前は道が狭くなります。」
少しずつ、宗助の見てきたものが他の兵へ渡っていく。
やがて軍勢は西美濃へ進み、勝村と呼ばれる地に陣を置いた。永禄四年五月十三日、信長は西美濃へ侵攻し、勝村に陣を構えたと記録されている。
陣が整うと、周囲には兵たちの姿があふれた。荷駄が並び、馬が繋がれ、武具の確認が行われる。宗助は自分の持ち場を確認した。
「ずいぶん遠くまで来たな。」
弥吉が言う。
「はい。」
「前に来た時とは、まるで違う。」
「敵も同じでしょうね。」
宗助は美濃の方角を見た。
「こちらがこれだけ来たんです。向こうも黙ってはいないと思います。」
「その通りじゃ。」
源四郎が後ろから現れた。
「斎藤方が墨俣から兵を出したとの報せが来ておる。」
宗助の表情が変わる。
「こちらへ来るんですか。」
「その可能性が高い。」
源四郎は周囲を見回した。
「戦になる。」
その言葉と同時に、陣内の空気が変わった。
兵たちが槍を手に取る。弓兵が弦を確かめる。荷駄を扱う者たちは荷車をまとめ、必要なものをすぐに動かせるよう準備を始めた。
宗助も荷駄の位置を確認した。
「ここなら、後ろへ下げられます。」
近くの兵へ伝える。
「分かった。」
「ただ、前の道が塞がると動かせなくなります。」
「その時はどうする。」
「横へ逃がせる場所を先に空けておきます。」
兵は宗助の顔を見た。
「お前、よく見ているな。」
「見ておけと言われていますから。」
その時、遠くから馬の音が響いた。
伝令だった。
「美濃勢、こちらへ向かっております!」
陣内が騒がしくなる。
源四郎が槍を取った。
「宗助。」
「はい。」
「今日の役目を忘れるな。」
「荷駄を守る。」
「それだけではない。」
宗助は頷いた。
「周りを見る。」
「そうじゃ。」
遠くで雨が降り始めた。
濡れた大地を踏みしめながら、美濃の兵が近づいてくる。翌五月十四日には、斎藤方の長井甲斐守と日比野清実を大将とする軍勢が墨俣から進み、森部で織田軍と激突することになる。
宗助は槍を握った。
昨日までなら、敵が来ることだけを恐れていた。
今は違う。敵を見る。味方を見る。荷駄を見る。道を見る。
そして、そのすべてが一つにつながっていることを知っている。雨脚が強くなる。
遠くから、兵たちの声が聞こえた。
宗助は一度だけ深く息を吸った。
これから始まる戦では、ただ槍を振るだけでは足りない。
自分が見てきたものを、仲間を生かすために使う。
その時が来た。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、前の戦いを経て、宗助の役割が少しずつ変わっていく過程を描きました。これまで道や荷駄を「見る」だけだった宗助が、今度は自分が見た情報を周囲へ伝え、軍勢の動きを支える側へ進み始めています。
そして物語は、永禄四年の美濃攻めという大きな戦いへ入っていきます。史実では、斎藤義龍の死後、織田信長は西美濃へ兵を進め、勝村に陣を置きました。その翌日には森部で斎藤方との戦いが起こります。
次回『第三十六話 森部の雨』




