第三十四話 戦の前触れ
美濃側と対峙してから数日。清洲城では、朝から兵たちの動きが慌ただしかった。倉から兵糧が運び出され、矢束が数えられ、荷駄の準備も進められている。先日の出陣よりも、明らかに念入りだった。
宗助は詰所へ向かう途中、その様子を眺めていた。前に美濃へ向かった時とは違う。今度は、最初から戦になる可能性を考えて準備している。
「また騒がしくなったのう。」
隣を歩く弥吉が言った。
「前より兵が多いですね。」
「うむ。」
弥吉は城内を見回した。
「この前は向こうが道を塞いだだけじゃったが、今度はそう簡単には済まんのかもしれんな。」
宗助は答えなかった。
自分も同じことを考えていた。
詰所へ入ると、源四郎がすでに待っていた。
「来たか。」
「はい。」
源四郎の前には、折り畳まれた書付と簡単な絵図が置かれている。
「今日、正式な命が出た。」
宗助は姿勢を正した。
「美濃方面へ、再び兵を出す。」
「またですか?」
「そうじゃ。」
源四郎は絵図を広げた。
「先日の道を使う。ただし、今回は前より兵を増やす。」
弥吉が眉を上げる。
「向こうも出てくるでしょうな。」
「その可能性は高い。」
源四郎は宗助たちを見る。
「ゆえに、今回は荷駄の護衛だけではない。敵と接触した場合は、隊列を崩さず戦う。」
宗助は絵図へ目を落とした。
「戦になるかもしれないんですね。」
「なるかもしれん、ではない。」
源四郎は静かに言った。
「そのつもりで備えよ。」
宗助は頷いた。
「分かりました。」
「宗助。」
「はい。」
「お主は前回と同じく、荷駄の近くにつけ。」
「はい。」
「ただし、今回は周囲だけを見るのではない。」
源四郎は絵図の上を指でなぞった。
「敵が来た時、荷駄を守るにはどこへ兵を置けばよいか。道が塞がれた時、どこまで下がれるか。そういうことも考えよ。」
宗助は絵図を見つめた。
兵が戦う場所だけではない。
荷駄が止まれば、後ろの兵も動けなくなる。
道が狭ければ、隊列を組み直すことも難しい。
前に歩いた時にはただの道だった場所が、今は戦場の一部に見えてくる。
「やってみます。」
源四郎は頷いた。
「それでよい。」
昼過ぎには、出陣の準備が整った。
今回の兵は前より多い。足軽だけでなく、騎馬の侍や弓を持つ者も加わっている。荷駄の数も増え、清洲城の門前は人と馬と荷車で埋まっていた。
宗助は槍の柄を握り、隊列の中へ入った。
「宗助。」
弥吉が隣に並ぶ。
「はい。」
「この人数で歩くと、また道が狭く感じるじゃろうな。」
「だからこそ、今回は見るところが多そうです。」
「戦の前に仕事が増えたのう。」
「足軽ですからね。」
弥吉が笑った。
やがて隊列が動き始めた。
清洲を離れ、先日の道を進む。兵の数が増えたことで、歩みは以前より遅かった。先頭が進んでも、後ろの荷駄が追いつくまでに時間がかかる。坂道では車輪が土へ沈み、何人もの足軽が荷車を押した。
宗助はその様子を見ながら歩いた。
「止まれ!」
前方から声が上がった。
隊列が止まる。
何人かの兵が前へ走っていった。
宗助も目を凝らした。
しばらくすると、伝令が戻ってきた。
「前方に敵影!」
空気が変わった。
兵たちが槍を構える。
荷駄の周囲にも兵が集まった。
「数は?」
「三十ほど。ただし、後ろにも伏せている可能性があります。」
宗助は周囲を見た。
道の両側には木々が続いている。兵が隠れるには十分な場所だった。
「源四郎殿。」
近くにいた源四郎が振り向く。
「何じゃ。」
「荷駄を少し後ろへ下げた方がいいと思います。」
「理由は。」
「ここで前が止まったら、荷車が詰まります。もし横から来られたら、動かせなくなるかもしれません。」
源四郎は一瞬だけ道を見た。
「その通りじゃ。」
すぐに指示が飛ぶ。
「荷駄を後ろへ! 間を空けよ!」
荷車がゆっくりと下がる。
その直後だった。
林の中から矢が飛んできた。
「伏せろ!」
兵たちが身を低くする。
一本の矢が荷車の側板へ突き刺さった。
別の矢が地面へ落ちる。
「来るぞ!」
美濃側の兵が林から姿を現した。
先頭の者たちが槍を構え、こちらへ向かってくる。
「構え!」
源四郎の声が響いた。
織田の足軽たちも槍を揃える。
宗助は槍を握り直した。
足が震える。
だが、前ほどではなかった。
敵の位置を見る。
味方の位置を見る。
荷駄を見る。
逃げ道を見る。
そのすべてを同時に考えようとする。
敵が迫る。
「押されるな!」
槍と槍がぶつかった。
宗助は一歩下がり、相手の槍先を外へ流した。
その横から別の敵が入ってくる。
「右!」
宗助が叫ぶ。
隣の足軽が槍を突き出し、敵を止めた。
宗助はその隙に前へ出る。
敵の槍が迫る。
身体を横へずらし、槍を払う。
そのまま柄で相手の腕を打った。
敵がよろめく。
宗助は追わなかった。
後ろには荷駄がある。
ここを離れるわけにはいかない。
「宗助! そのまま守れ!」
源四郎の声が飛んだ。
「はい!」
宗助は隊列へ戻った。
戦いはしばらく続いた。
美濃側の兵は何度か前へ出てきたが、織田側も隊列を崩さない。弓が放たれ、槍がぶつかり、怒号が林の中へ響き渡る。
やがて、美濃側が少しずつ後ろへ下がり始めた。
「追うな!」
源四郎が叫ぶ。
「荷駄を守れ!」
宗助も槍を下ろさず、敵の動きを見た。
追撃する兵が出れば、こちらの隊列も乱れる。
だが、誰も深く追わなかった。
美濃側の兵は林の向こうへ消えていった。
静かになった道に、荒い息遣いだけが残る。
宗助は槍を握ったまま動けなかった。
足元には矢が一本落ちている。
少し先では、荷車の側板に矢が突き刺さっていた。
「宗助。」
弥吉が近づいてきた。
「怪我はないか。」
「大丈夫です。」
宗助は自分の身体を確認する。
腕に浅い傷があった。
「これくらいなら。」
「ならよい。」
弥吉は息を吐いた。
「荷駄は無事じゃ。」
宗助は後ろを見る。
荷車は止まっている。
いくつか傷はついているが、兵糧も矢も失われていない。
宗助はようやく肩の力を抜いた。
今回の戦いで、自分が敵を倒したわけではない。
大きな武功を立てたわけでもない。
ただ、隊列を守り、周囲を見て、命じられた場所を離れなかった。
それでも、宗助には分かった。
戦場では、目立つ働きだけが役に立つわけではない。
自分の役目を果たすことも、仲間を生かすことにつながる。
その日の夕方。
織田側は少し離れた場所まで戻り、兵を休ませた。
負傷者の手当てが行われ、荷駄の状態も確認される。
宗助は自分の槍を布で拭っていた。
そこへ源四郎が来た。
「宗助。」
「はい。」
「今日はよく守った。」
宗助は顔を上げた。
「ありがとうございます。」
「敵が来た時、荷駄を下げるよう言ったな。」
「はい。」
「おかげで道が詰まらずに済んだ。」
宗助は黙って頷いた。
「それと、戦になってから勝手に追わなかった。」
源四郎は続ける。
「そこもよい。」
「追ったら危ないと思ったので。」
「それでよい。」
源四郎はそれだけ言うと、その場を離れた。
宗助は槍を見つめた。
桶狭間では、生き残ることに必死だった。
美濃では、見ることを覚えた。
そして今日。
見たものを、戦うために使うことを少しだけ覚えた。
まだ足りない。
自分はただの足軽だ。
だが、少しずつ前へ進んでいる。
夜。
織田側の陣では、戦の報告がまとめられていた。柴田勝家は報告を受けながら、静かに書付へ目を通していた。
「荷駄に被害はなし。」
「はい。」
「負傷者は?」
「数名おりますが、いずれも軽傷。戦列を離れるほどの者はございません。」
勝家は書付へ目を落としたまま、短く頷いた。
「敵の動きに気づき、荷駄を後ろへ下げるよう進言した足軽がいたそうだな。」
「宗助という者にございます。」
「宗助か。」
勝家はそこで初めて顔を上げた。
桶狭間で武功を立て、その後も美濃への道を実際に歩いて調べた足軽。今回も荷駄の近くで周囲を見ながら、敵の動きを察して隊列の混乱を防いだ。
「戦場で周りを見る余裕があったということか。」
「はい。さらに敵が退いた際も、追撃せず持ち場を守ったとのことです。」
勝家はしばらく黙っていた。
「目立つ武功ではない。」
「ですが、あの状況で持ち場を離れなかったのは悪くない。」
「はっ。」
勝家は書付を閉じた。
「宗助には、これまで通りの役目を与えよ。」
「承知しました。」
「ただし、次に使える機会があれば、少し違う役目も見せてみる。」
「……はっ。」
勝家はそれ以上、宗助について語らなかった。
今回の衝突で、美濃側にも織田が兵を動かす意思は伝わったはずだ。
そして織田もまた、美濃側がただ道を塞ぐだけではなく、こちらの動きを探っていることを知った。
勝家は再び美濃の絵図へ目を向けた。
小さな衝突は終わった。
だが、本当の戦はまだ始まっていなかった。
清洲へ戻れば、また次の命が下る。
宗助はそのことをまだ知らない。
ただ、今日の戦いで一つだけ確かなことがあった。
これまで道の向こうにあった美濃が、今は明確な敵として宗助の前に現れ始めていた。
宗助は夜空を見上げた。
暗い空の向こうに、美濃の山々がある。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、宗助が美濃側との小規模な衝突に参加し、これまで身につけてきた「見る力」を実際の戦場で生かす場面を描きました。
大きな武功ではなくても、自分の役目を果たすことが仲間や荷駄を守ることにつながる。宗助にとって、そんな戦場の現実を知る一話になっています。
ここから美濃との緊張はさらに高まっていきます。
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次回『第三十五話 戦場での働き』




