第三十三話 動き出す兵
美濃方面から戻って数日後、清洲城の様子は明らかに変わっていた。城内を行き交う兵が増え、倉からは兵糧や矢が運び出されている。荷車も普段より多く、城門の周辺には出入りする者たちの姿が絶えなかった。宗助は詰所へ向かいながら、その様子を眺めていた。
「ずいぶん騒がしくなりましたね。」
「そうじゃな。」
弥吉も周囲を見る。
「何か始まるんじゃろう。」
「美濃ですかね。」
「おそらくな。」
詰所へ入ると、源四郎がすでに待っていた。机の上には一枚の書付が置かれている。
「来たか。」
「はい。」
源四郎は書付を手に取った。
「今日、正式に沙汰が出た。美濃方面へ兵を出す。」
宗助は黙った。
これまで集めてきた道や川の情報が、実際に兵を動かすために使われる。
「大きな軍勢ですか?」
「まだ大軍ではない。」
源四郎は書付へ目を落とした。
「まずは境近くまで進む。向こうの動き次第では、そのまま戦になる可能性もある。」
弥吉が槍へ手を伸ばした。
「いよいよか。」
「油断するな。」
源四郎は二人を見た。
「今回は道を見るためだけの役目ではない。兵として動く。」
「承知しました。」
宗助は頷いた。
「宗助と弥吉は荷駄の護衛につけ。」
「荷駄ですか?」
「兵糧や矢を運ぶ。隊列の後方になるから、周囲をよく見ておけ。」
「分かりました。」
源四郎は宗助へ目を向けた。
「何か気付いたことがあっても、勝手に先へ出るな。近くの者へ伝えてから動け。」
「はい。」
「桶狭間とは違う。」
宗助の表情が少し変わる。
「敵の動きも分からぬ場所で、隊列から離れるのは危険じゃ。」
「承知しています。」
源四郎は頷いた。
「それならよい。」
昼を過ぎる頃、出陣の準備が整った。兵たちが次々と門へ集まり、荷駄も順番に並べられていく。宗助は自分の槍を確認してから隊列へ入った。
「宗助。」
「はい。」
弥吉が隣へ来る。
「また難しい顔をしておるぞ。」
「そうですか?」
「うむ。」
「桶狭間の時よりは、少し考える余裕がありますよ。」
「それは成長したということじゃな。」
「そうだといいんですけど。」
弥吉が笑った。
「戦場で考えられるようになったなら、それだけでも大したものじゃ。」
やがて隊列が動き始めた。
先頭には騎馬の侍、その後ろに足軽が続き、荷駄がさらに後ろを進む。人数が増えたことで、二人で歩く時とは道の使い方そのものが違っていた。道幅が狭くなれば列が詰まり、坂に差しかかれば荷車の速度が落ちる。誰かが足を止めれば、その後ろまで影響が出る。
宗助は歩きながら、その様子を眺めていた。
「やっぱり、兵が増えると大変ですね。」
「何がじゃ?」
「道です。少人数なら問題にならない場所でも、これだけ兵がいると詰まります。」
「荷駄もあるからな。」
弥吉が後ろを見る。
「兵だけなら、もう少し早く進めるじゃろう。」
「はい。」
夕方になる前に、一行は渡し場近くまで到着した。大人数で夜間に川を渡るのは避け、その日は周辺に分かれて宿を取ることになった。
翌朝、まだ空が白み始めた頃から渡河が始まった。舟が何度も往復し、兵と荷駄を順番に運んでいく。川を渡るだけでも時間がかかり、最後の荷車が美濃側へ着いた頃には、すでに日が高くなっていた。
「進め!」
先頭から声が響く。
隊列が動き出す。
宗助は荷駄の後ろにつき、周囲を見ながら歩いた。以前見た道も、大勢の兵と荷車が通れば様子が変わる。轍へ車輪がはまり、坂道では荷車を押す者が増える。
その時、前方から伝令が駆けてきた。
「止まれ!」
隊列が止まった。
「どうした?」
「前方に人影があります。」
「数は?」
「十人ほど。ただ、林の奥にも人がいるようです。」
宗助は前方へ目を向けた。
林の向こうに、数人の男が立っている。
その姿を見た瞬間、宗助は警戒した。
向こうもこちらを待っている。
「武装しています。」
宗助が伝える。
「分かった。」
近くの侍が答えた。
「全員、槍を構えろ。」
兵たちが一斉に槍を構える。
しばらくすると、林の中から一人の男が歩み出てきた。
「尾張の兵か。」
「そうだ。」
侍が答える。
「ここから先へ進むつもりか。」
「そのつもりだ。」
男は後ろの兵を見回した。
「ここから先は美濃だ。」
「承知している。」
「ならば、これ以上進むな。」
侍の手が槍へ添えられる。
「理由は?」
「美濃の道を、尾張の兵に通らせるわけにはいかん。」
宗助は林の奥へ目を向けた。最初に見えた者たちのほかにも、人影がある。まだ数は分からない。
「隊長。」
宗助が声を掛ける。
「何だ。」
「林の奥にも兵がいます。」
侍が目を細める。
「見えるか。」
「はい。」
侍はしばらく林を見た。
「無理に進むな。」
短い命令だった。
「隊列を崩さず、少し下がる。」
兵たちがゆっくりと後退する。
美濃側の男たちは追ってこなかった。
だが、その場を離れることもない。
互いに一定の距離を保ったまま、しばらく睨み合う。
やがて隊列は林から十分に離れた。
「ここで止まる。」
侍が命じる。
「荷駄をまとめろ。」
宗助は周囲を見回した。
戦うことなく退いた。
それは臆したからではない。
相手の人数も分からず、地形もこちらに有利とは言えない。荷駄まで抱えた状態で進む必要はなかった。
しばらくして、先頭から新たな命令が届いた。
「今日はここまでだ。」
隊は渡し場へ向かって引き返すことになった。
美濃側の者たちは、最後まで追ってこなかった。
川を渡り終える頃には、日が傾き始めていた。
その日は渡し場近くで宿を取り、翌朝に尾張へ戻った。
清洲へ戻ったのは昼を過ぎてからだった。
詰所へ入ると、源四郎が待っていた。
「戻ったか。」
「はい。」
「話は聞いておる。」
源四郎は宗助を見る。
「戦にはならなかったそうじゃな。」
「はい。」
「何があった。」
宗助は林の中にいた者たちのこと、道を塞がれたこと、そして隊が退いたことを順に話した。
源四郎は黙って聞いていた。
「向こうも、こちらが兵を出したことを知ったか。」
「そうだと思います。」
「そうか。」
源四郎は書付へ手を伸ばした。
「この報告は上へ送る。」
「はい。」
宗助は頷いた。
「源四郎殿。」
「何じゃ。」
「これから、どうなるんでしょう。」
源四郎は少し考えた。
「分からん。」
それから、美濃の方角へ目を向ける。
「じゃが、向こうが道を塞いだ以上、話はもう簡単には終わらんじゃろう。」
その日の夜。
本丸では、信長と柴田勝家が美濃の絵図を前にしていた。
「進めなかったか。」
「はい。」
勝家が答える。
「美濃側が兵を出してきました。」
「こちらの動きを警戒しているな。」
「間違いないかと。」
信長は絵図へ目を落とした。
「ならば、次はどうする。」
「別の道を探す手もございます。」
「道だけではない。」
信長は美濃側へ指を移した。
「向こうが兵を出すなら、こちらも兵を備える。」
勝家が頭を下げる。
「兵糧の準備を進めます。」
「槍と弓も確認せよ。」
「承知しました。」
「それから、兵を集めておけ。」
勝家が顔を上げる。
「大きく動かれますか。」
信長は答えなかった。
ただ、美濃の絵図をしばらく見つめていた。
「機を逃すな。」
勝家は深く頭を下げた。
「はっ。」
その夜から、清洲城では兵糧や武具の準備がさらに進んだ。
宗助は翌朝、城内を歩きながら荷車の列を眺めていた。
これまで集めてきた情報が、少しずつ現実の動きへ変わっている。
そして、その中心に自分もいる。
桶狭間では、目の前の敵を倒すことだけを考えていた。
今は違う。
兵がどこを通り、何を運び、どこで止まるのか。
戦う前にも、考えることはいくらでもある。
「宗助。」
弥吉が声を掛けた。
「はい。」
「また美濃へ行くことになりそうじゃな。」
宗助は兵糧を積んだ荷車を見る。
「そうですね。」
「今度は、もっと大勢で行くかもしれん。」
「その時は、今度こそ道が足りるかもしれませんね。」
「道が足りても、飯は足りるのかのう。」
「そこを心配するんですか。」
「大事じゃろ。」
宗助は笑った。
「確かに大事ですね。」
二人が歩き出す。
清洲城では、次の動きに向けた準備が続いていた。
美濃との緊張は、もう後戻りできないところまで高まりつつあった。
そして宗助もまた、次に訪れる戦場へ向けて、少しずつ歩き始めていた。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、織田家が実際に兵を動かし、美濃側と直接対峙するところまで進みました。
大きな戦いにはなりませんでしたが、両者が互いの存在を意識し、簡単には引けない状況になっています。
宗助にとっても、桶狭間とは違う形で戦を考える機会になりました。
ここから、美濃を巡る動きはさらに大きくなっていきます。
次回『第三十四話 戦の前触れ』




