第三十話 川の向こうへ
夜が明けた。
宗助は目を覚ますと、しばらく天井を眺めていた。
昨日までとは違う朝だった。
今日は川を渡る。
それだけのことが、妙に大きな意味を持っているように感じる。
身支度を整えて外へ出ると、弥吉がすでに宿の前に立っていた。
「遅いぞ。」
「弥吉殿が早すぎるんですよ。」
「腹が減ったから起きた。」
「やっぱりそれですか。」
「朝飯は大事じゃ。」
宗助は苦笑した。
やがて他の足軽たちも集まり始める。
簡単に朝の飯を済ませると、一行は渡し場へ向かった。
朝の道には、まだ人影が少ない。
昨日歩いた道を逆にたどる。
昨日は遠く感じた道も、一度歩いたことで少しだけ見覚えができていた。
曲がり角。林の入口。小さな畑。
宗助は昨日の記憶と照らし合わせながら歩いていた。
「宗助。」
弥吉が隣から声を掛ける。
「はい。」
「また見ておるな。」
「覚えておこうと思って。」
「真面目じゃのう。」
「弥吉殿も覚えてください。」
「わしは宗助が覚えてくれるから大丈夫じゃ。」
「人任せじゃないですか。」
二人は笑った。
やがて木々の向こうに川が見えてきた。
昨日と同じ川。
だが、朝の光を受けた水面は、昨日とは違って見えた。
渡し場には、すでに舟が用意されている。
船頭たちも動き始めていた。
「朝の方が静かじゃな。」
弥吉が言う。
昨日より人の姿が少ない。
荷を運ぶ者もまだ少なかった。
年長の足軽が船頭へ声を掛ける。
「今日、渡りたい。」
「分かっている。」
船頭は舟を岸へ寄せた。
「荷は少なくしてくれ。」
「分かった。」
一行は荷物をまとめる。
槍を持った足軽たちが何人かずつ舟へ乗り込んでいく。
宗助は川面を見た。
思っていたより、舟は小さい。
これで人と荷を運ぶ。
川の流れも近くで見ると速い。
「宗助。」
「はい。」
「怖いか?」
弥吉が小声で尋ねた。
「少し。」
「わしもじゃ。」
「弥吉殿も?」
「川に落ちたら飯が食えん。」
「そこですか。」
宗助は笑った。
だが、舟へ乗る時には自然と表情が引き締まった。
足場は狭い。
荷物を持ったまま、慎重に乗り込む。
「動くぞ。」
船頭の声がした。舟が岸を離れる。
ゆっくりと川の中央へ向かっていく。
宗助は思わず振り返った。
尾張の岸が、少しずつ遠ざかっていく。
宗助はしばらく黙って眺めていた。
やがて、弥吉が隣へ立つ。
「どうした。」
「いえ。」
宗助は対岸へ目を戻した。
「本当に尾張を出たんだなと思って。」
「まだ川の上じゃ。」
「それでもです。」
弥吉は何も言わず、同じように対岸を見る。
舟は流れに揺れながら進んでいく。
船頭が櫂を操る。
流れに逆らうように舟の向きを調整している。
宗助はその動きをじっと見ていた。
川を渡るだけでも、これだけ技術がいる。
舟の大きさ。川の流れ。風。岸へ着く角度。
どれも、実際に見なければ分からない。
やがて舟が対岸へ近づいた。
「降りるぞ。」
船頭が声を掛ける。
宗助は荷物を持ち直した。
舟が岸へ寄せられる。
足を踏み出す。
土の感触がした。
宗助は一度だけ振り返った。
川の向こうに尾張がある。
そして今、自分が立っているのは美濃だった。
「着いたな。」
弥吉が言った。
「はい。」
宗助は前を向いた。
目の前には、昨日見たものとは違う景色が広がっていた。
道。畑。遠くに見える家々。
川沿いには、こちら側にも人の往来がある。
宗助は自然と周囲を見渡した。
道幅。地面の状態。川から続く道の向き。
そして、荷車の轍。
「もう仕事を始めたか。」
弥吉が笑う。
「……つい。」
「源四郎殿の言う通りじゃな。」
「何がですか?」
「お主は本当に周りを見る。」
宗助は苦笑した。
だが、視線は前へ向けたままだった。
美濃。
前の人生で知っていた土地。
それなのに、自分の目で見るのは初めてだった。
知識として知っていることと、実際に立って感じることは違う。
そのことを、宗助は改めて感じていた。
「まずは、この辺りを見て回るぞ。」
年長の足軽が声を掛けた。
「はい。」
一行は美濃側の道へ入った。
まだ戦は始まっていない。
だが、
宗助にとってここから先はすべてが初めてだった。
美濃側へ入った一行は、まず川沿いの道を進んだ。
昨日まで歩いていた尾張側とは、道の造りも少し違って見える。
宗助は周囲を見ながら歩いた。
道の幅。畑の広がり。家々の位置。
そして、川から伸びる道がどこへ向かっているのか。
目に入るものを一つずつ覚えていく。
「この辺りは、尾張とあまり変わらんのう。」
弥吉が言った。
「そうですね。」
「もっと違うものかと思っておった。」
「俺もです。」
宗助は少し笑った。
国が変わったからといって、すべてが別世界になるわけではない。
田畑があり、家があり、人が暮らしている。
その当たり前の景色が、かえって印象に残った。
しばらく進むと、道の脇に数軒の家が見えてきた。
小さな集落だった。
こちらへ気付いた者が、戸口から宗助たちを見ている。
尾張から来た足軽が何人も歩いているのだから、警戒されるのも無理はない。
宗助は槍を持つ手を少し下げた。
必要以上に威圧するつもりはなかった。
その時、道端にいた老人が声を掛けてきた。
「尾張から来たのか。」
弥吉が足を止める。
「そうじゃ。」
「渡しを越えてきたのか。」
「今朝な。」
老人は川の方へ目を向けた。
「今日は人が少ないな。」
「そうなんですか?」
宗助が尋ねる。
「昼頃になると、もっと増える。」
「荷を運ぶ者も多い。」
宗助は頷いた。
渡し場だけではない。
そこを通る人々の時間帯にも、何か理由があるのかもしれない。
「この先は、どちらへ続くんですか?」
宗助が道を指した。
「まっすぐ行けば、村がいくつかある。」
「その先には?」
「大きな道へ出る。」
老人は答えた。
「ただ、今日はそこまで行くのか?」
「いえ。」
宗助は首を振った。
「今日は周りを見て回るだけです。」
「そうか。」
老人はそれ以上尋ねなかった。
宗助たちは礼を言い、再び歩き始めた。
「よく聞いたな。」
弥吉が言う。
「気になったので。」
「お主は本当に仕事になると細かい。」
「弥吉殿も何か聞いてくださいよ。」
「わしはもう聞いた。」
「何を?」
「昼飯はどこで食えるか。」
「……それも大事ですね。」
二人は笑った。
集落を抜けると、道は少し広くなった。
荷車が通った跡も増えている。
宗助は足を止め、轍を眺めた。
「こっちは道が広いですね。」
「荷車が多いからじゃろう。」
「渡し場から荷を運ぶなら、この道を使うはずです。」
宗助は道の先を見る。
人の流れ。荷車の数。道の幅。
川から続く位置。
それらを頭の中で繋げていく。
ただの道ではない。
川を越えた荷が、この道を通ってさらに奥へ運ばれていく。
そう考えると、渡し場の意味も少し違って見えてきた。
「宗助。」
年長の足軽が声を掛けた。
「はい。」
「何か気付いたか。」
「渡し場から、この道へ荷が流れているようです。」
「そう見えるか。」
「はい。」
宗助は道を指した。
「轍が多いです。それに、さっきの集落でも昼頃から人が増えると言っていました。」
男は頷いた。
「書いておこう。」
書付へ記していく。
「こういうことでも構わん。見たものは残せ。」
「分かりました。」
一行はさらに進んだ。
昼近くになると、人の姿が少しずつ増えてきた。
荷を背負った者。
荷車を引く者。
川の方へ向かう者。
反対に、川から離れていく者。
宗助はその流れを眺めていた。
尾張と美濃。
川が境になっている。
だが、人の暮らしは川で完全に分かれているわけではない。
人も荷も、舟を使って行き来している。
その当たり前の光景が、宗助には妙に興味深かった。
「そろそろ戻るか。」
年長の足軽が言った。
「今日は、この辺りまでで十分だ。」
宗助は頷いた。
まだ先へ進むことはできる。
だが、今回の役目は遠くまで行くことではない。
まずは渡し場と、その周辺を知ること。
それだけでも、昨日までとは違う情報が手に入った。
一行は来た道を戻り始めた。
川が近づくにつれて、再び舟の姿が見えてくる。
宗助は振り返った。
先ほどまで歩いていた美濃の道が、川の向こうへ続いている。
今度は、来た時とは違う気持ちで川を見た。
渡し場を越えれば、尾張へ戻れる。
「宗助。」
弥吉が呼ぶ。
「はい。」
「どうした。」
「いえ。」
「美濃って、思っていたより広そうですね。」
「そりゃ広いじゃろ。」
「そうなんですけど。」
宗助は少し笑った。
「実際に歩いてみると、違いますね。」
弥吉は頷いた。
「だから、見る意味があるんじゃろ。」
「……そうですね。」
二人はそのまま渡し場へ向かった。
午後になり、朝よりも人が増えている。
舟を待つ者。荷を積み込む者。船頭と話す者。
宗助はその様子を眺めた。
朝に見た渡し場とは、明らかに違っている。
「人が増えましたね。」
「朝とは別の場所みたいじゃ。」
弥吉が笑う。
宗助はそれを見ながら、書付を取り出した。
時間帯によって人の流れが変わる。
荷車も増えている。
渡し場は、ただ川を越えるための場所ではない。
人と物が集まり、また別の場所へ流れていく場所なのだ。
宗助は、そのことを書き留めた。
やがて一行は舟へ乗り込んだ。
帰りの舟が岸を離れる。
宗助は美濃側を振り返った。
朝とは違い、今度は少し遠く感じる。
今日一日だけだった。
それでも、自分の中に残ったものは多かった。
川。道。村。人。荷車。
どれも、地図や人から聞いた話だけでは分からないものだった。
舟が尾張側へ近づく。
宗助は前を向いた。
まだ美濃のことをほとんど知らない。
それでも、今日初めてその土地を自分の足で歩いた。
それだけで十分な一歩だった。
岸へ舟が着く。
一行は順に降りた。
宗助も土を踏みしめる。
「戻ったな。」
弥吉が言った。
「はい。」
宗助は川を振り返った。
その向こうに、美濃がある。
そして今回の仕事は、まだ終わっていない。
見てきたものを整理し、帰って報告しなければならない。
宗助は書付を握り直した。
今日見たものを、忘れないうちにまとめておこう。
それが自分に任された仕事だった。
帰り道。
宗助は朝とは少し違う目で尾張の道を見ていた。
川を渡っただけで、道の見え方まで変わった気がする。
知らない土地を知る。
そのためには、まず自分の目で見る。
宗助は今日一日で、それを少しだけ理解した。
そして。
美濃への道は、まだ始まったばかりだった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、宗助たちが初めて美濃へ入り、渡し場周辺の道や村、人の往来を実際に見て回りました。
戦ではなく、土地を知るための仕事。
宗助にとっても、これまでとは違う経験になっています。
まだ美濃の入口を見ただけですが、ここから少しずつ宗助の視野も広がっていきます。
次回『第三十一話 見てきたもの』




