第二十九話 渡し場へ
空が白み始める頃、宗助は宿を出た。
清洲城の門を出る。まだ城下には、朝の静けさが残っていた。
弥吉が大きく伸びをする。
「眠いのう。」
「昨日、早く寝たじゃないですか。」
「早く寝ても眠いものは眠い。」
「それは仕方ないですね。」
二人は笑いながら歩き出した。
今日の目的は、美濃へ向かう道筋を実際に歩き、途中の村や道の状態、川を渡る場所などを確かめることだった。
今日は渡し場の近くまで進み、そこで一泊する予定になっている。
清洲を離れてしばらくすると、先に出ていた足軽たちの姿が見えた。
「来たか。」
「お待たせしました。」
「まだ朝早い。気にするな。」
男は手にした書付を確認する。
「今日は渡し場まで行く。」
「川を渡るんですか?」
宗助が尋ねる。
「いや。」
男は首を振った。
「今日は渡し場と、その周りを確認するだけじゃ。向こう岸へ渡るのは明日だ。」
「分かりました。」
宗助は頷いた。
一行は街道を進んだ。
朝のうちは歩きやすかった。人の往来もまだ少ない。
しかし、日が高くなるにつれて、荷を積んだ車や旅の者が増えていった。
宗助は歩きながら周囲を見ていた。
道幅。轍。道端の水たまり。
荷車が通るたびに、車輪がどこを通るのか。
昨日までなら、気にもしなかったことだった。
「宗助。」
弥吉が声を掛ける。
「何ですか?」
「また周りを見ておるな。」
「仕事ですから。」
「真面目じゃのう。」
「弥吉殿も見てください。」
「わしは飯のことを考えておる。」
「それは仕事じゃないですよ。」
「大事な仕事じゃ。」
弥吉が笑う。
宗助も笑った。
しばらくして、一行は小さな集落へ入った。
家々が道の両側に並んでいる。畑では朝から働く者の姿があった。
足軽たちが通ると、こちらを見る者もいる。
だが、誰も声を掛けてはこない。
宗助も余計なことはせず、静かに通り過ぎた。
集落を抜けると、道が少し狭くなった。
「ここから先は、二手に分かれるぞ。」
先頭の男が言った。
「全員で同じ道を見る必要はない。」
数人が別の道へ向かう。
宗助と弥吉は、そのまま川へ向かう道を進むことになった。
「じゃあ、行くか。」
「はい。」
二人は歩き始めた。
昼を過ぎる頃には、道の景色も変わってきた。
人家が減り、林や畑が増える。
道には荷車の轍が残っている。
宗助は立ち止まり、しゃがみ込んだ。
「どうした?」
「荷車が多いです。」
弥吉も道を見る。
「確かに何本もあるな。」
「川へ向かう荷物を運んでいるのかもしれません。」
「渡し場が使われている証拠じゃな。」
「そうですね。」
宗助は立ち上がった。
「行きましょう。」
「うむ。」
二人は再び歩き出した。
午後になると、足の疲れも少しずつ増してきた。
朝から歩き続けている。
それでも、まだ目的地は見えない。
弥吉が肩を回した。
「思ったより遠いのう。」
「はい。」
宗助も答えた。
「清洲から一日歩いても、まだこれだけあるんですね。」
「だからこそ、今日は泊まるんじゃ。」
弥吉が笑う。
「ですね。」
二人は歩みを止めなかった。
しばらく進むと、木々の向こうから水の音が聞こえてきた。
宗助が顔を上げる。
「川が近いですね。」
「そのようじゃ。」
さらに進む。
林を抜けた先に、広い川面が見えた。
宗助は足を止めた。
対岸までは、思っていたよりも遠く感じる。
流れも速い。
岸には人の出入りした跡があり、少し下流側には舟をつなぐための杭が並んでいた。
「ここが渡し場か。」
弥吉が呟く。
「たぶん、そうですね。」
二人は川岸へ近づいた。
そこには数人の男がいた。
舟を扱う者らしい。
一人がこちらに気づく。
「尾張の者か。」
弥吉が答えた。
「そうじゃ。」
「美濃へ渡るのか。」
「今日は渡し場を見に来ただけじゃ。」
男は頷いた。
「そうか。」
それ以上、余計なことは聞かなかった。
宗助は川と岸の様子を眺める。
舟を待つ場所。荷物を置く場所。岸へ下りる道。舟を繋ぐ杭。
そして、対岸へ向かう舟。
一つずつ確認していく。
その時、船頭の男が川面へ目を向けた。
「今日は流れが速い。」
弥吉も川を見る。
「確かに、いつもより速いのか?」
「雨が続いたからな。」
男は舟を岸へ寄せながら答えた。
「明日渡るなら、朝の方がよいだろう。」
「そうか。」
弥吉が頷く。
「教えてくれて助かる。」
宗助は黙って川を見ていた。
明日の朝、ここから川を渡る。
そのために、今は渡し場の様子を覚えておく。
宗助は川岸から少し離れ、渡し場の周囲を歩いた。
岸へ下りる道は、それほど広くない。
荷車が一台通れば、人が脇へ避けなければならないほどだった。
だが、轍は何本も残っている。
ここを使う者は少なくないらしい。
「荷車も通っていますね。」
「うむ。」
弥吉が轍を眺める。
「川向こうへ荷を運ぶ者もおるんじゃろう。」
「そうでしょうね。」
宗助は対岸へ目を向けた。
こちら側と同じように、向こう岸にも道が続いている。
ただ、その先までは木々に遮られて見えない。
「向こうの道も見てみたいです。」
「それは明日じゃな。」
「はい。」
二人は渡し場の周囲をさらに見て回った。
舟を繋ぐ杭。荷を積み下ろす場所。岸へ続く道。
宗助は見たものを頭に入れていった。
しばらくすると、別の道を調べていた足軽たちも戻ってきた。
「そちらはどうだった?」
弥吉が尋ねる。
「村の先まで見てきた。特に変わったところはない。」
「こっちは渡し場じゃ。」
宗助が答えた。
「舟も使われていました。」
「道の状態は?」
「渡し場へ下りる道は少し狭いです。ただ、荷車の轍は何本もありました。」
「なるほど。」
男は書付へ簡単に書き込んだ。
それぞれが見てきたことを伝え合う。
村の様子。道の状態。人の往来。渡し場の位置。
必要な情報が少しずつ揃っていった。
やがて、空が赤く染まり始めた。
「今日はここまでにする。」
年長の足軽が書付を閉じる。
「明日は朝から渡し場へ向かう。今夜はこの近くで泊まるぞ。」
「分かりました。」
宗助たちは頷いた。
「宿を探そう。」
弥吉が立ち上がる。
一行は渡し場を離れ、近くの集落へ向かった。
しばらく歩くと、道沿いに小さな宿が見つかった。
大きな建物ではない。
旅人を泊めるための部屋がいくつかあるだけだった。
主人に事情を話すと、全員を一度に泊めるのは難しいと言われた。
そこで何人かに分かれて泊まることになった。
宗助と弥吉も同じ宿へ入った。
荷物を置き、ようやく腰を下ろす。
「今日は歩いたのう。」
弥吉が肩を回した。
「朝からですからね。」
「明日は川を渡る。」
「はい。」
宗助は頷いた。
簡単な夕食が用意された。
雑穀飯と汁、それに少しの野菜だった。
弥吉は椀を手に取ると、満足そうに息を吐いた。
「やはり飯じゃ。」
「結局そこですか。」
「歩いた後の飯は大事じゃ。」
宗助は笑いながら箸を取った。
二人は静かに飯を食べた。
しばらくして、宗助が口を開く。
「弥吉殿。」
「何じゃ。」
「明日は本当に美濃へ入るんですね。」
「そうじゃ。」
弥吉は少し考えてから続けた。
「わしも初めてじゃ。」
「俺もです。」
「なら、二人とも同じじゃな。」
「そうですね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
食事を終えると、宗助は外へ出た。
空はすっかり暗くなっていた。
遠くから川の音が聞こえる。
昼間に見た川は、今は闇の向こうにある。
宗助はしばらくそちらを眺めていた。
明日の朝、あの川を渡る。
その向こうにあるのが美濃だ。
桶狭間とは違う。
今度は敵を探すためではない。
知らない土地を、自分の目で見るために行く。
「宗助。」
後ろから弥吉の声がした。
「はい。」
「もう寝るぞ。」
「分かりました。」
宗助は宿へ戻った。
明日は朝から渡し場へ向かう。
そして、初めて尾張の外へ出る。
宗助は床へ入り、目を閉じた。
川の向こうに何があるのか。
まだ何も知らない。
ただ、明日になれば分かる。
そう思いながら、静かに眠りについた。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、宗助たちが美濃へ続く道を調べ、渡し場までたどり着きました。
そして渡し場の近くで一泊し、翌朝いよいよ木曽川を渡ります。
宗助にとって、初めての尾張の外です。
次回『第三十話 川の向こうへ』




