第二十五話 桶狭間の後
桶狭間から戻って、しばらく。
清洲城は、少しずついつもの姿を取り戻していた。
城下では朝から商人の声が響き、道を行き交う人も増えている。
宗助は、そんな城内を歩いていた。
両手には木箱。
中には修繕を終えた武具が入っている。
「重いな……。」
思わず呟く。
「何を今さら言っておる。」
後ろから弥吉の声が飛んできた。
「桶狭間では、それより重いものを担いで走っておったじゃろ。」
「戦場では重いとか考える暇がなかったんですよ。」
「なら今日も考えるな。」
「無茶言わないでください。」
弥吉が笑う。
少し離れたところでは、源四郎が別の兵たちへ指示を出していた。
「そっちは倉へ運べ。」
「はい!」
「壊れているものは分けておけ。後でまとめて見てもらう。」
「承知しました。」
宗助も木箱を運びながら、周囲へ目を向ける。
桶狭間へ向かう前と同じような光景。
だが、自分の目には少し違って見えた。
以前なら気にもしなかった兵の動き。
城門の警備。
武具の置かれている場所。
自然と目に入るようになっている。
戦場を経験したことで、見えるものが増えた。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
「宗助。」
源四郎が呼んだ。
「はい。」
「昼までに、それを終わらせておけ。」
「分かりました。」
「終わったら詰所へ戻れ。」
「はい。」
宗助は木箱を抱え直した。
その時だった。
城門の方から、数人の侍がこちらへ向かって歩いてくる。
先頭にいる男を見て、宗助は足を止めた。
木下藤吉郎だった。
藤吉郎も宗助に気づいたらしい。
「おや。」
足を止める。
「宗助殿ではないか。」
宗助は慌てて頭を下げた。
「藤吉郎様。」
「また仕事か。」
「はい。」
藤吉郎は木箱を見る。
「随分と重そうじゃ。」
「重いです。」
「正直でよい。」
藤吉郎が笑った。
「桶狭間では、もっと重いものを持って走っておったように見えたがな。」
宗助は苦笑する。
「戦場では必死でしたから。」
「そうであろうな。」
藤吉郎は頷いた。
そのまま通り過ぎるかと思ったが、ふと宗助の顔を見る。
「身体の具合はどうじゃ。」
「もう大丈夫です。」
「そうか。」
藤吉郎は少し安心したように頷いた。
「ならばよい。」
その時、後ろから別の侍が声を掛けた。
「藤吉郎殿、参りませぬと。」
「分かっておる。」
藤吉郎は振り返り、再び宗助を見る。
「ではな。」
「はい。」
藤吉郎たちが歩いていく。
宗助はその背中をしばらく見送った。
弥吉が横へ来る。
「随分と気に掛けてもらっておるのう。」
「そうなんでしょうか。」
「そうじゃろ。」
「俺には、よく分かりません。」
弥吉は肩をすくめた。
「まあ、悪いことではあるまい。」
源四郎も近くへ来た。
「藤吉郎殿は、人を見るのが上手い。」
「そうなんですか?」
「おそらくな。」
源四郎はそれだけ言うと、木箱を指差した。
「話は終わったか。」
「はい。」
「なら、運べ。」
「……はい。」
弥吉が吹き出す。
「容赦ないのう。」
「仕事は仕事じゃ。」
宗助も笑った。
その後、三人は黙々と仕事を続けた。
桶狭間で勝った。
信長は生き残った。
今川軍は退いた。
それでも、足軽の一日は変わらない。
朝から働き、腹が減れば飯を食う。
日が暮れれば眠る。
宗助は、その当たり前が妙にありがたかった。
昼を少し過ぎた頃。
宗助が詰所へ戻ろうとしていると、城内が少し騒がしくなった。
何人かの侍が急いで奥へ向かっている。
宗助は立ち止まった。
「何かあったんでしょうか。」
弥吉が首を伸ばす。
「知らん。」
「ただ、あれだけ急いでおるということは何かあるんじゃろう。」
源四郎は黙って侍たちの姿を見ていた。
やがて一人の兵が、三人の前を通り過ぎる。
「何事じゃ。」
源四郎が尋ねた。
兵は足を止めた。
「本丸へ人が集められております。」
「何のために?」
「そこまでは……。」
兵は頭を下げ、そのまま走っていった。
宗助は源四郎を見る。
「本丸に?」
「うむ。」
源四郎は少し考えた。
「まだ我らには関係ない。」
「そうでしょうか。」
「何か決まれば、そのうち分かる。」
源四郎は歩き出した。
「今は飯の方が先じゃ。」
「また飯ですか。」
「腹が減っておるからな。」
弥吉が笑った。
宗助もつられて笑う。
だが。
その日の午後。
城内の空気は、少しずつ変わり始めていた。
その日の夕刻。
宗助たちが詰所へ戻る頃には、城内の騒がしさも少し落ち着いていた。
だが、昼間に見た侍たちの慌ただしい様子が、宗助の頭から離れない。
「源四郎殿。」
「なんじゃ。」
「昼間、本丸へ人が集まっていましたよね。」
源四郎は腰を下ろしながら、宗助を見る。
「気になるか。」
「少し。」
源四郎は苦笑した。
「なら、明日には何か分かるかもしれん。」
「明日ですか?」
「城というものは、何か決まればすぐに下へ伝わってくる。」
弥吉が横から口を挟む。
「もっとも、わしら足軽に伝わる頃には、話がだいぶ進んでおるがな。」
「そういうものなんですか。」
「そういうものじゃ。」
弥吉は飯をよそう。
「ほれ。」
「ありがとうございます。」
宗助も椀を受け取った。
その時、詰所の外から兵の声が聞こえた。
「美濃からの使者だそうじゃ。」
「美濃?」
弥吉が顔を上げる。
宗助も箸を止めた。
外では、別の兵が声を落として話している。
「詳しい話は知らん。」
「ただ、本丸へ通されたらしい。」
足音が遠ざかっていく。
詰所の中が静かになった。
宗助は源四郎を見る。
源四郎も少し考えているようだった。
「美濃から使者が来るということは、何か話があるんでしょうか。」
「そうじゃろうな。」
「戦ですか?」
「まだ分からん。」
源四郎は飯を口へ運んだ。
「戦になると決まったわけでもないのに、勝手に怖がるな。」
「はい。」
宗助も飯を食べる。
だが、胸の中では美濃という地名が引っかかっていた。
尾張の西にある国。
織田家にとって、これから重要な場所になる。
前の人生で知っていた歴史と、今目の前で動いている現実。
その二つが、少しずつ重なり始めているような気がした。
ただ。
宗助には、まだ何もできない。
今の自分は足軽だ。
だからこそ、焦るつもりはなかった。
同じ頃。
本丸では、信長の前に数人の重臣が集まっていた。
机の上には、尾張から美濃へ続く道筋を描いた絵図が広げられている。
信長は黙ってそれを見ていた。
「美濃からの使者は、何と申しておった。」
柴田勝家が答える。
「斎藤家からの正式な使者ではございません。」
「美濃の国人衆からの使いとのこと。」
信長の目が絵図へ戻る。
「国人衆か。」
「はい。」
「何を望んでおる。」
「今川が敗れたことで、尾張の動きを探っているようです。」
信長はしばらく黙った。
桶狭間で今川義元を討った。
その知らせは、すでに周辺へ広がり始めている。
勝った。
だから終わりではない。
むしろ、ここからだ。
「美濃はどう動く。」
信長が尋ねた。
勝家は絵図を見ながら答える。
「斎藤義龍が健在です。」
「簡単には動かぬでしょう。」
「そうか。」
信長は指先で絵図をなぞった。
「ならば、こちらから急ぐ必要もない。」
「まずは尾張を固める。」
勝家が頷く。
「承知しました。」
その場にいた木下藤吉郎も、絵図を見ていた。
「されど殿。」
「何じゃ。」
「尾張が落ち着けば、次に目を向ける先は自然と決まってまいりましょう。」
信長が藤吉郎を見る。
「申してみよ。」
藤吉郎は美濃を指した。
「ここでしょうな。」
部屋が静かになる。
信長は少しだけ笑った。
「藤吉郎。」
「はい。」
「おぬしは先回りしすぎじゃ。」
「これは失礼を。」
藤吉郎は頭を下げる。
勝家が小さく笑った。
「だが、間違ってはおらぬ。」
信長は絵図へ視線を戻した。
「美濃か。」
その一言だけが、部屋に残った。
◇
翌朝。
宗助が詰所へ向かう途中、昨日とは違う光景を目にした。
城門の近くに、見慣れない侍たちがいる。
身なりも、尾張の者とは少し違う。
宗助は思わず足を止めた。
「宗助。」
源四郎に呼ばれる。
「何を見ておる。」
「昨日の美濃からの使者でしょうか。」
「さあな。」
源四郎は歩きながら言った。
「人の顔ばかり見ておると、仕事が遅れるぞ。」
「すみません。」
宗助も歩き出す。
その時。
城門の向こうから、馬に乗った使者が出ていった。
宗助は一瞬だけ、その背中を見た。
何が話し合われたのか。
何が決まったのか。
それはまだ分からない。
ただ、桶狭間の後から、清洲の空気が少しずつ変わっている。
宗助はそんなことを感じていた。
「宗助。」
「はい。」
「今日は倉の整理だ。」
「……はい。」
現実は変わらない。
どれだけ城の中で大きな話が動いていても、宗助の今日の仕事は倉の整理だった。
宗助は苦笑しながら、源四郎の後を追った。
昼前。
倉の整理をしていると、城内から伝令が走ってきた。
「源四郎組!」
「はい!」
宗助たちが振り返る。
「明日の朝、本丸から沙汰がある。」
「何の沙汰じゃ?」
源四郎が尋ねる。
伝令は少しだけ笑った。
「桶狭間の戦功についてだ。」
宗助の動きが止まった。
弥吉も目を丸くする。
「ようやくか。」
伝令は頷いた。
「詳しいことは明日だ。」
そう言って走り去っていく。
宗助は源四郎を見る。
「俺も……ですか?」
「おそらくな。」
源四郎は笑った。
「覚悟しておけ。」
「何の覚悟ですか。」
「知らん。」
弥吉が笑う。
「明日になれば分かる。」
宗助も苦笑した。
だが。
胸の奥では、少しだけ鼓動が速くなっていた。
桶狭間での働きが、正式にどう扱われるのか。
そして、自分のこれからがどうなるのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ。
宗助の名前が、また織田家の中で呼ばれようとしていた。
その翌日。
桶狭間での戦功に対する沙汰が下される。
そして宗助は、自分が思っていた以上に大きな変化を迎えることになる。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
桶狭間の戦いが終わり、宗助たちは少しずつ日常を取り戻しています。
一方で、清洲では次の動きが始まりつつあります。
美濃からの使者。
そして、桶狭間での戦功に対する正式な沙汰。
戦が終わったからといって、時代まで止まるわけではありません。
宗助の知らないところでも、少しずつ次の道が開き始めています。
次回『第二十六話 論功行賞』




