第二十三話 武功
桶狭間の戦いから三日が過ぎた。
清洲城では、戦後の整理が続いていた。
負傷者の手当て。
失った兵の確認。
そして、戦功の取りまとめ。
城内では奉行衆が忙しく書付を整理している。
一方、宗助たちは普段と変わらぬ仕事へ戻っていた。
槍を磨き、鎧を干し、詰所を掃除する。
勝ったからといって、足軽の暮らしが急に変わるわけではない。
「宗助。」
弥吉が木桶を抱えながら笑う。
「戦で少しは名が売れたかと思うたが、やることは変わらんな。」
宗助も苦笑した。
「そんなものなんですね。」
「そんなものじゃ。」
弥吉は肩をすくめる。
「俺たち足軽は、生きて帰れただけでも御の字じゃ。」
宗助は黙って頷いた。
それでいい。
戦場で目立とうなどとは考えていない。
生き延びること。
仲間とともに帰ること。
それだけで十分だった。
その頃、本丸では戦功を記した書付がまとめられていた。
奉行が一枚の書付を手に取る。
「修理亮様。」
「何じゃ。」
「桶狭間にて、特に申し添える者はございますか。」
勝家は少し考えた。
「一人、おる。」
奉行が筆を構える。
「源四郎組の足軽。」
「名は宗助。」
奉行の筆が止まった。
「宗助……。」
「左様。」
勝家は頷いた。
「混戦の最中、殿の危機へ駆けつけた者じゃ。」
奉行は慎重に尋ねる。
「修理亮様ご自身が、ご覧になったので。」
「見た。」
勝家は短く答えた。
「木下藤吉郎も見ておる。」
藤吉郎も頷く。
「はい。」
「宗助殿が槍を投げたところを、この目で見届けました。」
奉行は二人を交互に見た。
柴田修理亮と木下藤吉郎。
二人が同じ証言をする以上、記録に残さぬわけにはいかない。
筆先が静かに紙へ走る。
『源四郎組足軽 宗助
桶狭間合戦において武功あり』
その文字が記された。
宗助の名は、武功とともに織田家の戦功記録へ正式に刻まれた。
そのことを、宗助本人はまだ知らない。
その頃、城の裏手では、宗助が槍の手入れをしていた。
桶狭間で使った槍とは別の、今の宗助が使っている槍である。
穂先を布で拭い、柄の傷を確かめる。
戦場で武具を失うことは珍しくない。
宗助も桶狭間では、自分の槍を投げた後、近くにあった別の槍を手にして戦いを続けた。
今手入れしている槍も、その後に使うことになったものだった。
宗助は穂先を眺める。
「宗助。」
振り返ると、源四郎だった。
「槍の具合はどうじゃ。」
「問題ありません。」
「そうか。」
源四郎は頷いた。
「武具は手入れを怠るな。」
「はい。」
宗助は槍を布で拭きながら答えた。
「桶狭間で、槍を失ってしまいましたから。」
「そうじゃったな。」
源四郎は思い出したように頷く。
「戦場では、武具より命を優先せねばならん。」
「はい。」
宗助は静かに頷いた。
しばらく沈黙が流れる。
やがて源四郎が口を開いた。
「桶狭間で、お主は何を見て走った。」
宗助の手が止まる。
「あの時ですか。」
「うむ。」
宗助は少し考えた。
「……分かりません。」
「ただ、一人だけ動きがおかしい兵がいました。」
「逃げるでもなく、戦うでもなく、何かを狙っているように見えたんです。」
「放っておいたらまずい。」
「そう思ったら、身体が勝手に動いていました。」
源四郎は静かに頷いた。
「それでよい。」
「戦では理屈より勘が命を救うこともある。」
「考えすぎる者ほど、一瞬の遅れで命を落とす。」
宗助は、その言葉を胸に刻んだ。
自分では特別なことをしたつもりはない。
ただ、目の前の危険に気づき、身体が動いただけだ。
それが武功として記録されたことを、宗助はまだ知らなかった。
「まあ、今まで通りでよい。」
源四郎が言った。
「変に気負うな。」
「はい。」
宗助は槍を手に取った。
その時、詰所の方から弥吉の声が響いた。
「宗助!」
「飯じゃぞ!」
宗助と源四郎は顔を見合わせた。
「行くか。」
「はい。」
詰所へ戻ると、いつもの雑穀飯が待っていた。
宗助は椀を手に取る。
「いただきます。」
一口食べる。
「……うまい。」
弥吉が笑った。
「腹が減っておれば、何でもうまいわ。」
「それでも、うまいですよ。」
源四郎も飯を口へ運ぶ。
戦場から戻って三日。
ようやく、いつもの暮らしが戻りつつあった。
だが、宗助の胸には桶狭間で見た光景が残っている。
豪雨。
泥。
怒号。
そして、義元が討たれた瞬間。
宗助は箸を止めた。
「どうした。」
源四郎が尋ねる。
「いえ。」
宗助は首を振った。
「少し、考えていただけです。」
「何を。」
「次に戦になった時のことを。」
源四郎は宗助を見る。
「怖いか。」
少し間を置いて、宗助は答えた。
「……怖いです。」
弥吉が笑う。
「それでよい。」
「怖くない奴ほど危ない。」
宗助も小さく笑った。
戦を知らなかった頃とは違う。
それでも、恐怖が消えたわけではない。
だからこそ、今度はもっと周りを見なければならない。
そう思った。
「宗助。」
源四郎が言った。
「まずは今日を生きよ。」
「明日のことは、明日になってから考えればよい。」
宗助は頷いた。
「はい。」
その日の夕刻。
宗助が武具を片付けていると、一人の小者が詰所へやって来た。
「宗助殿はおられるか。」
宗助が振り返る。
「私です。」
小者は一礼した。
「奉行所より申し付けでございます。」
宗助の手が止まった。
「奉行所……?」
「明日、源四郎殿とともに参るようにとのことです。」
宗助は目を丸くした。
「俺が?」
「左様にございます。」
小者はそれだけ伝えると、頭を下げて去っていった。
宗助はしばらく、その背中を見送っていた。
「何じゃろうな。」
弥吉が首を傾げる。
「さあ……。」
宗助にも心当たりがない。
源四郎は少し考えた後、静かに言った。
「明日になれば分かる。」
「はい。」
宗助は頷いた。
だが、その胸の奥では小さな不安が膨らんでいた。
自分が奉行所へ呼ばれる理由。
それを宗助は、まだ知らない。
ただ一つ確かなのは。
桶狭間での一つの行動が、思っていた以上に多くの者の目に留まっていたことだった。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、桶狭間での宗助の働きが正式に戦功として記録され、その事実が本人の知らないところで少しずつ動き始める回となりました。
宗助自身は、これまでと変わらず一人の足軽として過ごしています。
戦場で武器を失いながらも生き残った経験も、これからの宗助にとって大きな意味を持つことになります。
そして次回、宗助と源四郎は奉行所へ呼ばれることになります。
次回『第二十四話 新たな一歩』




