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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第二十一話 勝者と敗者

 「今川義元、討ち取ったり!」


 その一声は、豪雨の戦場を駆け巡った。


 一人が叫ぶ。


 その声を聞いた者が、さらに叫ぶ。


 やがて歓声は波のように広がり、織田軍の士気が一気に高まっていく。


 「義元公が討たれたぞ!」


 「退け! 退けぇ!」


 それまで必死に槍を構えていた今川兵たちの顔色が変わった。


 狼狽。


 困惑。


 そして恐怖。


 総大将を失った軍勢は、目に見えて統率を失い始めていた。


 「押せぇぇぇ!」


 源四郎が槍を振り上げる。


 「ここが勝負じゃ!」


 「おおっ!」


 宗助も弥吉たちとともに前へ出る。


 だが、先ほどまでとは違っていた。


 今川兵は踏みとどまろうとしない。


 武器を捨てて逃げ出す者。


 仲間を呼びながら山中へ走る者。


 混乱は豪雨よりも激しく広がっていく。


 宗助は槍を構えたまま立ち止まった。


 目の前には、傷ついた今川兵が一人。


 槍を落とし、肩で息をしている。


 年は宗助と同じくらいだろう。


 震える足で一歩、また一歩と後ずさる。


 目が合った。


 その瞳には、先ほどまでの敵意はない。


 あるのは、生きたいという願いだけだった。


 宗助は槍を握る手に力を込める。


(討つべきか……。)


 ここで逃がせば、再び味方へ襲いかかるかもしれない。


 だが、もう勝負は決している。


 その時だった。


 「退く者を深追いするな!」


 前方から柴田修理亮の声が響いた。


 「隊を乱すな!」


 「敵将を見失うな!」


 冷静な命令だった。


 宗助の前にいた今川兵は、その声を聞くや、深く頭を下げた。


 そして、山の中へ走り去っていく。


 宗助は追わなかった。


 ただ、大きく息を吐いた。


 「宗助。」


 源四郎が近づいてくる。


 「怪我は。」


 「ありません。」


 「そうか。」


 源四郎は短く頷いた。


 「初陣にしては上出来じゃ。」


 その言葉に、宗助は少しだけ肩の力を抜いた。


 しかし、勝利の喜びは不思議と湧いてこない。


 視線を落とせば、泥の中には敵も味方も関係なく、多くの兵が倒れていた。


 豪雨はなおも降り続いている。


 誰の血も。


 誰の涙も。


 同じように泥へ流れていく。


(これが……戦か。)


 歴史書には、桶狭間で織田信長が今川義元を討ったと記される。


 だが、その一行の裏には、名も残らぬ兵たちの命があった。


 敵も。


 味方も。


 誰かの父であり、兄であり、息子だった。


 宗助は静かに手を合わせる。


 敵味方の区別なく。


 一人の人として。


 その姿を、少し離れた場所から二人の男が見ていた。


 柴田修理亮と木下藤吉郎だった。


 勝家は宗助から目を離さない。


 「……あの若者か。」


 藤吉郎が頷いた。


 「宗助殿です。」


 勝家が横を見る。


 「知っておるのか。」


 「以前、清洲で言葉を交わしました。」


 藤吉郎は静かに答えた。


 「桶狭間でも、あの槍働きを見ております。」


 勝家は再び宗助へ視線を戻した。


 「足軽にしては、よく周りを見ておる。」


 藤吉郎は小さく笑った。


 「ただ槍を振るうだけの者ではありませんな。」


 勝家は短く頷く。


 「……覚えておこう。」


 その言葉を最後に、二人は戦場へ視線を戻した。


 勝利したからといって、戦が終わったわけではない。


 まだ、やるべきことが残っている。


 「負傷者を集めろ!」


 「こちらにもおるぞ!」


 「担架を持ってこい!」


 戦場のあちらこちらから声が上がり始めた。


 宗助も槍を握り直した。


 「源四郎殿。」


 「うむ。」


 「まだ、やることがありますね。」


 源四郎は静かに頷いた。


 「そうじゃ。」


 宗助たちは、負傷者のもとへ向かった。


 さきほどまで敵を追っていた兵たちも、今は倒れた仲間を運んでいる。


 勝利の歓声が響く一方で、戦場には苦痛の声が満ちていた。


 宗助は倒れている兵の間を歩きながら、周囲を見渡した。


 ふと、一人の織田兵が目に入った。


 年は二十にも届かないだろう。


 肩へ深い傷を負い、苦しそうに息をしている。


 「水……。」


 かすれた声だった。


 宗助は腰へ下げていた竹筒を外し、男の口元へ運ぶ。


 男は少しだけ水を飲んだ。


 「助かった……。」


 それだけ言うと、静かに目を閉じた。


 宗助はしばらく動けなかった。


 勝っても、人は死ぬ。


 それは変わらない。


 「宗助。」


 源四郎が肩へ手を置く。


 「行くぞ。」


 「……はい。」


 宗助は静かに立ち上がった。


 歩きながら、弥吉が苦笑する。


 「初陣でこれだけ動ければ上出来じゃ。」


 「俺なんぞ、初めての戦では腰が抜けて槍も持てんかった。」


 宗助は思わず笑った。


 「弥吉殿にも、そんな頃があったんですね。」


 「当たり前じゃ。」


 弥吉は照れくさそうに頭をかく。


 「皆、最初は同じよ。」


 その言葉に、宗助の肩から少し力が抜けた。


 自分だけが震えていたわけではない。


 誰もが恐怖を抱えながら、戦場に立っていたのだ。


 やがて雨が弱まり始めた。


 厚い雲の切れ間から、淡い陽が差し込む。


 泥にまみれた戦場が、少しずつ明るくなっていく。


 折れた槍。


 割れた兜。


 泥に沈んだ旗。


 そして、動かなくなった兵たち。


 宗助は立ち止まり、戦場を見渡した。


 今日、自分は生き残った。


 だが、生き残れなかった者もいる。


 その違いが何だったのか。


 運なのか。


 腕なのか。


 それとも、ほんの一瞬の判断なのか。


 宗助にはまだ分からない。


 ただ、一つだけ分かったことがある。


 戦場では、一瞬の判断が生死を分ける。


 ならば。


 次も生き残るためには、もっと強くならなければならない。


 槍だけではない。


 周りを見る目も。


 仲間を守る力も。


 そして、自分自身の心も。


 「宗助。」


 源四郎が呼ぶ。


 「帰るぞ。」


 「はい。」


 宗助は最後にもう一度、戦場を振り返った。


 そして、静かに歩き出した。


 桶狭間の戦いは終わった。


 だが、この一戦を境に、宗助の人生は確かに変わり始めていた。


 まだ本人は、その変化の大きさを知らない。


 ――勝者となった織田軍は、清洲への帰路につく。


 そして宗助もまた、初めての戦場を胸に刻みながら、その列へ加わった。


――あとがき――


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 今回は、桶狭間の戦いの終結を描きました。


 織田軍の勝利という歴史上の大きな出来事の裏側で、宗助は初めて戦場の現実を目の当たりにします。


 敵を討つだけが戦ではない。


 生き残り、負傷した仲間を助け、戦場から帰る。


 初陣を終えた宗助は、そのことを身をもって知りました。


 そして、その働きは本人の知らないところで、柴田勝家と木下藤吉郎の記憶にも残ることになります。


 次回は、戦を終えた宗助たちが清洲へ帰還します。


 次回『第二十二話 凱旋』

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