第十九話 初陣
「かかれぇぇぇっ!」
信長の号令とともに、豪雨を切り裂くような鬨の声が森へ響いた。
「おおおおおっ!」
宗助も槍を握り締め、源四郎たちとともに斜面を駆け下りる。
雨は容赦なく降り続いていた。
ぬかるみに足を取られ、草鞋が泥へ沈む。
それでも誰一人として立ち止まらない。
止まれば、死ぬ。
そのことだけは、戦を知らぬ宗助にも分かっていた。
森を抜けた瞬間、眼前へ無数の陣幕が飛び込んでくる。
今川軍本陣。
豪雨を避けるため、多くの兵が天幕へ集まり、槍を地面へ立てて休んでいた。
「敵襲だ!」
「織田勢じゃ!」
「武具を持て!」
突然の奇襲に、今川兵たちは混乱する。
鎧を着けようとして転ぶ者。
慌てて槍を掴む者。
仲間へ怒鳴る者。
豪雨が視界を遮り、誰が敵で誰が味方かも分からぬ有様だった。
宗助は思わず息を呑む。
(これが……戦。)
訓練とはまるで違う。
怒号。
悲鳴。
鉄がぶつかる音。
血の匂い。
雨に混じって土が跳ね、視界は泥色へ染まる。
「宗助!」
源四郎の怒声が飛んだ。
「止まるな!」
「前へ出ろ!」
「はっ!」
宗助は我に返る。
目の前には、槍を構えた今川兵が一人。
年は四十ほどだろうか。
自分と同じように、恐怖を浮かべた顔で槍を握っている。
一瞬だけ目が合った。
次の瞬間、相手が叫びながら突っ込んでくる。
「うおおおっ!」
宗助は反射的に槍を突き出した。
ガキンッ!
槍同士がぶつかり、火花が散る。
重い。
腕が痺れる。
相手も必死だった。
何度も槍を突き出し、宗助を押し込もうとする。
宗助は必死に受け流した。
雨で柄が滑る。
足元は泥。
一歩踏み外せば終わりだ。
「押せぇ!」
源四郎の声が聞こえる。
その一言で宗助は歯を食いしばった。
村で鍬を振り続けた腕。
足軽になってから積み重ねた鍛錬。
すべてを込めて槍を押し返す。
「ぐっ……!」
相手が体勢を崩した。
その一瞬を、宗助は見逃さない。
槍を突き出す。
穂先は相手の胴へ吸い込まれた。
男の目が大きく見開かれる。
槍を握っていた手から力が抜け、その身体は泥の中へ崩れ落ちた。
宗助はその場へ立ち尽くす。
(……討った。)
初めて、人を討った。
胸が苦しい。
吐き気が込み上げる。
未来では何度も戦国武将を見てきた。
ゲームも、小説も、ドラマも知っている。
だが現実は違った。
人が倒れる音。
温かい血。
苦しそうな息遣い。
どれも、想像とは比べものにならない。
「宗助!」
弥吉が敵兵を払いながら怒鳴る。
「何をしておる!」
「まだ終わっておらん!」
その声で宗助ははっとする。
周囲ではなおも戦が続いていた。
味方が倒れ、敵が叫び、槍が交わる。
感傷に浸る時間などない。
生きるためには前へ進むしかないのだ。
宗助は泥へ落ちた槍を握り直す。
その時だった。
森の奥から、一際大きな鬨の声が響いた。
「殿がお進みじゃ!」
「続けぇ!」
その声に、織田兵たちの士気が一気に高まる。
宗助は顔を上げた。
豪雨の向こう。
黒漆塗りの具足をまとった武者が、敵陣の中央へ向かって駆けていく姿が見える。
織田信長だった。
その背中を見た宗助は、槍を強く握り締める。
(殿のもとへ。)
(俺も前へ出るんだ。)
初陣の恐怖は消えていない。
それでも足は止まらなかった。
宗助は再び雄叫びを上げ、激戦の渦へ飛び込んでいく。
宗助は泥を蹴り上げながら前へ進んだ。
豪雨は少しも勢いを弱めない。
顔へ打ち付ける雨粒で目を開けるのも辛い。
それでも織田兵は止まらなかった。
奇襲は成功している。
今川軍は完全に混乱していた。
「押し返せ!」
「本陣を守れ!」
「敵は多くないぞ!」
あちこちで怒号が飛び交う。
だが豪雨のせいで命令は兵全体へ届かない。
伝令は泥へ足を取られ、隊は分断されていた。
(これが……戦国の戦だ。)
宗助は改めて実感する。
未来のような統率された軍隊ではない。
村ごと、組ごとに集まった兵が、それぞれの組頭を頼りに戦っている。
源四郎が槍を振り上げた。
「源四郎組、前へ!」
「弥吉! 宗助! 右へ回れ!」
「承知!」
宗助たちは三人で敵兵へ突っ込む。
今川兵も決して弱くはない。
槍を巧みに操り、織田兵を押し返そうとしてくる。
弥吉が一人を受け止める。
源四郎はもう一人を斬り伏せた。
宗助の前にも若い兵が立ちはだかる。
年は自分と変わらない。
恐怖に震えながら、それでも槍を構えている。
「退けぇ!」
叫びとともに槍が突き出された。
宗助は半歩だけ身を引く。
穂先が胸元をかすめる。
冷たい汗が流れた。
(危なかった……。)
もし一瞬遅れていれば、今頃倒れていたのは自分だった。
宗助は深く踏み込み、槍の石突で相手の腕を払う。
若い兵は体勢を崩した。
その隙に弥吉が横から槍を突き出す。
敵兵はその場へ崩れ落ちた。
「一人で抱え込むな!」
弥吉が怒鳴る。
「戦は仲間とするものじゃ!」
「……はい!」
宗助は大きく息を吐いた。
訓練では何度も一対一を繰り返した。
しかし本当の戦では違う。
一人で英雄になる者などいない。
隣に仲間がいるから、生き残れる。
その時だった。
「道を開けよ!」
前方から織田兵の叫びが響く。
宗助が顔を上げると、黒漆塗りの具足をまとった武将が敵陣を一直線に駆け抜けていた。
織田信長。
その周囲には柴田修理亮、森可成ら歴戦の武将たちが続いている。
「殿に続けぇ!」
鬨の声が一段と大きくなる。
その勢いに押されるように、今川兵たちの隊列が崩れ始めた。
宗助も前へ出ようとした、その時だった。
豪雨でぬかるんだ斜面を、一人の今川兵が滑り落ちてくる。
身体中が泥まみれになりながらも、なお立ち上がり、信長たちの進路を見据えていた。
その目には、敗北を悟った者とは思えない執念が宿っている。
宗助は本能的に、その兵から目を離せなかった。
(……何か嫌な予感がする。)
戦場では、理屈よりも勘が命を救う。
宗助は無意識のうちに、その兵を追い始めていた。
この時、まだ宗助は知らない。
その一歩が、自らの運命を変えることになることを。
――あとがき――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は桶狭間の戦い前編として、宗助の初陣と戦場の現実を中心に描きました。英雄たちだけでなく、一兵卒がどのように戦い、生き残ろうとしたのかを意識しています。また、戦国時代の軍勢は現代軍隊のような統率ではなく、組ごとの連携を重視した描写へ修正しました。
次回はいよいよ第一章最大の見せ場です。宗助が歴史へ初めて大きく関わる瞬間が訪れます。
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