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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第十八話 豪雨の幕開け

 永禄三年五月十九日。


 善照寺砦へ到着した織田軍は、ひとときの静寂に包まれていた。


 先ほどまで降り注いでいた陽射しは、いつしか厚い雲に覆われている。


 風は湿り気を帯び、山の木々がざわざわと葉を鳴らしていた。


 宗助は槍を地面へ立て、深く息を吐く。


 喉は乾き、鎧の中は汗でじっとりと濡れている。


 それでも誰一人、弱音を漏らす者はいなかった。


 砦の周囲には、槍を抱えた足軽たちが無言で腰を下ろしている。


 鎧の紐を締め直す者。


 草鞋を結び直す者。


 静かに念仏を唱える者。


 皆、それぞれのやり方で戦を迎える覚悟を固めていた。


「宗助。」


 隣へ腰を下ろした弥吉が、小さな声で話しかける。


「緊張しておるか。」


 宗助は苦笑した。


「していないと言えば嘘になる。」


「そうか。」


 弥吉は頷く。


「安心した。」


「え?」


「初陣で震えぬ奴ほど危ない。」


 宗助は思わず笑ってしまう。


「源四郎殿も似たようなことを仰っていた。」


「だろうな。」


 弥吉は遠くを見つめた。


「怖いと思う気持ちが、生きようとする力になる。」


「戦では、それを忘れた奴から死ぬ。」


 その言葉には重みがあった。


 弥吉もまた、幾度となく戦場をくぐり抜けてきた男なのだ。


 宗助は槍の柄を握り直す。


(怖い。)


 未来を知っていても怖い。


 いや、未来を知っているからこそ怖かった。


 桶狭間では織田軍が勝つ。


 それは知っている。


 しかし、その勝利の陰で何人が命を落としたのかまでは分からない。


 史実に名を残さなかった兵たちは、数え切れないほどいる。


 その中へ、自分が入る可能性も十分にあった。


 その時だった。


 砦の外が急に騒がしくなる。


 一騎の騎馬武者が土煙を巻き上げながら駆け込んできた。


「物見が戻ったぞ!」


 兵たちが一斉に立ち上がる。


 武者は馬を飛び降りると、そのまま信長のもとへ駆けていった。


 宗助たちには報告の内容までは聞こえない。


 だが、重臣たちの表情が次第に険しくなっていく。


 柴田修理亮は腕を組み、じっと地図を見つめていた。


 丹羽長秀は何事かを進言している。


 佐久間信盛も真剣な面持ちで耳を傾けていた。


 宗助は息を呑む。


(来た……。)


 未来では何度も読んだ場面。


 だが、今は本の中ではない。


 自分もその場に立っている。


 やがて重臣たちの議論が終わる。


 誰もが信長の決断を待っていた。


 その沈黙を破ったのは、一陣の風だった。


 冷たい風が砦を吹き抜ける。


 宗助は思わず空を見上げた。


 黒雲が、さっきよりも低く垂れ込めている。


 ぽつり。


 雨粒が頬を打った。


 続いて二粒。


 三粒。


 そして突然、空が裂けたような豪雨となる。


 ザァァァァァァッ──。


 兵たちの鎧を激しく叩き、地面はみるみる泥へと変わっていく。


 数十間先の木々さえ霞んで見えない。


 弥吉が目を細めた。


「とんでもない降りだ……。」


 宗助は胸の鼓動が速くなるのを感じた。


(この雨だ。)


 史実でも語り継がれる豪雨。


 この雨が、今川軍の視界を奪い、織田軍へ千載一遇の好機をもたらす。


 だが、それを知るのは宗助だけだった。


 他の兵たちは、不安そうに空を見上げている。


「この雨では戦にならぬのでは……。」


 若い足軽が呟く。


 すると源四郎が静かに首を振った。


「違う。」


「こういう時だからこそ、勝負は決まる。」


 宗助は源四郎を見た。


 未来は知らなくとも、歴戦の武士は天候の意味を理解している。


 経験がそう告げているのだ。


 その時、本陣の前へ信長が姿を現した。


 豪雨の中であっても、その姿勢は少しも揺るがない。


 ゆっくりと周囲を見渡す。


 兵たちは自然と背筋を伸ばえ、誰一人として声を発しなかった。


 信長は雨空を見上げると、小さく頷く。


 まるで、この豪雨すら味方につけるかのように。


 そして静かに口を開いた。


「……好機ぞ。」


 その一言だけで、砦の空気が一変した。


 豪雨の中で放たれたその一言は、不思議なほど兵たちの耳へ届いた。


 ざわついていた空気が静まり返る。


 信長は雨に濡れることなど意にも介さず、一歩前へ出た。


「敵も、この雨を避けておる。」


「天は、我らに時を与えた。」


 重臣たちが信長の言葉へ耳を傾ける。


 柴田修理亮は静かに頷き、丹羽長秀はすぐさま配下へ目配せした。


 命令は瞬く間に各隊へ伝わっていく。


「槍隊、前へ。」


「鉄砲隊は後方で待機。」


「声を立てるな。」


 宗助たちの組にも源四郎が戻ってきた。


 その表情には、普段以上の厳しさがある。


「これより敵本陣へ向かう。」


 兵たちの喉が鳴る。


「ここから先は私語を慎め。」


「泥に足を取られても立ち止まるな。」


「仲間が倒れても勝手に隊を離れるな。」


 源四郎は一人ひとりの顔を見回した。


「敵将を討つのは殿や武将方のお役目じゃ。」


「我ら足軽は、その道を切り開く。」


「それが務めだ。」


「はっ!」


 雨音にも負けぬ返事が返る。


 宗助も深く息を吸った。


 歴史を知っている。


 だからといって、自分が英雄になれるわけではない。


 まずは生き残ること。


 そして、仲間とともに前へ進むこと。


 それが今の自分の役目だった。


 隊列はゆっくりと砦を離れる。


 雨はさらに勢いを増し、木々の葉を激しく叩いていた。


 森へ足を踏み入れると、昼間だというのに辺りは薄暗い。


 ぬかるんだ地面へ草鞋が沈む。


 誰も口を開かない。


 聞こえるのは雨音と、鎧が触れ合う小さな音だけだった。


 宗助は前を歩く弥吉の背中を見失わないよう慎重に歩く。


 視界は悪い。


 数間先の姿さえ雨に霞んでいる。


 だが、この悪天候こそが織田軍最大の武器になる。


 しばらく進んだ時だった。


 前方で信長が右手を上げる。


 隊列が一斉に止まった。


 兵たちはその場へ膝をつき、息を潜める。


 宗助も木陰へ身を寄せた。


 源四郎が低い声で囁く。


「耳を澄ませ。」


 宗助は目を閉じた。


 豪雨の向こうから、かすかに笑い声が聞こえる。


 酒宴だろうか。


 勝利を疑わぬ今川兵たちの笑い声が、風に乗って届いてくる。


 さらに耳を凝らすと、馬のいななき、甲冑の擦れる音、人々の話し声も混じっていた。


 敵は近い。


 本当に、すぐそこだ。


 宗助の鼓動が早まる。


(もう後戻りはできない。)


 信長は木々の隙間から敵陣を見据えている。


 その横顔には、一片の迷いもなかった。


 やがて信長はゆっくりと腰の太刀へ手を掛ける。


 雨粒が刃を伝い、静かに地面へ落ちた。


 重臣たちも無言で得物を構える。


 柴田修理亮。


 森可成。


 丹羽長秀。


 誰一人として声を上げない。


 宗助も槍を握る手へ力を込めた。


 未来を知る男としてではない。


 一人の織田家足軽として、この戦を生き抜くために。


 その時だった。


 信長が振り返ることなく、静かに右手を前へ振る。


 「……かかれ。」


 次の瞬間、織田軍は堰を切った濁流のように森から躍り出た。


 宗助も泥を蹴り上げ、雄叫びとともに敵陣へ駆け出す。


 桶狭間の戦いが、ついに幕を開けた。


――あとがき――


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 第十八話では、善照寺砦から奇襲開始までを描きました。史実でも桶狭間の戦いは豪雨が大きく影響したとされており、その「嵐の前の静けさ」と信長の揺るがない決断を中心に構成しています。


 次回からはいよいよ合戦本編です。一兵卒である宗助だからこそ見える恐怖や混乱、そして運命を変える最初の一歩を、史実への敬意を大切にしながら描いていきます。


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