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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第十七話 熱田への道

 永禄三年五月十九日、早朝。


 清洲城を発った織田軍は、朝靄の残る尾張路を熱田へ向けて進んでいた。


 隊列は整然としている。


 槍隊、弓隊、鉄砲隊、荷駄隊。


 それぞれが持ち場を守り、一歩ずつ歩を進めていく。


 宗助も源四郎の組の一員として槍を肩に担いでいた。


 鎧は重い。


 足袋の中は汗で湿り始めている。


 それでも誰一人、弱音を吐く者はいない。


 戦場は、すぐそこまで迫っていた。


「宗助。」


 隣を歩く弥吉が小声で話しかける。


「初陣はどうじゃ。」


「思っていたより静かだ。」


「そうじゃろ。」


 弥吉は苦笑した。


「戦は始まる前が一番静かなんじゃ。」


「始まれば、考える暇などなくなる。」


 宗助は静かに頷いた。


 未来を知る自分でさえ、胸の鼓動は速くなっている。


 まして、この時代を生きる彼らには、明日がある保証などどこにもない。


 隊列はそのまま南へ進み、やがて熱田の町並みが見え始めた。


 街道には領民たちが膝をつき、織田軍を見送っている。


「殿じゃ。」


「織田様がお通りになる。」


 子どもを抱いた母親。


 頭を下げる老人。


 商人たちも店先へ出て、一行を静かに見送っていた。


 宗助はその光景を見つめながら思う。


(この人たちは知らない。)


(今日が歴史に残る一日になることを。)


 やがて軍勢は熱田へ到着した。


 眼前には、鬱蒼とした鎮守の森が広がっている。


 熱田神宮だった。


 尾張国第一の宮として、多くの武将が戦勝祈願に訪れた神社である。


 宗助たちは神域の外で待機を命じられた。


 信長をはじめとする重臣たちだけが境内へ入っていく。


 源四郎が小さく息を吐いた。


「殿は必ず参詣なさる。」


「昔から戦の前には欠かされたことがない。」


 宗助は静かに鳥居を見つめた。


 史実でも、信長は熱田神宮で戦勝を祈願したと伝えられている。


 そして、この後に見せる振る舞いが、多くの家臣たちを驚かせることになる。


 しばらくして境内から法螺貝の音が響く。


 続いて太鼓。


 兵たちが一斉に顔を上げた。


 鳥居の向こうから信長が姿を現す。


 その歩みには一切の迷いがない。


 重臣たちも続いているが、その表情にはなお緊張が残っていた。


 すると信長は、ふいに立ち止まった。


 宗助は思わず目を凝らす。


 信長は空を見上げると、高らかに舞い始めた。


 兵たちがどよめく。


「殿が……。」


「舞っておられる。」


 宗助は息を呑んだ。


 史実として伝わる『敦盛』の舞。


 戦を前にしてなお、心を乱さぬ信長の姿だった。


 信長の声が、静かな境内へ響き渡る。


 その姿を見つめながら、宗助は全身が震えるのを感じていた。


(これが……。)


(歴史に残る、織田信長。)


 恐怖を押し隠しているのではない。


 恐怖ごと受け入れ、その上で前へ進もうとしている。


 だからこそ、人はこの男についていくのだ。


 宗助は槍を強く握り締めた。


 桶狭間は、もう目前だった。


 熱田神宮の境内を包んでいた静寂が、ゆっくりと解けていく。


 信長が舞を終えると、誰も声を発しなかった。


 兵たちはただ、その背中を見つめている。


 宗助もまた、言葉を失っていた。


 未来の書物では何度も読んだ光景。


 だが、目の前で見るそれはまるで違う。


 あの舞は虚勢ではない。


 死を前にした者だけが見せる覚悟だった。


「出陣。」


 信長が短く命じる。


 その一言で軍勢が動き出す。


 法螺貝が鳴り響き、旗指物が一斉に揺れた。


 織田軍は熱田神宮を後にし、善照寺砦へ向かう。


 初夏の日差しが徐々に強くなり、鎧の内側を汗が流れる。


 街道には田植えを終えたばかりの田が広がり、風が若い稲を揺らしていた。


 こんな穏やかな景色の先で、大戦が始まろうとしている。


 宗助は槍を握る手に力を込めた。


 昼近くになり、軍勢は善照寺砦へ到着した。


 砦は小高い丘の上に築かれ、周囲を見渡せる要地である。


 兵たちは息を整え、水を口に含む。


 しかし休息の空気は長く続かなかった。


 一騎の騎馬武者が土煙を上げながら砦へ飛び込んでくる。


「急報!」


 馬を降りる間も惜しみ、武士は本丸へ駆け込んだ。


 砦全体が緊張に包まれる。


 宗助の胸が高鳴る。


(来た……。)


 ほどなくして、砦の上から重臣たちの声が聞こえ始めた。


 はっきりとした内容までは分からない。


 だが、ただ事ではないことだけは伝わってくる。


 やがて柴田修理亮、丹羽長秀、佐久間信盛らが姿を現した。


 皆、険しい表情を浮かべている。


 その直後だった。


 信長が砦の外へ歩み出る。


 兵たちは一斉に姿勢を正した。


 信長は家臣たちを見回し、静かに告げる。


「敵は桶狭間にあり。」


 その場が水を打ったように静まり返る。


 続く言葉は、宗助も知っていた。


「討つ。」


 たった二文字。


 しかし、その一言で空気が変わる。


 重臣の中には驚きを隠せない者もいた。


 敵は圧倒的大軍。


 正面から挑めば勝ち目は薄い。


 だが信長は迷わない。


 宗助は未来を知っている。


 この決断こそが、後世まで語り継がれる奇襲の始まりだ。


 その時、空を覆っていた雲がゆっくりと厚みを増し始めた。


 生暖かい風が吹き抜ける。


 源四郎が空を見上げ、小さく呟いた。


「ひと雨来るかもしれんな。」


 宗助も同じ空を見上げる。


(雨……。)


 史実では、この天候が織田軍に味方する。


 豪雨が敵の視界を遮り、奇襲成功の大きな要因となる。


 だが、この場にいる誰も未来は知らない。


 知っているのは宗助だけだ。


 だからこそ、歴史を変えてはならないという思いと、必ず信長を守らなければならないという決意が胸の中でせめぎ合う。


 信長は馬へ跨ると、太刀を静かに抜いた。


 陽光を受けた刃が鋭く光る。


「参るぞ!」


 その号令に、織田軍は一斉に槍を掲げた。


「おおっ!」


 鬨の声が尾張の空へ響き渡る。


 宗助も槍を高く掲げる。


 ついに始まる。


 後世に「桶狭間の戦い」と刻まれる、日本史最大の逆転劇が。


――あとがき――


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 今回は熱田神宮を発った織田軍が善照寺砦へ進み、桶狭間へ向けて決断を下すまでを描きました。善照寺砦での軍議や急報は『信長公記』などにも見られる流れを基にしつつ、小説として臨場感を加えています。


 次回はいよいよ桶狭間の戦いが開戦します。宗助にとって初陣であり、日本史に残る激戦です。史実への敬意を大切にしながら、一兵卒の視点だからこそ見える戦場を描いていきます。


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