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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第十六話 出陣前夜

 永禄三年五月。


 清洲城を包む空気は、一夜にして変わった。


 夜明け前から城門は開き、各地から使者が次々と駆け込んでくる。


 そのたびに伝令が本丸へ走り、重臣たちが慌ただしく集まっていく。


 兵糧蔵でも、昨夜から荷運びは途切れることがなかった。


「急げ!」


「馬二十頭分を先に回せ!」


「鉄砲玉は湿らせるな!」


 怒号が飛び交う。


 宗助も汗だくになりながら米俵を荷車へ積み込んでいた。


 疲労は限界に近い。


 それでも誰一人、不満を口にはしなかった。


 皆が分かっている。


 今は一刻を争う時なのだ。


 昼を少し過ぎた頃だった。


 城内へ一騎の早馬が飛び込んでくる。


「大高城へ兵糧、入り申した!」


 その報せに周囲がざわつく。


 宗助は思わず手を止めた。


(来た……。)


 史実では、今川方の松平元康、後の徳川家康が大高城への兵糧入れを成功させる。


 それを知った信長は、ついに決断を下す。


 歴史は、寸分違わず進んでいた。


「宗助!」


 源四郎の声が飛ぶ。


「気を抜くな!」


「申し訳ありません!」


 宗助はすぐに荷運びへ戻る。


 未来を知っているからといって、今できることは何も変わらない。


 目の前の務めを果たすしかない。


 やがて日が傾き始めた頃。


 城内へ大きな法螺貝の音が響いた。


 ブォォォォォ──。


 一度。


 二度。


 三度。


 兵たちが一斉に顔を上げる。


「評定だ。」


「殿がお決めになるぞ。」


 誰かが緊張した声で呟く。


 本丸へ重臣たちが集まっていく。


 柴田修理亮。


 丹羽長秀。


 佐久間信盛。


 林秀貞。


 そして木下藤吉郎も、書状を抱えて足早に駆けていった。


 宗助は遠くから、その背中を見送るしかなかった。


 どんな議論が行われているのか。


 未来を知る宗助には想像がつく。


 ほとんどの者は籠城を勧める。


 兵力差は圧倒的だった。


 織田軍は数千。


 今川軍は二万を超えるとも伝えられている。


 誰が見ても勝ち目は薄い。


 だが、一人だけ違う男がいる。


 織田信長。


 宗助は空を見上げた。


(殿……。)


(あなたは、この状況でも出陣を選ぶ。)


 その決断が、日本の歴史を大きく変える。


 だからこそ、絶対に生き延びてもらわなければならない。


 やがて評定が終わったのか、本丸の障子が次々と開く。


 重臣たちが無言で姿を現した。


 その表情は様々だった。


 険しい者。


 驚きを隠せない者。


 覚悟を決めたような者。


 そして最後に。


 一人の武士が高らかに告げた。


「殿より御下知!」


 城内が静まり返る。


「明朝、出陣!」


 その一言で、清洲城は大きく動き始めた。


 兵たちは駆け出し、武具蔵が開かれる。


 槍が配られ、鉄砲が点検され、馬が引き出される。


 誰もが自分の持ち場へ走る。


 宗助も槍を受け取りながら、小さく拳を握った。


 ついに始まる。


 桶狭間の戦いが。


 「明朝、出陣!」


 その号令は、瞬く間に清洲城中へ広がった。


 兵たちは詰所へ駆け戻り、槍や鎧を整え始める。


 笑い声は消え、聞こえるのは革紐を締める音と、鉄が触れ合う乾いた響きだけだった。


 宗助も槍を抱え、自分の具足を一つひとつ確かめる。


 草摺に緩みはない。


 柄に割れもない。


 穂先も研ぎ上げられている。


 源四郎が静かに兵たちを見回した。


「今日まで鍛えたことを思い出せ。」


「余計な手柄は望むな。」


「隣の者と離れるな。」


「生きて戻ることを第一に考えよ。」


 その言葉に、皆が力強く頷く。


 宗助は少し意外だった。


 勇ましく突撃を命じるのではない。


 まず「生きろ」と命じる。


 それが歴戦の者の言葉だった。


 やがて日が沈み、城内に夜の帳が下りる。


 それでも眠る者はいない。


 武具蔵では最後の点検が続き、兵糧蔵では米俵が荷車へ積まれていく。


 宗助は水桶で顔を洗うと、静かに夜空を見上げた。


 星がよく見える。


(明日だ。)


 未来では教科書に数行しか記されない一日。


 だが、この時代を生きる者たちにとっては、命を懸けた一日になる。


 ふと、足音が近づいた。


「眠れそうか。」


 振り向くと、源四郎だった。


「正直に申せば……眠れません。」


 宗助が苦笑すると、源四郎も小さく笑った。


「初陣の前夜など、皆そんなものじゃ。」


 二人は並んで腰を下ろす。


 しばらく沈黙が続いた後、源四郎がぽつりと口を開く。


「戦とは、不思議なものじゃ。」


「臆病な者ほど生き残り。」


「勇み足の者ほど早く死ぬ。」


 宗助は耳を傾ける。


「恐れることは恥ではない。」


「恐れを忘れた時、人は死ぬ。」


 その言葉は、宗助の胸へ深く染み込んだ。


「明日、お主はお主の役目を果たせ。」


「それだけでよい。」


「はい。」


 源四郎は立ち上がる。


「休め。」


「夜明けは早い。」


 宗助は深く一礼した。


 翌朝。


 まだ空が白み始めたばかりの頃、法螺貝が城中へ響き渡る。


 兵たちは一斉に立ち上がり、鎧をまとった。


 城門がゆっくりと開く。


 外には、すでに数千の兵が整列していた。


 朝靄の中、無数の旗指物が風にはためいている。


 やがて前方が静まり返る。


 一騎の馬がゆっくりと姿を現した。


 黒漆塗りの具足。


 威厳ある馬上の姿。


 織田信長だった。


 宗助は思わず息を呑む。


 前日には姿をほとんど見ることができなかった。


 しかし今、その姿は朝日に照らされ、兵たちの前に立っている。


 信長は周囲をゆっくりと見渡した。


 その視線には迷いがない。


 兵力差など意に介さぬかのようだった。


 やがて静かな声が響く。


「参るぞ。」


 それだけだった。


 しかし、その一言で兵たちの空気が変わる。


「おおっ!」


 地鳴りのような声が上がる。


 宗助の背筋にも震えが走った。


(この人だから、人は命を預ける。)


 歴史書では伝わらない。


 目の前に立つ者だけが感じられる、不思議な求心力がそこにはあった。


 信長は馬首を巡らせる。


 織田軍はゆっくりと清洲城を後にした。


 向かう先は熱田。


 そして、その先に待つのは桶狭間。


 宗助は槍を握り直し、隊列の中で静かに歩き始めた。


 歴史を変える戦が、ついに始まろうとしていた。


――あとがき――


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 今回は出陣前夜から、信長率いる織田軍が清洲城を発つまでを描きました。史実でも、出陣前の信長は動揺する家臣たちとは対照的に、驚くほど落ち着いていたと伝えられています。その静かな覚悟を意識して描写しました。


 次回はいよいよ熱田神宮、そして桶狭間への進軍です。歴史に残る一戦を、宗助の視点から丁寧に描いていきます。


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