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本能寺を変えるため、織田信長の家臣になった。 ~歴史を知る俺は、天下人を死なせない~  作者: 春野ケイ


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第十五話 戦支度の始まり

 宗助が職人を救ってから二日後。


 清洲城は、それまでとは比べものにならないほど慌ただしくなっていた。


 廊下を行き交う武士たちは足早に歩き、使者の馬が城門を何度も出入りする。


 蔵では兵糧俵が運び出され、鍛冶場からは昼夜を問わず鉄を打つ音が響いていた。


 戦の気配だった。


 詰所でも兵たちの表情が変わっている。


「いよいよ始まるか。」


 誰かが小さく呟く。


「今川が動くらしい。」


「駿府を発ったという話も聞いた。」


「いや、大高城へ兵糧を入れたとも……。」


 噂ばかりが飛び交う。


 誰も確かなことは知らない。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 織田と今川が、近いうちに激突する。


 宗助は黙って槍の穂先を研いでいた。


(もうすぐ桶狭間だ。)


 歴史は確実に、その日へ近づいている。


 焦ってはならない。


 今の自分はまだ歴史を動かせる立場ではない。


 信頼を積み重ねるしかないのだ。


 その時だった。


「宗助。」


 源四郎が詰所へ入ってきた。


「はっ。」


「付いて参れ。」


 それだけ言って歩き出す。


 宗助は急いで後を追った。


 向かった先は、本丸近くの役所だった。


 昨日まで普請をしていた場所のすぐ近くである。


 部屋へ入ると、数人の足軽がすでに並んでいた。


 その正面には、威厳ある武士が座している。


 立派な黒漆塗りの具足。


 鋭い眼差し。


 柴田修理亮だった。


 宗助たちは深く頭を下げる。


「面を上げよ。」


 低く響く声だった。


 宗助は静かに顔を上げる。


 勝家の視線が、一人ひとりを見渡していく。


「先日の普請。」


「働きぶりを見た。」


 部屋の空気が張り詰める。


「戦が近い。」


「城内には人手が足りぬ。」


「働きの良い者を臨時に召し抱え、本丸の雑務を任せる。」


 宗助は思わず息を呑んだ。


 本丸で働く。


 それは足軽にとって滅多にない機会だった。


「名を呼ばれた者は一歩前へ。」


 勝家は紙を広げる。


「弥吉。」


「はっ。」


「喜兵衛。」


「はっ。」


 そして。


「……宗助。」


「はっ!」


 宗助は一歩踏み出した。


 勝家は静かに頷く。


「先日の判断。」


「あれは見事であった。」


 その一言だけだった。


 しかし宗助の胸には、槍よりも重く響いた。


「礼を申します。」


「礼には及ばん。」


 勝家は表情を変えない。


「働きで返せ。」


「はっ!」


 短いやり取りだった。


 だが宗助は、この人物がなぜ織田家随一の猛将と呼ばれるのか少し理解した。


 無駄な言葉が一つもない。


 その一言一言に重みがある。


「今日より三日。」


「本丸の兵糧蔵、武具蔵、文庫の運搬を命ずる。」


「決して勝手な行動はするな。」


「見聞きしたことを口外することも許さん。」


「承知いたしました。」


 一同が頭を下げる。


 部屋を出た宗助へ、源四郎が小さく声を掛けた。


「良かったな。」


「ありがとうございます。」


「じゃが勘違いするな。」


「修理亮様は、お主を気に入ったわけではない。」


「使えるかどうかを見極めておられるだけじゃ。」


「はい。」


 宗助は力強く答えた。


 それで十分だった。


 期待されるよりも、試される方が嬉しい。


 結果を残せば、次がある。


 歴史を変える道は、そうした小さな積み重ねの先にしかないのだから。


 やがて宗助たちは兵糧蔵へ向かった。


 蔵の前には荷車が並び、米俵や味噌樽、矢束が山のように積まれている。


 その忙しい人波の中で、宗助は見覚えのある小柄な男と目が合った。


「おや。」


 男は人懐こい笑みを浮かべる。


「この前の足軽殿じゃないか。」


 木下藤吉郎だった。


 藤吉郎は肩に米俵を担いだまま、汗をぬぐって笑った。


「また会うたな。」


「木下殿。」


 宗助が頭を下げると、藤吉郎は首を横に振る。


「ここでは堅苦しい挨拶はいらん。」


「皆、忙しく働く仲間じゃ。」


 そう言うと、近くの荷車を軽く叩いた。


「見ての通り、大忙しじゃ。」


「兵糧を運び、書状を届け、人を集め、馬を走らせる。」


「戦が近づくと、一人で十人分働かねば間に合わん。」


 その口調は明るい。


 だが、目には疲労がにじんでいた。


 宗助も米俵を担ぎ上げる。


 二人は自然と並んで蔵の中へ入った。


 中には米俵が天井近くまで積み上げられている。


 奉行衆が帳面を手に数量を確認し、荷運びの足軽へ次々と指示を飛ばしていた。


「一俵たりとも間違えるな!」


「湿った俵は分けておけ!」


「矢束は荷車三番へ!」


 怒号が飛び交う。


 まさに戦支度そのものだった。


「宗助殿。」


 藤吉郎が小声で言う。


「戦は槍働きだけでは勝てぬ。」


「米が尽きれば兵は戦えぬ。」


「矢が尽きれば弓は役に立たぬ。」


「城を支える者がおってこそ、前へ出る武士がおる。」


 宗助は静かに頷いた。


 後世では豊臣秀吉は兵站を重んじた武将として知られる。


 その片鱗は、すでにこの頃から現れていたのだ。


「木下殿は、なぜそこまで働けるのですか。」


 宗助が尋ねると、藤吉郎は少し笑った。


「人より働けば、人より多くのものが見える。」


「人より多く動けば、人より多くの縁ができる。」


「その積み重ねが、明日の自分を助けてくれる。」


 宗助はその言葉を胸に刻む。


 歴史に名を残す者たちは、特別な才能だけで成り上がったわけではない。


 人知れず積み重ねた努力が、やがて大きな実を結ぶのだ。


 その時、蔵の外が急に騒がしくなった。


「急げ!」


「鳴海方面より早馬だ!」


 城内を駆け抜ける馬の蹄の音が響く。


 武士たちが次々と本丸へ駆けていく。


 空気が一変した。


 奉行も帳面を閉じる。


「作業の手を止めるな!」


「だが耳を澄ませ。」


「間もなく大きな命が下る。」


 宗助の鼓動が速くなる。


(来たか……。)


 史実では、永禄三年五月。


 今川義元は二万を超える大軍を率いて尾張へ侵攻を開始する。


 織田家に残された兵は、その数分の一。


 誰もが敗北を予想した戦。


 それが桶狭間の戦いだった。


 やがて蔵の前を、一団の騎馬武者が駆け抜ける。


 その中央には、黒漆塗りの具足をまとった武将の姿があった。


 顔までは見えない。


 だが、その場にいた誰もが一斉に頭を下げる。


「殿だ……。」


 誰かが小さく呟いた。


 宗助も深く頭を垂れる。


 駆け抜ける馬の音。


 揺れる旗指物。


 張り詰めた空気。


 そのすべてが告げていた。


 織田信長が、自ら動き始めたのだ。


 宗助は拳を静かに握る。


(もう逃げ場はない。)


(歴史は、桶狭間へ向かって動き出した。)


 その胸には恐れもあった。


 だが、それ以上に強い決意があった。


 この時代へ来た意味を果たすために。


 宗助は戦国の渦中へ、自ら足を踏み入れようとしていた。


――あとがき――


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 今回は、戦そのものではなく、その前段階となる「兵站」と「戦支度」に焦点を当てました。歴史上、どれほど優れた武将でも、兵糧や武具、人員の準備なくして戦に勝つことはできません。藤吉郎がその重要性を自然に理解している様子は、後の豊臣秀吉へとつながる人物像を意識しています。


 そして、ついに物語は桶狭間の戦い直前まで進みました。宗助が知る歴史と、実際に目の前で動く現実が交差し始めます。次回はいよいよ、織田家の命運を左右する大きな転機へと突入します。


 この作品を楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想、レビューで応援していただけると大変励みになります。今後も史実への敬意を大切にしながら、戦国の空気を感じられる物語をお届けしてまいります。

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