表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/22

犯罪捜査協力:情報共有③


 ふと意識が浮上し、身体の重さを自覚する。とりわけ瞼が重くて、喉と鼻はみじん切りの青唐辛子をすりこまれたように痛む。外の様子を確かめられるのは、耳と肌の感覚だけだった。

 服は薄い布、袖が広くて腰回りに締め付けがある。仰向けに寝かせられて布団をかけられて少し重い。人の足音や声は聞こえず、なにかの気配も感じ取れない。身体の下の柔らかさを動きの鈍い指で確かめると、畳の上の敷布団のよう。鼻が利かないが、和室の敷布団の上にいるのだろう。

 体がだるいが、喉の痛みを和らげたい。水だ、水が欲しい。瞼をこじ開けると、どこかで見た組木の天井だった。所長の執務室か?いや、ホテルの部屋も似た天井だったな。視線を右に向けると、ひさしと白壁の間に入道雲の裾が見えた。左に動かせば、紺の単衣を着こなす黒髪の美少年が目を伏せて正座していた。

 ふっくらとした頬は赤みがあり、口元と鼻筋が整っていて、日陰の中にあるにもかかわらず髪は艶やかだ。白の単衣の下には襦袢を着こんで、足元は青紫の袴をはいている。痛む首を左に傾けると、少年の右手側に白と銀で彩られた柄に、鍔は七宝と呼ばれる円形の模様をかたどった、おそらく片刃の剣が白の鞘に収まっていた。

 動いても少年は姿勢を崩す事なく、こちらを見る事もない。喉の痛みをこらえて、少年に声をかけた。

「じい、さ、ま、げほ……げほ、ごほ」

「喋るな。水と薬を持ってこさせる」

 咳をする私を言葉で切り捨てた少年は、音もなく剣を持って立ち上がり、奥のふすまを開けて部屋を出た。ふすまは閉じてひとり、止まらない咳を必死に宥めた。

 彼は義理の祖父のジン・オギワラである。所長に試合を申し込み、魔術と剣技で勝利した剣豪だ。

 所長からの褒賞を拒んだせいで、若返りの呪いをかけられてしまい、若かりし頃の姿からほとんど成長できていない。側近にも指名されてから他の十一人も退け、東方最強の剣聖と呼び声高い人だ。セロやノボル先輩の師匠でもある。

 じい様の家か。家に放り込んでくれれば良かったのに。何とか咳を治めて体の力を抜いた。すごく疲れたし、話さないようにしよう。

 瞼を開け続けるのも億劫になってきたところに、お盆を持ったセロが来た。かすりの羽織と紺の袴の彼は、正座でお盆を畳においた。お盆には水の入ったガラスのコップと、スプーン一杯ほどの緑色の粉が懐紙にのせられている。セロは拳をついて覗き込んできた。

「変なもの食べるな、って言っただろうが」

 不機嫌に睨まれ、視線だけそらす。しば漬けの味は問題なかった。想定した毒物は、胃酸に反応して劇毒になるもの。変なものを喜んで食べた訳じゃない。

 天井の角を見ていると、「薬をのめ」とセロが上体を起こしてくる。背中がきしみ、体中が痛いと悲鳴を上げる。思わず出たうめき声が喉に突き刺さって、咳を重ねた。体の中から空気を吐き出している間、セロが背中を支えてくれた。

「毒で死なないって言っても、二日も身じろぎしていなかったぞ?限度があるだろ」

 息に荒さが残るまま感謝を目で伝えようとしたら、セロは懐紙をつまんで突き出してきた。緑色の粉からは、苦みの主張が激しい草の香りが漂ってくる。

 粉薬は水を先に含むものだよ。水を見ても、セロの指に顎が捕まって、口をこじ開けられた。舌の上に粉がのると、顔をしかめた。

 にがい。口の中が引き締まって、草の香りと酸味、遠くに甘さがある酷い味だ。ひどい、意地悪しないでよ。あと、顎の骨が痛い。指の跡が付いてないよね?いたいよ、にがいよ。

 苦痛の最中に水を求めれば、コップを唇に押し付けられた。すすって口に呼び込むと、水が冷たく広がって鼻の奥に空気が通る。ぐっと飲みこむと喉に染みて、通り過ぎた後には痛みが無くなっていた。

 これなら声が出せるかも。けれど、第一声が不満なのは気分が悪い。不快感を呑み込んで、感謝を言葉にした。

「あり、が、と」

「いいよ。まだ声は出さない様にしとけ」

 肩をさすってくれる手は優しくて、腹にあるものも溶ける。薬の服用方なんて、皆が知っているものでもない。意地悪なんて思って、ごめん。

 反省していると、縁側からじい様が戻ってきた。セロは膝をにじって下がろうとするが、じい様は手で制して私の右手に座る。支えてもらいながら再び横になると、じい様は目を細めて見下ろしてきた。

「良かったな、お前のおかげで死人は出なかった」

 じい様の声色は読めないが、細い瞼の奥に火が灯っている。セロの口から動揺の声がこぼれていて、怒っているのは明らかだった。

「使われたのは赤光の泡だ。魔法でも判別できないし、ゼロでも喋る間もなく死んでいただろう」

 予想通りの毒物か。セロがおずおずと口を出す。

「師匠、それは禁忌魔法の薬ですよね……」

「そうだ。復活しても喉が焼け、手足には数年しびれが残り、結構な痛手になったはずだ」

 そっと頬に触れてきた中指はぬるくて、綿毛の様だった。労りの指先にまどろむが、視界に残る鋭い光は消えていない。

「どこぞの思惑を防いだのは、褒めるべきことだ。けれど、お前さんが苦しむのは認められない。ゼロの側近だとしても、西に行く時は儂にも言ってから行きなさい」

 探索者の特技資格三番は、魔素を含む人体に有害な物質への対処能力を示している。知識を確かめる試験もあるが、毒や劇物、高濃度魔素の耐性がなければ浄化する場所にも立てないので、毒耐性指標とも呼ばれる。八級は事実上の最高位で、最も毒に強い人間のひとりなのだ。

 そんな身体でも、毒を口にすれば苦しい。むしろ致死量が人の何百、何千倍になっているせいで、苦しむだけ苦しんで死ねないのである。毒素が強ければ対処に引っ張られて気絶するし、排出した後の数日は動けない。

 西に近づくだけで危険にさらされるなら、仕事を受けなければいい。けれど、面倒な仕事は簡単そうな見た目をして、勝手に降ってくるものだ。

 今度はちゃんと行先を伝えて、気を付けます。小さく顎を引いて頷くと、じい様は額に左手を置いてきた。撫でるでもなく、ただ置かれた手は皮が厚くて硬かった。

「今回は事故とは言え、儂の方からゼロに文句を言っておいた」

 そう言ってじい様は右の拳をふる。言ったじゃなくて、剣で切り捨てたの間違いじゃないか?ヨツハさんが防御する間もなかったはず。想像の中で切られた所長に同情すると、額の上の左手に力がこもる。

「それで、お前さんは、犯罪者を捕まえると聞いた。どうしてそんな事になっている?」

 苛立ちの声も降ってきた。まだ怒っていた。顔をそらそうにも目だけしか動かせない。視線を逃がせば、「あきらめろ」とセロの顔が言っていた。

「魔素を絡める異能を扱う相手を、お前ひとりで対処するらしいではないか。なぜ言わない」

 所長に口止めをされたわけではないけれど、多くの人が口にするポーションの一大事を噂話のように軽々とは言えない。けれど、ひとりで対処できるとも思っていない。私に任せると、テトが言ったのか?というか、じい様に話が通っているのは何故?

 天井の模様に視線と思考もずらすと、じい様は呆れと共に息を吐いて、懐から茶封筒を掛け布団の上に置いた。

「セロ、しばらくレイの介助を頼む。これを読んでおけ」

「わかりました」

 頭を下げるセロを見て、じい様は立ち上がり縁側に出ると振り返った。

「儂はすこし北と中央に出て、薬の追加を取ってくる。レイを誰にも合わせるなよ」

 そして姿が消えた。ツヅザリスと際限無常にある薬草を取りに行ったのだろう。遠くの入道雲をみると、セロが胸元に置かれた茶封筒を開いた。

「……なんだ、これ」

 セロは顎を撫でて眉間を寄せる。見せてと眼で言えば、紙を裏返して見せてくれた。役職と短く略されたテトの署名の後に、印刷された文言が並んでいた。

 未承認薬の製造場所の特定。幻霧郷第三層、魔素濃度異常による廃棄地区に最も近い、灯光教会の孤児院。現在の孤児院の活動報告なし。教会内にある魔素ポーション製造機で量産している。実働の構成員は五名。魔素光色から未承認薬の製造にかかわる人物は、聖堂地下に隔離されている。

 魔素暴走手前の被害者の人数は不明。確認できている範囲で、十三名。爆発規模の拡大を目的として、半数が赤系統の魔素光色である。監禁場所は聖堂地下の倉庫。予想の爆発件数と規模から、被害者は他に二十名以上居ると推定。

 構成員の確保及び被害者の保護を行う際、魔素浄化を必須とする。依頼対象は特技資格三番の六級以上、もしくは魔素濃度指数七以上の中で五時間以上、魔素操作制御を持続して活動した実績が五回以上ある探索者のみを編成すること。条件を満たさない人員を採用した場合、作戦は失敗。人員の半数が死亡する。

 作戦の主要浄化要員として、探索者資格三級、特技資格三番の八級のレイ・グランドを指名。続いて浄化要員の護衛に、探索者協会東方支部、階層管理課部隊イエローロッド所属、セロ・フウジ・トミナガを指名。幻霧郷第三層の全壊を回避できないため、両名の参加は必須。

 作戦の指揮権限は、幻霧郷領主のゼロにあるものとする。現場統括指揮は、ジン・オギワラを指名。指揮官両名の判断で人員の追加を許可する。一方が難色を示した場合は採用を見送ること。ただし、捕縛保護作戦を行う際、幻霧郷領主の現場参加は厳禁。幻霧郷の環境悪化、全住居区画の八割に損壊が出る。

 淡々と並べられた恐ろしい予想に眉間が寄った。さっき、二日も寝込んでいたと聞いた。テトは数日でここまでの予測をしたのだろうか。

「これって本当にあり得る話なのか?」

 読み終わったのを見計らって、セロは紙を読み直し始めた。書いてある内容を信じていないらしい。私も信じたくないが、テトの言葉は濁す文言が少ない。わからないことも不明だと断言しているし、他の字面も確信に満ちている。良い未来のことについて言及されていないことが不安をあおって、じい様が同行してくれることだけが心のよりどころだ。

 そういえば所長が捕まえに行くと、西が喜ぶとテトは言っていた。あの時点で、ほとんどの予想がついていたのかもしれないが、対抗策が見つけられなくて被害が甚大になる前提で進んでいたのかもしれない。だから「確信した」といっていたのかも?

 首を傾けると、身体に跳ねるような痛みが走る。意識がはっきりするほど節々の痛みが推測の邪魔をして、考えるほどに頭に痛みが響いてくる。背中が痛いし、横向きになりたい。

 セロの方へ身体を持ち上げてみる。首から下が鉛のように浮かない。右腕を動かそうにも肩と敷布団の間に隙間は出来ず、気づいたセロが手伝ってくれた。上半身をねじろうとするだけで痛い。荒くなった息を整えているあいだに、セロは畳に足を投げ出し、頬杖をしてあくびをした。

「師匠は受けるつもりなのかな」

「指名は受けるぞ」

 セロがあわてて正座に戻った。横になった状態で人は跳べるのか。縁側から人の影が入ってきた。じい様だ。体の向きをじい様の方に変えようとすると、背中を押されて止められた。

「定期的に寝返りは打たせていたが、痛むか?」

 背中の方を見上げれば、美少年の顔がそばにあった。見上げるのも痛い。小さく何度も頷けば、「少し待て」とじい様は部屋を出る。人の気配がなくなると、セロは首筋をぬぐって、大きく息を吐いた。

「あっぶねぇ……」

 セロは手抜きが上手い。しかし、じい様は怠け方にも厳しいらしい。さっき横になった姿は、駄目な怠け方だったのか。膝に両手をついてセロがため息を吐くと、視界に青紫が現れた。

「セロ、味噌汁といなり寿司を作れ」

「ひぃ!」

 右肩に手を置かれたセロは悲鳴を上げた。じい様の目は冷ややかにセロを見下ろしていた。

「レイには味噌をこして具材がないものを御椀に半量、ソウジには具材を細かくして出してやれ。いなりは甘め、わさび菜と胡麻を入れたものを四つずつだ」

「わかりました!」

 やはり、じい様の目はごまかせなかったらしい。セロは強張った顔のまま出て行った。焦っているのに足音をさせないのだから、じい様の弟子はすごいな。開けっ放しのふすまをじい様は閉じて、私の胸のそばで胡坐になった。

「バンデルの坊主は、どうだった」

 頬杖をついたじい様には、先ほどまでの怒りがなくなっていた。安堵の後に、問いかけの意味が解らなくて目を見れば、じい様は穏やかに目を伏せた。

「あの子は、真面目すぎる。人を助けないと駄目だと。十分助けているのに、足りないらしい」

 じい様はテトを知っているのか。懐かしむ言葉は、さみしそうにも聞こえた。ふと息を吐くじい様は和やかに微笑む。

「元気そうだったか?」

 ババ抜きをして笑っていた。そう言おうとして、喉が引っ掛かった。軽く咳をするとじい様は笑った。

「無理をすれば人には会えんだろうから、大丈夫か」

 じい様の指は私の髪を整えるように頭を撫でる。甘んじて撫でられていると、満足したじい様は枕元に小瓶をおいて立った。小瓶の中には濃い青色の液体が揺れていた。嫌だなぁ、この薬液は酸っぱくて苦かったはず。

「今度の捕縛作戦は、お前とセロだけで行け」

「は、げほ、ごほ……」

 突然の無茶ぶりに咳き込む。じい様の表情を探すと、黒の目が近づいてきて私の目を捕らえた。

「儂は現場に行かない。いいな?」

 そう言ってじい様が部屋を出て行くのを、咳をして見送るしかなかった。予言を無視しても平気なのか?じい様が入れない理由を見つけても、予言を無視するほどではないはずだけど。

 そんなことより、身体が痛い。咳と痛みで身体を縮こめると、思考する余裕も吹き飛んでいた。

 まずは身体を治そう。枕に顔を埋めた。


 外を出歩けるようになったのは、建国記念日から七日後だった。研究所の休暇も終わり、世の中からお祭り気分は消えて、道草も項垂れる蒸し暑さだけが残った。自宅に帰ってきたら、玄関先に薄紅の単衣を着たヤエコさんが居た。研究所では髪を詰めているが、着物に合わせた翡翠の簪が目を惹く。

「レイ、大丈夫だった?魔素回路、壊していない?」

「お久しぶりです、ヤエコさん。少し体が痛みますが、大丈夫です」

 駆け寄ってきたヤエコさんの両手には、研究所の名が入った紙袋があった。そろりと覗き見れば、白い紙の束がビッシリと詰められている。

「これは?」

 気になって指をさすと、ヤエコさんは紙袋をその場に落として両手を握ってきた。

「よく聞いて」

「は、はい」

 顔が近い。詰め寄ってくる顔から逃げつつ返事をすると、ヤエコさんは嬉しそうに言った。

「この前のあなたの提案を受けて、分解した状態の魔素を作って検証してみたの。そしたら、素晴らしいことが解ったわ!」

 休暇の最中も研究していたのか。感心していたら、ヤエコさんは両手を握ったまま小さく上下に振る。

「分解した状態だと、まったく意味がないのよ。くっつくけど、分解の速度がものすごく遅い。従来の約五百倍ね」

「そうですか……簡単にはいきませんか」

 材料を混ぜれば同じになる、という仮説は通用しなかったらしい。可能性を確かめられただけでも収穫だが、残念である。かすかに眉を下げると、ヤエコさんは目をギラつかせて微笑み、私の眉尻を人差し指で押し上げた。

「凄いのはここから。あなたの魔素が壊れる順番が解ったの。そして、それらを繋ぎとめる鍵の形を見つけたわ!」

「えぇ?!」

「一番に崩れる場所を突き止めて、そこさえ分解しないように固定すれば、観測時間が十五分になるかもしれないの。凄いでしょう?!」

「す、すごい、大発見ですよ!固定の方法はどんな風に?」

 ふたりして歓喜の声をあげて、玄関前で手を繋いだままくるくると回った。すごい、快挙だ!両腕を振ってヤエコさんの手順を聞いていたら、「ごめんください」と声が聞こえた。はたと止まると、風呂敷を右手に下げたセロが居た。風呂敷は薄い紙の様で、円盤状の物が包まれている。

「いいことがあったにしても、家の中でやれよ……?」

 嬉しすぎて踊っていたところを友達に見られた。顔が熱くなって、すぐにヤエコさんの両手を離した。ヤエコさんの頬も赤くなっていた。

 ふたりを客間に上げて、お茶を出した。座布団の上で揃って正座するふたりは着物を着こなし、平屋の畳の部屋も相まって、東方らしい光景だ。戸棚に残してあった金平糖を机のそれぞれの前に置けば、ヤエコさんが口火を切った。

「それで、いつ研究室に戻るのかしら?早く来てほしいのだけど」

 言い終えた後にヤエコさんは、金平糖を手のひらに移し替えて、口に放り込んだ。ぼりぼりと音をさせて、茶碗を傾けた。豪快と言うか、せっかちと言うか。ヤエコさんの隣からも、がりがりと金平糖が砕ける音がする。音が鳴りやむのを待てば、セロは茶碗に口をつけず言った。

「俺はあの件を話そうと思って、昼を持ってきた」

 あの件、と言った途端、ヤエコさんの目が鋭くなってセロを射止めた。

「もしかして、あなたがフウジの後継なのかしら?」

「挨拶が遅れました、セロ・フウジ・トミナガと申します。以後お見知りおきを」

 セロは畳に両の拳を付いて、頭を下げる。ヤエコさんは左側の眉をあげて、ため息を吐いた。

「裁定者からの協力要請ね。話は聞いているけれど、こんなにも強そうな男がフウジだなんて……ちょっとがっかりだわ」

 強そうなのにがっかり、と言われたセロは、頭をあげて恥ずかしそうに頭をかいた。

「やはり幻霧の方は手厳しい。御眼汚しをいたしました」

「ちゃんと経験を積んで、弱くて強くなりなさい」

「精進いたします」

 深々と頭を下げたセロに、ヤエコさんは宙を手ではらった。弱くて強いは、ふたりには矛盾しないのか。首をかしげて金平糖を一粒、歯で砕けば「それでいつなの?」とヤエコさんが机を右の指で叩く。

「魔素が無いの。補充してくれないと、調べられないわ。せめて三時間、出来れば八時間、採取させて!」

 休暇前に保管庫に入れたのに、使いきってしまったのか。研究熱心なのは嬉しいが、また研究室で缶詰めである。腕を組んで今後の予定を組み立てると、セロがお茶をすすって言った。

「こっちは決行日が未定でも、装備の準備は早々に申請したい……今日は」

「今日は駄目よ……!魔素、詰めてからにして」

 ヤエコさんはテーブルを叩いて譲らない。すぐにでも補充しないと、検証実験が完全停止した途端に癇癪を起して、研究所の皆に迷惑をかけるな。

「セロ、ごめんね。折角ご飯を持ってきてくれたのに……」

 昼食は一緒に食べられそうにないと謝ると、セロは頬をかいた。

「折角の寿司だったのだが、まあ」

「お寿司なの……?」

 ヤエコさんの顔がセロに素早く向く。表情は抜け落ち、身体の芯を突く恐ろしさがあった。

「何処の、誰のお寿司?あんたが作ったやつ?」

 じりじりと押し倒さんとばかりに迫るので、セロは困惑を露わに答えた。

「いや、ハマナで」

「レイ、お昼まで待ってあげるわ。しっかり食べてきなさい。でも、明日も採取させてもらうからね!」

 言い終わるよりも先にヤエコさんは立ち上がり、「じゃあね」と紙袋をおいて帰っていった。虚無が漂う部屋で、セロがそっとと呟く。

「……どういうこと」

「たぶん、ハマナの卵寿司が好きだって言ったのを、覚えてくれていたのだと思う」

 美味しいものは美味しいときに、ほんの少し食べるべし。それを邪魔してはいけない。所長の教えのひとつである。意訳すると、人の楽しみを邪魔するな、ということだ。所長大好き側近第一位を自称するヤエコさんは、その教えを守っているのだろう。

「ひとまず、お昼まで時間が空いたし、付け合わせに漬物でも切ろうか」

 許しが出たなら有難く、お昼を楽しむことにする。戸惑うセロを手招きして、台所に立った。

 簡単な調理の後に、作戦の今後について話し合う。美味しいものばかりが入っていくのに、不穏な言葉ばかりが口から出てきて、お寿司の味が淡く思えた。

 この依頼が終わったら、美味しいお酒とおかずを買う。そう心に決めた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ