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審問会召喚:黒白の間


「酷い風だ」

 大雪警報が発令されたという音声を聞きながら、昇降機の窓に手を触れた。遠ざかっていく街並みは雪に埋もれて、吹雪で輪郭を失っていた。温かい昇降機の窓は二重なのか、熱で出来るはずの手形が出来なかった。その様子を眺めていると、反対の手が握られた。

「下で新しい甘味屋が出来たと聞いた。後で行かないか?」

「閉店する前に、間に合えば……良いですが……」

 握られた手の先を見れば、道行を着込み、リュックサックと私の肩掛け鞄を下げたじい様がこちらを見上げていた。手を離して窓に背を向けると十人は乗れる昇降機の出入口の上に、どの階あたりにいるのかを表示する照明があった。中腹なので最上階までは暫く掛かる。

 不意に昇降機が止まり、右へと動き始めた。身体が揺れて足を一歩出せば、コートの袖を掴まれた。

「儂が居るのだから、少し甘えろ」

「ご、ごめんなさい」

「そこは、有難うだろう、馬鹿者」

 じい様は腕を組んでため息をついた。申し訳なくて肩を丸めると、「しゃんとしろ」と腰を手で叩かれた。姿勢を正して深呼吸をしてみたが、どうにも視線だけは昇降機の床の上を彷徨っていた。

 黒白の間に呼び出されたのは、人生で二回目である。過去の、十歳のときに召喚された時を思い出すと前後不覚になる。身体が動かなくなるし、息苦しさが頭からつま先まで駆け抜けて、「あぁ、私は嫌なのか」と他人事のように意識が離れる。母親に殴られて苦しかったことよりも、たった一回の召喚命令で起こった事のほうが恐ろしい。

 息苦しさを覚えて喉に手を当てれば、隣から微かな布すれの音がした。音を探すと、昇降機の到着先を決めるボタンがずらりと並ぶ出入口そばにじい様が手を伸ばしていた。最上階の手前の階に停止すると照明がついて、じい様は私の傍に戻ってきた。

「少し寄り道をしよう」

 そう言って、私の両手を握った。手袋越しでもわかるほど、じい様の手は温かかった。昇降機が動きを止めて、扉が開く。じい様に引っ張られて昇降機から一歩出た途端、その場に膝と両手をついた。そして、何度もえづいた。

 涙が眼鏡のレンズに水たまりを作る。もう、一日で何度吐き戻したか、数えるのもやめてしまった。喉も口も乾いて、何も出てこないとお腹は文句を痛みで教えてくれていた。

「ごめんなさい……」

「大丈夫だ。ここにはあまり人が来ない」

 情けないと思う。おじさんと呼ばれるような年齢も間近なのに。背中をさすってくれるじい様に謝ると、とんとん、と背を優しく叩かれた。

「レイ、十分頑張っている。時間はあるから、少し休もう」

「……ごめんなさい」

「謝るなら、ちゃんと、苦しいと言いなさい」

 頭を抱えるように抱きしめられて、涙があふれて言葉が言葉にならなくなっていく。

「うぅ……」

 自治を認められた異界門の長と王族の会合に、生きる空気清浄機として呼び出された。部屋の真ん中で内側から外が見える箱に口を塞いで入れられ、大人の会話延々と聞かされた。その場には、所長もいた。

 乾杯の音頭が聞こえて暫くしたら。箱の側で談笑していた灰色のスーツをきた人が、破裂した。

 腹が弾け、追うように胸も弾け飛んだ。血の雨が降って、箱の上に人の頭が。また隣から叫び声と血の雨が降り、内臓が箱の側にこぼれ落ちた。苦しむ声と叫び声の真ん中で、私は。

 そこから先はあまり覚えていない。気がついたら所長に抱き締められていて、「忘れていい」「大丈夫」「僕たちは死なないから」と何度も言い聞かされた。必死に息だけをして、震えていた気がする。

 狭い場所に入れるようになったし、拘束箱も平気になった。だとしても、よぎらない訳ではない。ましてや、あの場所に行くのは心も身体も無茶だと知っている。

 断れない立場だと分かっていることがもどかしい。床に涙が落ちていく。

「ベンチがある。出汁を飲むぞ」

 移動しようと、背中をさすって、立ち上がらせてくれた。昇降機前の壁際に背もたれの無いガラスの塊のようなベンチがあった。よろけながらベンチに腰掛けると、手をついてそのまま項垂れてしまう。鞄を漁る音を聞いていると、水が注がれる音と一緒に出汁の香りが漂ってきた。

「飲みなさい」

 差し出された金属の水筒のコップに、なみなみと温かい液体が注がれていた。震える指でこぼさないようにと膝の上に置くと、温かさが涙で濡れた脚に広がっていった。何度か息をして、コップを持ち上げて唇に触れさせると、温かい出汁が口の中を湿らせた。もうすこし口を潤す為にと、何度も出汁を口に運ぶが、まったくと言っていいほど味が解らなかった。

 隣から同じように出汁をすする音が聞こえて、「大丈夫だ」とじい様は呟いた。

「何があろうとも、今日という日だけは、儂はお前の袂にある剣だ」

 また背中をさすって、じい様は確かめるようにゆっくりと言い切った。じい様の方に顔を僅かに上げれば、待ち構えていたかのように穏やかな目がこちらを見ていた。

「代わりに、儂でもどうにも出来ぬ、邪なものを払っておくれ」

 頭を撫でられて、収まりかけた涙があふれてきた。何とか頷けば、「まずは、これを飲み干せ」とにこやかな声がした。

 何とかコップに残った出汁を飲み切るとコップを取り上げられて、また出汁を注いで渡された。二杯目も飲むのかとじい様を見れば、口角を下げて言った。

「吐きすぎて、顔がこけているのだぞ。顔色も悪いし、体温上げるためにも塩分をとれ」

「はぃ……」

 言われるままに二杯目を飲むと、じい様は脚を組んで頬杖を付いた。

「どうせ、シンジャールの嫌がらせだ。弱ったレイを糾弾するか、来ないなら来ないでレイを貶める算段であろう。あいつは東を、未発達の文化圏だと舐め腐ったやつだからな」

「……じい様は、お知合いなのですか?」

 見知った風に言うので訊ねてみれば、じい様は眉をあげて肩をすくめた。

「シンジャールとは異界門探索の先遣調査大隊で戦列を組んだ。半年は寝食を共にしたぞ」

 生死をかける場で協力した仲なのに、酷い言い様である。「どうして」と訊けば、じい様は口角を僅かに上げて言った。

「あいつは灯光の証の扱いが上手い。人を動かす事を得意としているが、灯光の証を用いた場の制圧力は抜きんでていた。にもかかわらず、その制圧力を支配という形で味方にも使うものだから……儂の魔術とすこぶる相性が悪い」

 じい様と私の魔術は、すこしだけ似ていると言っていた。灯光の証と私の魔術との相性の悪さを考えれば連携を取りにくいかもしれない。けれど、その程度で不和を生むとは思えない。小さく首を傾げれば、じい様は穏やかに目を細めた。

「互いに良い印象を持たないなりに、強みを優先して戦おうとした。だが、奴は儂に合わせられることを嫌った。別の小隊に移動させられたな」

「それはまた……」

 強権をふるうタイプの人らしい。学校の教室にある不文律の階級で、上位に居ないと気が済まない人みたいだ。そう言う人は苦手だと眉を一層下げれば、じい様も長く息を吐いた。

「その時は、編成に難があった。奴の小隊は半数が死んだ。儂の小隊が何とか全員生きて帰ったら、成果も出さずに生き返るなどと言って儂を孤立させてきた。まあ……可哀想な奴だ」

 強くなっても許せないものがあると、次第に自分以外を認められなくなってくるらしい。きっと可哀想と言われる事すらも怒りを覚えてしまうのだろう。そんな面倒な人と関わらないといけないのか。ため息をそっと吐けば肩を叩かれた。

「安心しなさい。お前さんの魔術は奴の天敵。そのコートのフードを外しているだけで、奴の魔術は周りに影響を及ぼせぬ」

「そうなのですか?」

「お前の弟の嫁ほど、見目も言葉も良くないのでな」

 じい様は不敵に笑っていった。ソフィアの魔術と似た部類のものなのか。どんな魔術構築なのかと考えが向かっていたところに、「そうだ」とじい様がリュックサックを開けた。

「お前さんの武器をソウジから託された」

「武器?」

 これから行く黒白の間は武装できない。リュックの中を漁る腕を見ていたら、中から灰色の透明な霧吹きが出てきた。手のひらに収まる大きさで、中には透明な液体が揺れていた。じい様は霧吹きを私の膝の上に置くとにんまりと笑った。

「灯光の証が他の者を襲ったとき、消えろと思いながらこれを使いなさい。あと、万年草とハッカ油を混ぜてあるから、目つぶしにもなるぞ」

 じい様が霧吹きの引き金を引くと、霧が現れ消えた。鼻を通る涼やかな強い香りがして、涙が落ち着いた。そして、ふと思った。

 義父よ、精油を人の顔に向ける前提で混ぜないでください。危険ですよ。せめて塩にしてほしかった。そんな事が考えられることに、肩の力が抜けていく。長く息を吐けば、じい様はベンチから立ち上がってリュックサックを背負った。

「審問の間は鞄を渡すから、怖い時は握っておきなさい。最上階に行くよ」

「はい」

 何とか笑顔を作って返事をすれば、「偉いぞ、よくできた」と頭を撫でられた。震える手に霧吹きを握らせて、昇降機に乗り込んだ。


 探索者協会には、各支部に中立地帯が設置されている。黒白の間は、探索者協会が保有する最大の中立地帯である。

 階層内の自治権を認めている場合、天蓋島の王国とは異なる法令を布いていることも少なくない。さながら異国であり、主義主張も違うため、幻霧郷の様に対立をする事がある。探索者協会は異界門の傍に設置されることが常であり、会談の場として利用しやすい。外交の場として、武装厳禁、魔法の使用禁止の特殊空間が作り上げられた。

 というのは建前で、謀略渦巻く地獄ではないかと思っている。

「うう……く……」

 昇降機を下りて、じい様に手を握ってもらいながら黒白の間の前に辿り着いた。扉の左右には帽子と制服を着こなし、かかとを揃えて立っている警備員さんが「閉めましょうか」とこちらを心配そうに伺っているが、それどころではなかった。

「なん、で……」

 開け放たれた扉の敷居を跨げずに、口元をハンカチで押さえて必死に倒れまいと踏ん張っていた。じい様は敷居の先、黒白の間に入って、空いている手を握ってくれている。なのに、手は冷えていく一方で、冷や汗ばかりが額に滲んでいく。

「どうした」

 とっさに出た言葉にじい様が顔を覗き込んでくる。私は目をきつく閉じて、ハンカチの中に叫びを透かした。

「ゆ、かが、床が……血まみれです」

 涙が零れ落ちて、コートの袖が濡れた気がした。まぶたをほんの少し開いてみれば、じい様の草履の下に黒い血痕らしきものが黒と白のタイルの上にまだら模様を作っていた。顔を逸らして呻き声を口の中に押し込めば、足音が近寄ってきた。

「大丈夫ですか?」

 足音の主は、そう言って肩をさすってくれた。声の方向を見れば、真っ黒の眼帯をした黒髪の人が居た。

「て、とさん……」

「バンデルの坊主か、息災そうだな」

「はい、お久しぶりです。少し失礼しますね」

 知っている声に、涙が増えていった。その場に縫い留められた脚を引き剥がすように、テトは私のことを抱き上げた。突然の浮遊感に情けない声を出して身構えると、扉から廊下を数歩進んだところに下ろしてくれた。じい様もついてきたようで、背後から扉が閉まる音がした。

「レイ、血まみれというのはどういうことだ?」

 そのままの意味である。中をしっかりと見て確かめた訳ではないが、血のりが乾いて床一面を覆っていると言えば、手を握り直してくれたじい様と肩に手を置き続けてくれているテトが悩ましげな声をあげた。

「……浄化魔法は使用していますが」

「洗浄はしていないのかもしれん」

 じい様は手を離して背後に居るはずの警備員さんに声をかけた。

「掃除道具を貸し出してくれるかね。バケツとモップで宜しい」

「清掃は委託業者が行っていますが」

「うちの子は、ここに良い思い出がない。審問会まで三時間もある。その不安を拭う為の掃除を……させてほしいのだ」

 丹念に言葉を重なれば、「扉は解放したまま、室内で魔法利用をしない」と条件付きで話を通してもらった。警備員さんが通信機で掃除道具をのせたワゴンがやってくると、じい様は四角のバケツに魔法具で水を注ぐ。ざざざ、とバケツの中腹まで水が満たされた。

「お前さんのまじないが必要だ。きっと隠蔽されている」

「きれいになれで……良いですかね」

 水に魔術を使えという事だろう。手袋を外し、しゃがんでバケツの縁に手を置く。汚れた床から、ピカピカの、床に張ったばかりのタイルの模様を思い描いて「きれいになれ」と念じた。顔をあげると、じい様はバケツとモップを持って背後の扉の方へと向かった。そっと振り返れば、黒白の間は扉の陰になって中が見えない。

 じい様はこちらからも見えるようにバケツを置いて、モップの白いタオル地を濡らし、扉の先にモップの頭が向いて、べちゃり、と水の音がした瞬間。

「なんだ……これは!!」

 怒号が通路を駆け抜けた。傍に居るテトに肩を寄せて縮こまれば、警備員さんたちの動揺の声も聞こえてきた。「どうしましたか」とテトが訊けば、モップの頭が出てきた。白かったモップの布が、黒く汚れていた。眉を吊り上げたじい様は低い声で言った。

「……魔術や呪術の痕跡も隠蔽されておる。お前たち!」

 その場に居た全員が姿勢を正した。腕を身体の横にぴったりと付ければ、じい様はモップで床をついて言った。

「即刻、掃除を行う。人が作り上げた不浄の地など、誰にも踏ませてはならぬぞ!」

 身体を突き抜ける声に恐怖が吹き飛び、返事と共に掃除道具を手に取っていた。緊急清掃が始まった。

 じい様がこびりつく血のりを剥がし取り、テトと警備員さんに水の取り換えを手伝ってもらった。床を綺麗にした後も、掃除は終わらなかった。

 改めて黒白の間を見れば、灰色の壁に会合用の円卓と椅子、釣り下がったガラスのシャンデリア、窓のガラス、カーテンに至るまで血痕のような跡がある。カーテンを取ってもらい、念じた水に浸せば、一瞬で透明な水が濁った。「もう嫌だ」と半泣きで言えば、テトが背中をさすってくれた。警備員さんたちも、流石におかしいと協会の方へ報告をあげると言ってくれた。

 汚くなった水と取り替えてもらっているときに、ふとテトが呟いた。

「……錆赤の間に改名しましょうかね」

 あまりにも縁起が悪いので、首を素早くふって「やめてください」と口が動いた。


 じい様のおかげで、掃除は一時間で済んだ。シャンデリアの汚れとカーテンの乾燥に時間がかかったが、壁や天井にもあった黒いまだら模様は消えて、窓を開けて換気した空気も暖かくなっていた。

 綺麗になった。安堵と共に、元の様に壁際に並べ直した椅子に座ると、体中の力が抜けていく。空気が抜けきったお腹に吸い込めば、掃除したての湿った空気が鼻についた。そっと義父から貰った霧吹きのボタンを、きれいになれと念じて押せば、心地よい香りが辺りに広がった。

「魔術を扱えるようになったのですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 テトが隣の席に座ってきた。お辞儀を返して黒白の間を見渡せば、きらめくシャンデリアの下に十人以上は囲める円卓があり、中央には円形のお立ち台と小さな机と箱が置かれている。その中には筆記具が入っていたようで、じい様は眉間にしわを寄せたまま布で拭きあげている。

 筆記具にすら血痕があったのだろうか。気分が悪いと鼻から息を吐けば、テトが口を開いた。

「ご安心ください。本日の審問会は恙なく進み、明日の昼前にジンさんは新店舗のお菓子屋さんでお汁粉を食べていますよ」

「……行動予測ですか?」

 じい様の予言だろうか。テトの方を見れば首を振って否定した。その黒い眼帯の奥でこちらを見ている気がした。

「先輩方からの予知夢と予告届をいただきました。確度がとても高いので、残る不安要素を排除するための発言です」

 良いことを呼び寄せる為に、良いことを想像して行動を促しているのか。この行動に何の意味があるかは測れないけれど、とても大事なことをしてもらった気がした。不意に「ありがとうございます」と言っていた。すると、テトは薄く口を開けた後に、弧を描いた。

「やはり範囲外にある方は、不思議な感覚がします」

「あ……変でしたよね。すみません」

 自分でも何を言っているのだろうと頬をかけば、テトは微笑んだまま円卓の方を見た。

「いえ、先輩方が私に行けと言った理由がわかった気がします」

 その横顔は遠いところにいるようだった。何処か寂しさを覚えて、話題をふった。

「そう言えば、テトさんも審問会に参加するのですか?」

 返してもらった肩掛け鞄の中から、灯光教会から届いた封筒を出す。参加者の欄を確認すると、裁判官や裁定者らしき人物の名はない。紙面から視線をあげれば、テトはそっと言った。

「参加予定はなかったのですが、昨日の裁定者間の会議で急遽、参加する事になりました」

「裁定者の皆さんの決定、ですか?」

「私もおおよそは把握していますが、すこし面倒な事になるでしょう」

 裁定者の面々は、特殊事例にのみ現れる裁判官だ。犯罪防止や冤罪調査などもこなす一癖あると噂の彼らのなかには、予言者が多いと言われている。未来を見通せるとされている面々が会議をして、面倒な事になると宣言するのは、国家の一大事ではないのだろうか。

 もしや、王弟殿下が見た幻霧郷の宣戦布告だろうか。怖い発言に眼鏡に隠れて眉を下げれば、くすりとテトは笑った。

「一大事になりかけていたのですが、見過ごせない程度の事になりましたので、ご安心を」

「どういうことですか……」

 なにも安心できる材料が増えていない。文句を言ってもテトは微笑むだけで話そうとしてくれない。言えない事なのかと肩を落とせば、開いたままの扉の方から複数の足音と声が聞こえてきた。見知った声の中に知らない声も混じっていて、扉の方を見れば赤茶の髪が現れた。

「兄さん、なんで来たのさ」

 こちらに気付いた弟は、傍に駆け寄って膝をついて手を握ってきた。隣の人に挨拶するのが先だよ、とテトを見れば「気にしませんよ」と微かな声で言った。

「こんな場所にいる必要なんてない。苦しかったら、部屋を出てね」

「大丈夫だよ」

 微笑んで言えば、弟の顔が悲しげに歪む。無理をしていると思われたのだろう。大丈夫だと示すために、先ほどまでのことを話してみた。

「床が汚れていたから、さっきまでここの掃除をしていたよ。少しスッキリしたから、何もなければ大丈夫」

「だけど……」

「あと、義父さんからの心強い武器がある」

 手に握っていた霧吹きを取り出すと、まばたきを何度かして弟は霧吹きを指さした。

「ポーション?」

「精油が入った水だよ」

「ポーションじゃないの?」

 違うと言えば、テトが私の肩を指でつついた。

「精油の魔素含有量は多いので、魔素光が薄く見えるのだと思います」

「なるほど」

 納得して手を打つと、入口の方から、がしゃん、とガラスが割れる音がした。肩を揺らして入口を見れば、青と赤と白のローブを着た三人組が立っていた。その奥にソフィアや王女の姿を見つけたが、一様に音の出所を見ていた。

 三人組の真ん中に立っている、青のローブを着た腰の曲がった人の足元に、金細工を施したガラスの器が砕けていた。青のローブの人は銀のお盆を持っていて、乗っているはずのものがすべて床に落ちているようだった。

 空間に嫌な沈黙が広がった気がした。立ち上がって声をかけた。

「大丈夫ですか、お怪我は」

 声に、傍に居た白いローブが青いローブを気にかけた。赤いローブはお盆を奪い取るようにして、散らばった破片をお盆に拾い集めていく。駆け寄って破片を拾うのを手伝った。ひとり分のティーセットだろうか、床には乾いた茶葉も散らばっていた。

 欠けた器の高台の部分を手に取ると、高台の内側に細かい切れ込みがあった。これは。

 じっと見れば、赤いローブが口を開いた。

「それは、解毒の刻印だろ。魔法具を持ち込むと、勝手に壊れるからな、ここ」

「いえ、毒の激化の刻印です」

 すかさず言い返して、口をあいている手で覆った。赤いローブの下に見えた焦げ茶の眼が丸くなっていて、「は?」と擦れた声が耳に届いた。

 そして赤のローブは、そっと見上げて言った。

「爺、……あんた、人を、殺すつもりだったのか?」

 視線の先には青のローブを目深にかぶった、しわまみれの老人が私を見ていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話は制作中です。2026.10.23

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