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閉塞の地探索:帰郷


 崩落によって怪我した軍人さんに良い治療を受けてもらうため、王女の部隊は先んじて天蓋島に向かう事になった。危険生物や障害物を打ち落とし、キャタピラで踏みつぶしていけば、すぐに天蓋島に辿り着いた。

「こっちは雪か」

 トンネルに入る前まで曇っていたのに、細かな雪が軽やかに風に舞っていた。残してきた拠点のテントには雪が積もっていて、キャタピラや人の足跡が消えていた。装甲車から降りて、水色の旗を掲げたテントに入ると、ソフィアが声を張った。

「王都への応援要請は、わたくしが行う。シリス様、お義兄様以外の皆は、除雪と負傷者の受け入れ準備、水と熱源の確保を行え」

 敬礼と共に指示された行動に移る面々を見送って、どこからか現れた箱型の通信機を弄るソフィアに訊ねた。

「私は何をすればよろしいのでしょうか」

「おふたりは、食事の用意と報告書を作成してくださいまし」

「すこし、よろしいでしょうか?」

 了承しようとしたところに、シリスが小さく手をあげて入ってきた。頷けば、シリスはランタンを手に言いにくそうに口を開いた。

「その……このランタンについて、レイさんにお伺いしたいことがありますので、お時間を頂けますか」

「構いませんわ。終わり次第、始めていただければ結構ですので」

「わかりました」

 テントの端に寄って、折り畳みの椅子を開いて座る。ランタンを足元において座ってもなお顔色が悪いシリスは、身をかがめて小声で言った。

「……なんていうものを、持ち出したのですか!!」

 シリスは激しく両の拳を振って、眉を寄せた。肩を丸めてちらりとソフィアを見たかと思えば、止めていたらしい息を吐きだした。

「このランタンは原初の日篭というもので、灯光の証を回収し長期保管、消灯まで行える古の魔法具!天蓋島に保管されている遺物の中で、利用可能なものはありません……」

 王弟殿下から聞いたと気付かれないように曖昧な反応を返せば、シリスは目を伏せて苦悶の声をあげた。

「そして、文献の情報が正しければ、灯光の証を呼び出すことも可能なのです!」

「えぇぇ?!」

 驚いて声をあげると、扇子が開く音がした。音の方を見れば、微笑んだソフィアの眼が「五月蠅い」と言っていた。シリスと一緒に頭を下げると、膝がぶつかりそうなほどに椅子を動かし近付いて、出来るだけ小さな声で聞き返した。

「それって……灯光、保管、消灯のすべてが行えるという事ですか?」

「灯光と言いますより、はじまりの塔にあるという原初の光炉からの分与、が正しいのですが……三賢者の役割を全て行える、宝具でございます」

 ハンカチを出したシリスは、額をぬぐいながら震える声で言った。足元の白い炎とシリスの表情を交互に見て、嫌な予感を口にした。

「もしや、この原初の日篭とやらは、賢者のお仕事を奪うものですか……?」

 三人の役割を道具ひとつでこなせるなら、賢者の秘法が必要ないと言われたと思うかもしれない。仕事を奪う道具を持ち込んだことに起こられるかと思いきや、シリスは「とんでもない!」と両手を開いて否定した。

「我ら賢者は、この宝具を作る事を目標としていたのです。特に灯光と消灯の秘法は、命を削る。安全に行えるようになる事は喜ばしい事です」

 胸にハンカチを持った手を当ててシリスは微笑んだ。しかし、していた、と言ったところが引っ掛かる。「ではどうして」と訊ねれば、眉を下げて言った。

「この宝具は、消灯が可能です。しかし、灯光の証を光炉へ戻すのではなく、本当に消し去ってしまうのです」

「……良い事ではないのですか?」

 自称神様の話を聞いた後だと、灯光の証は人の身には余る権能だ。重力を返却しているなら良いのでは。シリスは首を振った。

「何度も点けては消す、それを繰り返せば、灯光の証は大地から消え去ってしまいます」

 消え入るような声に、はっとした。灯光の証は信仰対象だ。信仰の対象が失われることは、宗教の影響力が弱まるどころか、存続の危機である。シリスは目を伏せ、嘆きを一緒に口からこぼした。

「灯光の証を消し去る役目を担う者のことを、盲目の賢者と呼びます。けれど、人々を癒す火を失う事は恐ろしい。よりどころが失われる恐怖から、グランド家の盲目の賢者以降の、現代の盲目の賢者は灯光の証を回収し巨大な火鉢に移動させる……名ばかりの者たちなのです」

 魔素という脅威を掃う光が失われることは、恐怖そのものか。良くない想像だけが曖昧に出来てしまうからこそ、怖いのかもしれない。

 幻霧郷の生活をしてみればいいのに。そう内心で呟けば、シリスは眉を下げたまま微笑んだ。

「東方や南方の方々には、笑われてしまいますね」

 心を読まれたのかを両の手のひらを振って、「あ、いや」とごまかすと、シリスは首を振った。

「灯光の証に頼り切っている西方がおかしいのです」

 はっきりと言い切ったシリスは、「それよりも問題があります」と真顔で続けた。

「この宝具の再現は、聖具の賢者の悲願でございます。ですが、当代の灯光の賢者は、象徴の消失を危惧し否定的です」

「目標だった、と言ったのは、そう言う事ですか」

 三賢者の目標だったものが、共有できなくなったという事。シリスは頷いた。

「当代灯光の賢者が、灯光の証を不変の象徴とうたっているからでございます」

「なるほど……」

 灯光の証は何百年もの間、西方地区の人々と共にあった。先祖代々続いてきたものは、もはや不変と思いたいのかもしれない。変わらないものを信じたい、と願う気持ちもわからなくもなかった。顎に手を当てて考えてみて、「うん」と頷いてから言った。

「当代の灯光の賢者さまに、眼鏡をお渡ししたいですね。変わらないなら、移動も保管の必要性もないというのに」

 元は空にある太陽の力を借りている。その力が不変であるとするなら、魔法技術で人工太陽など作れないし、力を引っ張ってくる事も出来ない。権能という抽象的なものであれば不変かもしれないが、現象として変化はあって当然だろう。盛大な皮肉を言えば、シリスは苦笑した。

「……これを持ち込めば、異端の宝具として破壊を求めるでしょう。内部分裂は不可避ですし、象徴の消失という灯光教が隠してきた事実を軍の報告書に書かれることを阻止したいはず。ですので、レイさんに提案がございます」

「原初の日篭についての情報を、意図的に書かなければよろしいのですか?」

 先回りして言えば、シリスは目を伏せ両手を胸の前で重ね、頭をそっと下げた。

「探究者でありながら、我ら信徒を気遣ってくださり……誠に、感謝申し上げます」

 信者で無ければ、敬意を払ってもらえないとでも思われているのだろうか。東方と西方の確執を思えば当然とでも言いたげだ。頭を下げたままのシリスに首をかしげながらも、条件だけは伝えておくことにした。

「ただ、このランタンを手にした事実は、報告書に書きます。ランタンについての知識はありませんので、シリス様に伺うようにと追記いたします」

「十分でございます」

 頭をあげたシリスは花がほころぶような笑顔だった。その後、書き残す文章を確かめてもらい、シリスも灯光教側の人として公式文書を残す事になった。


「たいぷらいたー、というものがないと書けないのですね」

 鍋や調味料が出ている作業台で、人参を角切りにしながらいえば、エプロンを付けたシリスが苦笑いのまま人参を寸胴鍋の中に入れていく。焚火の香りが漂う中で、何も言えないと言いたげだ。私も苦笑いを作って肩をすくめた。

「すっかり忘れていました」

 公式文書を書こうとしたら、専用の紙はなく、文字を打ち込む道具は魔素光表示型のみだった。書けないと発覚したとき、ソフィアが額に手を当てていて、とても申し訳なかった。仕方なくひとりでタープの下、皆の昼食準備を先に進めていた。

 鍋の中には、人参とジャガイモと、玉ねぎに干しキノコ、袋に入れた煮干しが入っている。鍋を耐火煉瓦で組んだかまどにのせた。そばの焚火から火を借り、三連かまどの一番左に火を点けた。シリスは寸胴鍋に水を注ぎながら足元を見た。

「こちらのかまどの鍋は……火が消えていますけれど」

「これは麦ご飯を炊いて、蒸らしています。蓋は空けないでくださいね」

 中央には蓋をした大き目の羽釜がある。さっき火を消したところだ。見慣れない道具をシリスはまじまじと見ていた。

 調理道具と食材が充実しているのは、ソフィアが持ち込んだ私物のおかげだ。「東方のご飯を作って下さいまし」と頼んできたので、食べなれた料理を作っている。

 きっと沢山食べるので、ご飯は二升炊いた。解凍されていたひき肉、ごぼうとネギを一緒に煮たそぼろを中に入れて、おにぎりにする予定だ。十人いても食べきれるか不安な量だが、余れば夕食までの間食にも食べてもらおう。火が強くなってきたのを確認して、薪を追加した。

「手際が宜しいのですね」

「義父の家で教わったのです。基本的な事だけですけどね」

 じい様も住んでいる実家では、毎日が料理教室だった。休日には季節の食材を取りに出かけ、美味しい食材を食べやすくするためだけの簡単な調理を教わったものだ。一緒にセロも料理をしていたけれど、何故か私が作ったものばかり食べていた気がする。

 同じ事しかしていなかったのに、何故だろう。懐かしい記憶を思い返せば、シリスが言った。

「そう言えば、ここまで作ってしまいましたが……毒の有無は確認しましたか?」

「……失念しておりました。していません」

 味見もとい毒見を忘れていた。私だけという訳にもいかないが、他に毒見しても問題ない立場の人は設営に出ている。シリスはエプロンを外して言った。

「ブライアンさんとチェルシーさんを呼んでまいります」

 お願いしてシリスを見送り、腕を組む。すっかり普段の自炊の気分で作ってしまった。何より、味覚障害の私が作ったとなれば、味が決まるはずもない。「美味しくなれよ」と寸胴鍋に声をかけて蓋をし、片付けをはじめた。

 寸胴鍋から沸騰した音が聞こえ始めた頃、シリスがブライアンと侍女さんを伴って戻ってくるや否や、侍女さんが息を呑んだ。

「羽釜、ご飯ですか?」

「あいにく、白米の量は少なかったので、押し麦を混ぜたものを炊きました。蒸らしも終わるので、ちょうど良いかと」

 羽釜の蓋を開けると、ふっくらと炊けていた。良かった、と安堵しながら炊けたお米の上下をひっくり返していくと、覗き込んできたブライアンが「ほーう」と呟いた。

「東方の主食というやつか」

「白く精米する前のものを食べることが多いので、これはすこし贅沢なものですよ」

 ソフィアが持ち込んだ食材なので、どれも高級品ばかりだ。ありがたいと思いながら、かき混ぜたご飯をしゃもじにのせる。侍女さんとブライアンに差し出し、ご飯をすこし摘まんで口に入れた。丹念に噛むと、触感の違いが楽しい甘みのある味が口に広がる。

「毒見をお願い致します」

 しっかりと呑み込んで微笑めば、侍女さんは細い指で粒だったご飯を数粒とって、残ったご飯をブライアンは太い指でつまみ上げた。ふたりが口に入れて数回噛むと、目を見開いてこちらを見た。

「美味いな」

 ブライアンは驚いた風に言い、侍女さんは同意と言いたげに口を抑えて頷いた。シリスが物欲しそうに見てきたので、湯気がたつご飯をすこしシリスの手のひらにのせた。「あちち」といった後、口に放り込んだシリスは目を丸くした。

「噛むほどに甘くて、とっても美味しいです!」

「よかった。西方の方が大半ですから、苦手に思われるかと……ひやひやしておりました」

 ソフィアを言い訳に東方の家庭料理を作ったけれど、折角なら美味しい物を食べて欲しい。胸を撫でおろせば、侍女さんは顎に手を当てて考え込んでいた。

「寸胴鍋は、お味噌汁ですか?」

「こちらはまだ、味噌が入っていないのですが……毒見しますか?」

 分量に対して味噌を入れる量は決まっている。味付け前でも良いかと言えば、毒見役ふたりは頷いた。小皿によそって渡し、私も小皿を傾ければ、普段通りの味がした。味噌をいれたらしょっぱくなるのか。少し残念に思うと、侍女さんが言った。

「十分なほど味が出ておりますね」

「そうだな。野菜の味が美味しい。味付けしてないなんて、信じられないぞ」

 毒はないと分かったのは良いが、もう味付けしなくていいと言いだした。慌てて味噌が入った箱を見せる。

「折角なので、味噌をいれませんか?」

 白味噌と赤味噌、黒い味噌なんてものもあるのだ。使いたいと遠回しに言えば、侍女さんとブライアンさんはお互いを見合ってから首を傾げた。

「塩味が苦手なのではないのですか?」

「それは、そうなのですが……」

 私の為に、皆にとって美味しい味を我慢させるのは、料理でもてなす側として見逃せない。みんなの丁度良いところを探したいのだ。でも、独りよがりの言い分かも知れないと迷っていれば、侍女さんはかすかに微笑んでいった。

「では、レイさんが丁度良いところで整えて下さいませ」

 ブライアンも頷く。好きにしていいよ、と言ってもらえたので、いそいそとおたまを持った。

「もう少し煮込んだら、入れますね」

 やった!内心で踊り狂っていたら、表にも出ていたらしい。シリスが「小躍りするほど嬉しいのですね」と微笑みながら言った。暖かい目で見られていて、耳まで熱くなった。


 具沢山な味噌汁を完成させて、そぼろおにぎりを握り終えた頃に皆がテントに戻ってきた。治療用の設営は完了し、既にテントの中の暖房も付けて、受け入れ出来るようになったらしい。昼食はタープの下に皆が集まって取る事になった。ソフィアは受け取った情報を紙にまとめて、今後の予定を話してくれた。

「第一陣が一時間後に出発。到着次第、治療を開始。我々は備品整理と、援軍の受け入れ準備に入る」

 硬い口調で話しながら、視線がちらちらと味噌汁をよそうお椀に向いていた。寸胴鍋の前にはシリスがお盆を持っていて、そのシリスの奥から皆も覗き見ている。ソフィアはため息を大きくついて、紙を畳んだ。

「つまり、小一時間は休憩出来ます。存分に食事を楽しみましょう」

 わっとタープの下が沸き立つ。最後のお椀に味噌汁を注いでおけば、シリスは満面の笑みで言った。

「さ、レイさんの料理ですよ!まずは、お味噌汁です!」

 お椀とスプーンが皆に行きわたると、各々が食事の挨拶をしていく。待ちきれないとばかりに、一番に手にした王女はスプーンで具材をすくって頬張った。口を小さく開け閉めし、目をきゅっと閉じてしばらくすれば、こちらにきらりと輝く目が向いた。

「とても美味しい」

「お口に合ったようで、よかったです。おかわりもありますよ」

 笑顔で会釈を返せば、次々と美味しいと声が上がる。ソフィアは「くっ……これを何度、夢に見たことか!」と目尻に涙を堪えていた。皆がにこやかに味噌汁をのんでいる輪に背を向けて、作業台の方に立った。作業台の中央には大きなお皿二枚に付近が掛かっていて、お櫃を開ければ麦ごはんが五合ほど残っていた。

 おにぎりは味噌汁がのみ終わったところに出すのだが、炊いたお米が残ってしまった。そぼろは使い切ってしまったし、塩むすびにして、そぼろの前に食べてもらうか。新たな大皿を出して手を洗い、手水を付けて塩を手に取り、お櫃から麦ごはんを取って握る。穏やかな三角を作っていくと、「その」と声が掛かった。振り返ると、シリスがお椀を持って眉を下げていた。

「お食べにならないのですか?」

「まだちょっと、作業が残っていまして」

 せっせとおにぎりを握っていくと、シリスが隣に立ってきた。横目に見たお椀の中身は減っていなかった。

「……お味噌汁が冷めてしまいます」

「また温めれば大丈夫ですから、シリス様もいただいて下さい」

 塩むすびが皿の上に十個揃った。手を洗って水気をふいて、塩むすびのお皿を両手にした。

「ちょうど出来ました。おひとつ、どうぞ」

 大皿を差し出せば、シリスは戸惑う指で塩むすびをひとつ手にした。盲目の賢者の右手におむすび、左手に味噌汁。なんとも不思議な取り合わせだが、シリスはおにぎりの三角の頭をかじって何度か噛んだ。そして、おにぎりを見つめた。

「……お塩だけですよね?」

 作業台を見てシリスは何度も瞬きをした後に、こちらに驚きで見開かれた目を向けた。

「どうしてここまで、美味しいのでしょうか?とても優しい感じがします」

「材料が良いからですよ」

 東方文化好きのソフィアが材料を用意してくれたおかげだ。材料をよいままに、食べやすい調理をすれば、美味しいのだ。「たいしたことは、していません」と言えば、シリスは右手の塩むすびを見て微笑んだ。

「きっと、おまじないのおかげ、ではないでしょうか?」

「おまじない?」

「美味しくなれ、と何度も言っていたではないですか」

 そこに「美味しい」と話す声が通り、シリスはそちらを見て言った。

「料理は愛情と言いますし、レイさんの愛情がこもっているのですよ」

「……そ、そうだと、いいですね」

 ぎこちなく言えば、シリスは「おにぎりを作って頂きましたよ」と賑わう輪に声をかけた。皆が集まって両手にある大皿から塩むすびが消えていくあいだ、頭の思考の荒波で揉まれていた。

 もしかして、願いを口にした結果、魔術で美味しくなっているという事はなかろうか。それって、食べる人が意図しない効果を付与しているから、良くない事では?

 輪に入って味噌汁を食べながら湧き上がる罪悪感を腹に押し込めていると、弟が満面の笑みで言った。

「兄さんのご飯はほっとする!」

 その言葉に俯けば、照れていると勘違いしてくれた。それって、現象の鎮静化って意味ではないよね?自称神様の言葉がちらついて、ひとりだけ悶々としながら、苦笑いで昼食を食べた。食べなれた風合いの味が、ひたすらに不気味に思えた。


 搬送されてきた負傷者を受け入れ、夕方には援軍の装甲車もやってきた。邪魔にならないようにタープの下で焚火を弄り、現場で治療が難しい人が転移魔法で王都に向かっていく様子を見ていたら、湯気を立てるコップをふたつ持ってソフィアが隣に立った。

「お義兄様は、本日の十八時付で、現場における業務を完了とします。報告書の提出は探索者協会の東方支部経由で構いません。こちらの仕事はまだ残っているので、お見送りはご容赦くださいまし」

「わかりました。短い間でしたが、参加出来て良かったです」

 お辞儀をして感謝を伝える。差し出されたコップを受け取ると、濃い赤紫と茶色を混ぜたような液体から甘さのあるナッツの香りがした。ココアだ。飲めば細やかな甘みと苦みがある。ソフィアもコップを傾けた。

「王位は王弟殿下が取る事になります。勝てる戦だったのですが、情報が足りませんでした」

 消え入るようなため息には、後悔の色はない。やり切ったと言いたげな横顔をしているソフィアは、視線に気づいてこちらに笑いかけた。

「これで、お義兄様も休めますね」

 未だに心配されていたようだ。苦笑いで曖昧に応えると、ソフィアは腕を組んで肩をすくめた。

「魔術使いになられたのでしょう?もっと活躍していただかないと、困りますわ」

「困るのですか?」

 弟から魔術使いになったと聞かされたのだろう。何に困るのかと聞けば、ソフィアはそっぽを向いた。

「お義兄様が有名になれば、商談を手にお伺いしても不自然にならないでしょう」

「はは、なるほど」

 私を言い訳に、東方観光をしたいらしい。ココアをもう一口飲んでタープの外を見れば、弟が自分の背丈より大きな機材を頭上に持ち上げて走り、救急隊の人たちが慌てた様子で弟を追いかけていた。何とも大雑把な運び方である。

「では、案内はお任せください」

 観光案内を約束したのに、出来ていない。ソフィアはコップを宙において扇子を開いた。

「まあ!何処に連れて行っていただけるのかしら」

 口を隠していても目元は嬉しそうに笑っている。思いついた案内先を洗い出してみる。

「そうですね……幻霧郷は難しいので、登山して山の幸を採り、東方料理をご自身で作る体験するとか、海祭りの縁日や海水浴も夏場は人気です。冬はこたつ舟で川下り、春は田植えも出来ますよ。あとは……地酒の美味しいところを紹介できます」

「どれも新鮮な提案ですわね」

「ほとんど東方の実家で出来ることなので、季節問わず、楽しそうなところにお連れしますよ」

 微笑みを返せば、ソフィアは笑みを一層深めた。貴族は山や海に出ることを嫌がる人も多いが、ソフィアの行動力を前に外に出ないという選択肢はないだろう。そこに「ただ」と付け加えた。

「確実に山や海、川に出るので、汚れても良い動きやすい服を何着かお持ちくださいね」

「ふふ!わかりました。約束ですわよ?」

 約束を取り付けると、ソフィアが呼び出された。「では、また」と声をかけて以降、皆とは声をかわすことはなかった。


 定刻に海底トンネル前を出て、東方に向かう列車に乗った。乗り換えを何度かして、深夜の終電にこぎつけ自宅の最寄り駅につくことが出来た。街灯の柱に雪が張り付き、車も人の気配も白く埋もれた道に足跡を作っていきながら、笠の下でスケッチブックにメモをとる。

 示唆は幾らでもあった。自分が確かめないといけない事も沢山ある。そこに試してみたい好奇心を添えて、出来たことを増やさねばならない。

 出来ない事じゃない。私が起した、私のための変化を見つけていく。メモを閉じれば、思わずスキップをしてしまう。

「さあ、私は、何が出来るのかな」

 しんと身に染みる空気は、浮かれるなと言っている気がした。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話は制作中です。2026.10.2

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