特別講師業務:魔素研究について①
熱い、重い、苦しい。誰も助けてくれないと、何故か知っている。
お腹に重石がある。周りは熱湯で満たされて息苦しい。もがいてみても、上下がわからない。瞼を開くと、燦然と輝く炎が目の前にあった。
どうして灯光の証がある。緩んだ口から熱湯が入ってきた。吐き出そうとするとお腹の重石が動いて、背筋に痛みが走った。膝を抱えると、お腹には何もない。ただ、腹中にあってはいけない何かがあると察した。
眩しい炎に背を向けて、熱さに耐える。でも、息が続かず意識は遠のき、抱えた膝も手放した。
助けて。届く訳がないのに、それでも願わずにはいられない。たゆたう水の中に、心の叫びは溶けて消えた。
気が付いたら、薄暗い天井を見上げていた。天井はカーテンで仕切られ、カーテンレールの奥から柔らかな光がもれていた。瞼は蚊に刺された時のように開かず、視界の端にあった鼻の下に目線を動かすと、透明な管が伸びて口に差し込まれていた。
その管から空気が出入りして胸が膨らむと、気が遠くなるような鈍い痛みが注がれ、吸い出されていった。
思考が出来るだけ有難い。世の人が鎮痛剤をのむ理由もよく解る。なんで私は薬も効かないのだろう。迫りくる次の痛みにおびえていたら、カーテンがかすかに揺れた。誰か来たのかと人影を探しても見当たらない。そして空気が注がれた瞬間、黒い影が視界に顔を出した。
「……ひゃ、ほ……」
桃色を滲ませた茶色の髪が垂れ下がり、目の隈が濃くて血色の悪い、眼を光らせて口で弧を描く女性――ヤエコさんが居た。怖い話に出てくるような風貌だが、胸を走る痛みに気を取られて視界に星が瞬いた。身をよじろうとしても動かず、視界は少しずつ涙の中に沈んでいく。空気が抜かれはじめて、ようやくヤエコさんの眼と視線が合った。
「もしかして、起きているの?」
ヤエコさんは小声でささやき、覗き込んでくる。声も体の動きも使えないで返事を出来ずにいると、ヤエコさんの指が額に触れた。額から、バチリと音がして、頭を揺らした。
「ぁ?!」
「あ、ヤダ!ごめん!」
めまいが視界をゆがめて、追い打ちの様に空気が入ってくる。痛みの洪水に揉まれている遠くに、「看護師さんを呼ぶわね」と聞こえた。
三回痛みの往復を経験したあと、開いたカーテンから光が差し込んできて、暗い人影が五つ入ってきた。そのうちのひとつが顔に近づいてきた。暗く覆われた視界の端で、知らずにかけられていた布団をめくって何かがはじまった。
「レイさん、おはようございます。聞こえますか」
聞こえているが反応できない。涙でぼやける視界で目を回していると、「意識が戻っています」「痛いみたいです」「魔素濃度を目盛ひとつ、下げて」と会話がなされた。そこに、また空気が入ってきた。
「は、はぁぁ……!!」
嫌だ、と叫んでも伝わらない。心の中で手足をばたつかせて、意識を手放した。
再び起きた時には口の管が抜かれて、マスクが顔半分を覆っていた。空気が注がれることはなく、恐る恐る吸い込んでみると、痛みはなくなっていた。安堵すれば周りを観察する余裕もできた。
ベッドに革ベルトで拘束され、右腕から透明な管が伸びている。水色のカーテンには、太陽の光で出来た明るい長方形が揺れていた。きっと病室だ。どこの病院だろう?
それにしても、眼が開きにくいし、全身が痛いような痒いような。違和感の残る瞼を頑張って開いていると、カーテンの奥から扉を引く音が聞こえた。カーテンも引かれて、緑の服に白衣をはおり眼鏡をかけた初老の男性が入ってくる。男性の胸元には名前の上に医師と書かれた名札があった。
「おはようございます、レイさん」
小声のにこやかな挨拶に返そうと口を開くと、人差し指で止められた。体も動かず会釈も出来ないので目を伏せて開くと、男性は眉を下げてほほ笑んだ。
「驚いておられると思うので、今回のことについて私の方から直接説明します」
お医者さんが話し始めた話は、私の身体に起こったことだった。
幻霧郷の魔素や灯光の証、懲罰房にいた青年に被害者の十五人の魔素、異なる魔素と長時間接し分解し続けた。体内に普段はあるはずがないものを排除するために、作戦終了後も体の中にある魔素生成をする臓器と免疫機能が過剰に働いたままになっていたらしい。魔素濃度が薄い天蓋島に戻ると、魔素の放出量が減って体内に停滞し、免疫機能も底上げされた。
結果、空気中の異物すべてに過剰反応した。アナフィラキシーショックを起こしたわけである。
「空気中の魔素に反応しやすいので、防護服とマスクをつけて接触回数を減らせば落ち着きますよ」
眼が開かないのも、身体が痒いのも、過敏になって炎症が起こっているからか。自己防衛の為に、呼吸するだけで気絶する痛みを出すのは過剰すぎる。内心で自分の身体に呆れてしまった。
治療方針は、今日中に病院から療養所に移動して一週間過ごす。魔素濃度に慣れるまで発声を含む身体行動を制限、マスクを常につけること。吸い込む魔素の量を少しずつ増やして、慣れてきたら身体を動かして体力を戻していく。
注意点は、激しい運動と大声、魔素含有量の多い食べ物の飲食に気を付ける。理解したと瞼をゆっくりおろすと、お医者さんはにこやかに締めた。
「初めての魔素暴走を経験しましたね。魔素環境の変化を認知してこなかった、類稀な身体ですので、少しずつ慣れていきましょう」
その一言に目を丸くできたのか、身体が重くてさっぱりわからなかった。
お医者さんが出て行ったあと、考える間もなくカーテンの奥からヤエコさんの顔がひょっこり出てきた。疲れ切っている顔の眉を八の字にして、肩をすぼめながらベッド傍の椅子を引いて座った。首も回せないので目線を横に向けていたら、ヤエコさんは顔を覗き込んできた。
「ごめんね……痛かったわよね」
額の汗が酷くて拭おうとした時に、魔素を一瞬で分解されて反射的に反撃したらしい。
そんなことより、なんでヤエコさんが居るのか。反撃を受けたときは周りが暗かった。面会時間でも遮光されていたのかな。しょんぼりとした顔のヤエコさんは椅子に座って話し始めた。
「レイが魔素の過剰反応で倒れたと聞いて、所長に見てきなさいって言われたのよ。側近全員が、動揺していたわ」
搬送されたことをセロが義父に連絡したらしい。義父経由でじい様に、作戦の後始末をしていたじい様は所長と一緒にいたので、側近にも情報が伝わった。反応はそれぞれ異なっていたらしいが、私の身体が魔素に反応した事実に驚いていたとか。
「高濃度魔素を受けても平気なのに、魔素濃度の急減少で身体の機能異常が起きるなんて……誰も想像しなかったもの。面白い事例すぎて、面会時間すっ飛ばして、侵入したわ。検体も取っておいたわよ」
金属の筒を見せびらかしてくるので、心の中で頭を抱えた。病院の職員さんに、入院している患者さんにも迷惑だよ。やめなさい、と言いたくても声は出せない。ゆっくりと長く息を吐くと、ヤエコさんの顔が眼前に戻ってきた。
「でも、良かったわね」
柔らかい微笑みが隈のせいで台無しになっていた。なにも良くないし、寝て下さい。内心でそう呟くと、ヤエコさんは笑みを深めた。
「肉体の魔素認知が出来たなら、体内の魔素操作が出来るわよ」
考えようとして忘れていたことを思い出す。笑みに返す表情も忘れて、魔素認知について思考を向けた。
魔素光盲であっても、自身の体内魔素は操れるし、外気の魔素を肌でも感じることが普通だ。肌も体内にも魔素を感じられない私は、魔素感知能力が存在しない身体だと思っていた。しかし、違ったらしい。
「魔素分解をする魔素の壁に阻まれて、知覚できていなかったってこと。でも、それが事実だとしたら魔素光盲の説明が付かないのよね。不思議だわ……」
ヤエコさんは椅子に座り直し、腕を組んで横に揺れる。魔素を分解できるのは周囲だけ。遠くにある魔素は残るので、見えていないとおかしい。変よねぇ、と呟いた後、ヤエコさんは椅子を壁に寄せて立ち上がる。
「魔素操作に着手できるようになったのだから、喜ばしいことよ。私はもう少し調べてみるわ」
小さく手を振ってカーテンの奥に行ってしまった。扉を引く音もして、ひとりきりになった。そっと息を吐くと、身体の奥底からこみあげてくるものに目を伏せた。
魔素暴走がこんなにも痛くて、息を吸うことすらも怖くなるなんて想像できなかった。
魔素暴走を止める魔法をどんな形でも作ろう。胸の内でそう誓った。
杖をつく砂利道の先で、手袋をつけた庭師が伸びる草をつまみ、苔の絨毯を整えていた。池に伸びる美しい緑のひさしに入ると、涼やかな風が頬を撫でた。水の流れる音が聞こえ、目の前の池と奥の林を超えると幻霧郷に続く大通りがあるとは思えないほど静かだった。
移転先は、東方風幻義塾――探索者を育成する学校の療養所、風光園だった。
風幻義塾は探索者育成の他に、依頼受注や探索者の昇級試験、怪我などの治療、復帰訓練も行っている。十四歳以下の子供は無償で授業を受けることもできる東方地区最大の教育機関だ。幻霧郷の異界門の目と鼻の先にあり、運ばれた病院の病棟から道に出ることなく辿り着ける。
風光園は宿舎にリハビリ施設も完備し、穏やかな四季の移り変わりを草木と大きな池で堪能できる。名目は探索者のための施設なので、昼間にしか一般解放されておらず、昼間でも静かに努めてほしいと立札が砂利道の端に立てられている。病院の病棟からも見えるので、綺麗な風光園に近い病室が人気らしい。
療養開始から三日目にして、ひとりで散歩に出られた。宿舎を出て数歩の池の畔でぼんやりとしていると、こちらに気付いた庭師が会釈してくれた。白コートのフードに顔をマスクと眼鏡で隠していても挨拶してくれるなんて。会釈を返して、言いようのない達成感を覚えた。
魔素と触れる行為の食事は喉を通るたびに痛みを感じて、消化をしている間もお腹が痛くて、散歩なんて言っていられなかった。そんな痛みから解放されて、杖を使って身体を支えながらでも歩き回れている。しかし、一歩踏み出すほどに身体がきしみ、動ける時間は残り少ない。
そろそろじい様が面会に来てくれる時間だ。今日の冒険はここまでにして部屋に戻ることにした。
靴を履き替えて宿舎の中に入ると、部屋に向かう廊下の奥から子供の楽しそうな声が聞こえた。見学者が迷い込んだのかな。首をひねりながら壁伝いに進むと、突き当りの曲がり角で伸ばした杖に少年が引っ掛かった。その拍子にふらついて床に倒れ込む。
「うわあ?!」
「う……!」
つまずいて声をあげたその子は、受け身を取って勢いを緩めて起き上がる。杖が転がり手をついたものの、肩を床に打ち付けた。痛みが響いて、苦しい。起き上がれずにいると、少年がふたり増えた。
「だ、大丈夫ですか?!」
「走るなって言ったのに……!」
三人は紺の袴と鉢巻を額につけていて、左胸に黄色で風幻義塾と刺繍されていた。身長と声の高さから、声変わり前の男子だろう。駆け寄ってくれた少年に「声を落としてくれるかな」と頼むと、三人は口を両手で覆って立ち上がり、私から三歩離れた。
そこまで離れなくてもいいのに。寂しさを覚えつつ見上げると、彼らの視線は私の後ろの廊下を見ていた。身体をゆっくり起こしてふり返ると、青紫の袴に木刀をはいた黒髪黒目の少年がこちらを見下ろしていた。
「じい様」
「今は師範と呼べ」
「失礼いたしました、ジン師範」
姿勢を整えようと脚を引いても、背骨が身体を支えられない。痛みで思わず声が漏れると、いつの間にか青紫の袴が膝を突き合わせていて、手早く横抱きにされた。急な方向転換に目を回すと、じい様はそっと耳にささやいた。
「お前の部屋は何号室だ」
「一の、六です……」
「すまない、ずっとゆっくりにしよう。運ぶぞ」
じい様はすり足で廊下を進み、廊下の最奥の部屋のベッドに私を寝かせた。枕を首に合わせてもらった時に声が出てしまい、じい様の鋭かった目が伏せられ長く息を吐いた。
「人を呼んでくる。楽にしていなさい」
そう言って、青紫の袴がゆっくりと背中を向けた。廊下には子供たち三人が並んで立っているのが窓越しに見えた。
「お前たちはそこで立っていろ」
「はい!」
元気よくひとりが返事した瞬間、その少年が直立不動のまま、横に一回転した。あまりの早業に驚いていたら、少年は元の位置に元の立ち姿のまま戻ってきた。少年の隣に立ったじい様は、成長しきっていない肩に手を置いて言った。
「ナツメ、場にふさわしくないことを次にすれば、これを五回行う。いいな」
「はぃ」
「よろしい」
そういって、じい様の姿がなくなった。廊下に並んだ三人は、腕を真っすぐ床に向けて正面にある内窓を見ている。その視線は明らかに泳いでいて、口元は強張ったままだ。怪我をさせずに命の危険を悟らせるなんて、暴力のなかでも質が悪いよ。
少年たちの今後を心配していたら、布ずれの音が近づいてきて、じい様と救急箱をもった白衣の女医さんが部屋に入ってきた。女医さんはベッドのそばについて、身体の様子を確かめてくれた。
「怪我をしたそうですね」
「驚いたら転んでしまって、肩が痛いです……」
診てもらうと、肩に青い痣が出来ていて腫れていた。骨は折れておらず、一安心した。「肩は安静にしてくださいね」と部屋を出る女医さんに、小さく頭を下げる。入れ替わるようにじい様が部屋に入ってきた。
「生徒が迷惑をかけた。申し訳ない」
頭を下げたじい様の姿の後ろで、廊下の少年たちの眼がこれでもかと見開いていた。じい様が頭を下げることが珍しいのかもしれない。「びっくりしただけですから」と笑えば、じい様は半眼で見下ろしてくる。
「生徒の不始末を見逃して、お前だけが痛みを引き受ける理由もない。罰を儂に与えることは筋であろう」
監督不行き届きと言いたいのだろうが、じい様に罰を与えた後に少年たちの修業が苛烈になったら。そんな酷いことはしないと思うけど、罰則なんて考えられない。しかし、じい様の眼は「さっさと決めろ」と言っていた。
「じゃ、じゃあ……報告が終わった後、話し相手を務めていただけますか。中庭に行ってみたいです」
「よかろう。車椅子を借りてくる。散歩には生徒も伴って良いか」
「もちろんです」
少年たちを自由にしてあげたいが、じい様は彼らに指導することが仕事だ。息苦しい散歩になるかもしれないが、付き合ってもらうしかない。内心で冷や汗をかいていると、じい様は踵を返して部屋の扉を引いて、廊下の少年たちに声をかけた。
「本日の授業を、義塾の卒業生との懇親会に変更する。存分に質問し、次回までに感想文を千字以上書いて、提出しなさい」
三人は小さな声で返事し、じい様の姿が見えなくなると顎を引いた。彼らの体つきは着物の上からでもわかるほど、鍛えられているのがわかる。変に筋肉をつけていないので圧迫感はないが、立ち方にセロの影が見えていた。若いのに、心身ともに鍛えてきた人の姿だ。廊下から値踏みする視線が突き刺さって、思わず顔をそむけた。
懇親会という名目も、質問攻めにされても良いとも、言っていない。子供は嫌いじゃないけど、私への罰則じゃないか。
「レイ、起き上がれるか」
じい様の声に肩が跳ねる。もう帰って来たのか。差し出された車椅子の座席に何とか座り込むと、車椅子はそっと動き始める。焦れるような速さの車椅子の後ろに布ずれの音が付いてきていた。
「では、義塾卒業生の彼の紹介を儂がしよう。いいか」
「お願いします」
変なことは言われないだろう。了承すると背後の音が近くなった。
「彼はレイ・グランド、三級探索者だ。特技資格は三番の八級、異能魔術研究所の研究員として勤続五年になる。魔素構造の知識は、義塾の教員よりも詳しい。魔素暴走の対抗薬の調合に口出しするほどだ」
調合については、救助隊の迷惑だから二度としない。良くないことをいいことのように言わないでほしい。振り返り視線で文句を言えば、じい様はすまし顔で続けた。
「そして、魔素分解の異能の制御を研究し訓練している。これについては十五年近い」
肉体の魔素認知を先日した未熟者ですよ。続けることが難しくても、長くやったことが後ろの少年たちの足元にも及ばない程度ということも付け足すべきだ。
まあ、見るからに弱そうな先輩に期待する訳がないか。内心で自分に呆れてため息を吐くと、頭に手がのってきて、顔を前に向けられた。
「白装束に白眼鏡とマスクで顔を隠し車椅子に納まったこの男は、お前たちが生まれる前から、誰も答えを知らない物事に挑んできている。様々な記録を残したフウジのセロと魔導師ミリアムのふたりすら、勝負を逃げた相手だ」
魔術回路が壊されるから拒否されただけだよ。あと、不審者みたいな格好でごめんなさい。でも、どうしてそんなことを言うのか。なぜか私を持ち上げ始めた気がして、首をすこし傾げる。じい様は最後に一言、隠すように言った。
「そして儂と同じ、幻霧郷領主の側近である」
布ずれの音が消えて、車椅子も止まる。ちょうど中庭に降りるスロープの先に向日葵が見えて、まぶしいと目を細めてみた。向日葵はそっぽを向いて太陽を見上げている。
「この者が、お前たちに時間をかけて良いと言っている。手抜きは許さん」
後ろから聞こえた小さな返事には、期待の音色が見えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話は制作中です。2026.6.29




