犯罪捜査協力:被害者救助①
聖堂の螺旋階段を降りていくと、地下は真っ暗だった。階段の上の小部屋から差し込む光で階段は見えるが、廊下は数歩進むだけで足元のレンガの境目がわからなくなる。息遣いと足音だけが響いて、先は見通せなかった。
壁に手のひらを添わせると、照明のボタンを見つけた。手袋がないし、魔素暴走を誘発しても困る。リュックのポケットに挿していた細い棒を取って軽く折り曲げると、ぱきり、と音がして水色の蛍光が棒の中に広がる。魔素に依存せずに発効する、災害用の照明だ。螺旋階段から続く廊下の右に守衛室、左にポーション製造部屋、その奥の倉庫が二つ、つきあたりに懲罰房があるはず。棒をよく振って壁と床の境目を確かめながら進んだ。
蛍光の照明を見つけた扉の左右に置いていき、最奥の懲罰房の前に来た。白く塗られた金属扉を開けようか開けまいか、すこし悩ましかった。
灯光教会にある懲罰房は音を吸収する素材が部屋を覆っていて、天井から灯光の証の光が差し込み、部屋を明るく照らしている。中に入ると魔素を吸われるので、危機感を覚えるらしい。この部屋で魔素操作技術を磨く修験に励む人も居るらしいが、脅しに使う為にあるので使われることはほとんどない。
難点は、世の人は熱い温泉ほどの温度のように感じるのに、私には熱湯の蒸気や火に炙られていると感じること。広くて火鉢が天井の遠くにある聖堂でも、蒸気浴をしているように思えるのだ。
魔素を吸着する魔素の持ち主は、隔離されていると書かれていた。倉庫に被害者が集められているとも書いてあったので、守衛部屋かポーション製造部屋か、この懲罰房に居るはずだ。
件の人の居場所を確定させておきたくても、開いて中を見ること以外に確かめる方法もない。懲罰房の灯光の証は小さいはずだから、ちょっと熱いぐらいで済むと思いたい。
ため息とひとつ吐いてから、分厚く白い石の扉の金属の環に手をかける。両手で引くと、開いた隙間から全身に熱風が吹きつけた。驚いて、直ぐに扉を押し戻す。
「あっつ!あつ!!」
顔が焦げるかと思った。前髪をはたいて早く打つ胸の音をききながら、僅かに見えた部屋の様子をよくよく思い出す。
揺れる弱い光の中に、やせ細った青年がうずくまっていた。服は小綺麗だったが、艶のない髪と骨が浮いた首筋からして、栄養状態は最悪だ。しかし、身に迫った熱風を思い出して顔をしかめた。
「この中に行けと?!」
火事の中に踏み込むみたいな感覚だ。水をたっぷり被れば入れるとは思うけれど、用意はない。リュックの中からペグを引っ張り出し、懲罰房の扉に差し込んで開かないように止める。他の被害者を優先して、倉庫の様子を確かめることにした。
懲罰房のそばにある食糧庫の掛札がある木製の扉を押すと、けが人が集められたテントに入ったような蒸れた空気が顔を襲った。消毒液と排泄物の匂いも合わさったような臭いで、袖を引っ張って鼻と口を覆った。
この中に魔法具を設置したら爆発は免れない。危険物はないと仮定して、強く光る災害用照明をひとつ折り曲げた。黄色に輝く棒を頭上に掲げて歩き回ると、十五個の白い縦長の箱が床に並べられていて、壁の棚には栄養剤と救急箱、薬品やポーション瓶があった。石の箱の中には人の形を追う布がかけられていた。私のコートと似た布だ。魔素分解を早める為にも、すべての布を剥がそう。
入り口から最も遠い箱の布をつまんでめくると、骨と眼球が浮き出た土気色の肌の女性の顔が現れた。肌に張りはなく、額から右耳にかけて長い黒髪が抜け落ちている。服はくたびれ、かさぶたまみれで血の滲む唇と僅かに上下する胸だけが、生きていると伝えてくれた。
他の箱の中の布もめくって、食料庫の中にいる十五人全員の生存を確認した。生命維持の魔法をかけられているかもしれないので、被害者たちに触れずに、部屋にあふれているはずの魔素だけを分解する。やる事は部屋にいるだけなので、棚にあるポーション瓶の前に立った。
瓶の形は、円筒が十本、四角柱が五本、空の三角柱が一本、均等に並べられている。それぞれ魔素回復、肉体疲労回復、魔法型解毒薬が入っているはずだ。
弱まりはじめた黄色の光を空の解毒薬にかざす。栓が抜かれて中身は乾きかけ、鼻を近づけてみても香りや色合いを確かめられない。残りの四角柱と円筒のポーションは、蛍光の光の中でも同じ色に見える。ひとりの為に準備されたものか、件の未承認薬か。推測をしてみても、確信は持てなかった。
さて、私はいつまでここに居ればいいのかな?手元の照明が使えなくなるまで十五分。二本目を折って三十分も居続ければ十分だろうか。換気をしつつ、報告書の為にメモを書いて過ごすか。食糧庫の扉を開いたままにして、廊下の床と扉の間にペグを差し込んだ。
その時、食糧庫の向かいにある扉が弾け飛び、粉塵と空気の壁が襲ってきた。
とっさに背を向けて耳をかばう。床に落ちる破片の音がおさまり顔をあげると、暗がりからむせかえるような防腐剤の匂いがしたあとに、蜜柑のような華やかな香りがあたりに漂った。足元には備品保管庫と書かれた掛札が転がっていた。
爆発が起こった。魔法具なしでも暴発する事があるのか。宙に残る粉塵を手で払いながら不織布マスクで口と鼻を覆う。そして立ち上がって深呼吸をした。大丈夫、私が触ったら爆発は起きない。五月蠅かった鼓動が落ち着いたところで、爆発した部屋のほうに意識を向けた。
壁は無事なのに木の扉を粉砕する爆発が起こるなんて、魔素暴走の爆発にしては変だな。柑橘の香りには枝葉の香りもする。隠しきれていないが、臭い消しにしては上等な香料だ。
二本目の黄色の照明を折って吹き飛んだ扉の奥にかざすと、食糧庫にあった白い箱が四つ並べてあった。箱は全て汚れていて、奥にあるふたつは割れている。その隣には黒い破片が散らばっていた。あそこが爆心地か。
「お、お邪魔します」
中に踏み込むと、靴の底が濡れた音がした。靴の裏を照らしてみると、血のりがべったりとついていた。
「ひえ……!」
足元には血だまりが広がっていて、よくよく見てしまえば箱の汚れも血液である。直接触るとまずい、手袋を出さなきゃ。両手と両膝が震える。リュックの横に入れておいた樹脂手袋を探して取り落とし、血だまりが揺れた。膝を拳で殴って、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
セロに任せろと言った以上は、頑張る。新たな手袋をつけて、壊れていない箱に近づいてみた。
赤黒く乾いた染みが散らばる白の布は人の身体を予想させるが、どうみても胸が頭に対して突き出し過ぎている。布をつまんで布の下を照明でかざしてみて、すかさず布を被せ直した。
「……これは、もう」
胸から肋骨が突き出ていた。肌も骨と一体と化していて、粉の浮く茶色に変色していた。申し訳ないが、この人は亡くなっていると思いたい。
隣の箱にも、似たように肌が乾ききったご遺体が収められていた。柑橘の香りは、死者への弔いの燻蒸かもしれない。つま先立ちで壊れた箱の方を見た。
「……そういうことか」
元は五つあった箱の一番奥が跡形もなく吹き飛んだようで、箱を中心に焦げた破片が部屋中に散らばり、隣の箱は衝撃で割れてしまったらしい。そっと視線を天井に向けると、水滴が落ちる音がした。天井にも血のりの跡がついていた。
爆発してしまった人と残る四人にご冥福をお祈りして、食糧庫の中に戻った。扉を閉めて息を深く吐くと、血の匂いは薄れて現実に戻ってきたように思える。靴の血のりをしっかりタオルで拭き取っていたら、頭の中でうねる思考の海にのまれてしまった。
どうして遺体に関しての情報はなかったのか。テトが見た光景に現れなかったにしても、死なないように管理をする上で話題になるとは思う。遺体をわざわざ箱に入れて保管しておく理由がわからない。
「魔素の吸着は死後も続くとか?」
思いついた想像を口にして、確信めいた落ち着きを得た。その可能性は高いかもしれない。白骨化手前の人は誘発されて爆発していなかった。だから防腐剤で遺体を維持しているのか。そこまで考えて震えが帰ってきた。
「遺体で良いってこと?」
身体が朽ちていくと同時に魔素も分解されるから、生きていないと爆発しないと思っていた。もし、爆弾として完成したから備品保管庫に移動させていたとしたら。
空腹を訴えていたはずのお腹から、気分の悪さがこみあげてくる。口元を血で汚れたタオルで覆いかけて、あわててタオルを手放した。黄色の蛍光に照らされて、タオルの影が白い箱に伸びていた。
「くそ……」
閉めた扉に背中を預けて、膝を抱えた。震えは収まらず、眼鏡の奥で涙があふれて、マスクの布に吸い込まれた。
「なんで、人を……」
使われる立場とか、使う立場とか、人を物あつかいすることはある。本人たちが敬意と尊重がある関係ならば、言葉の綾として容認は出来る。
でも、誰かを傷つけるために、他の人の命も奪うのは、あまりにも恐ろしい。人の命が特別ということではなく、人を部品として見ている誰かがいることが、怖くて、動けなくなった。
「やめて……やめてよ……」
眼鏡を押し上げながら服の裾で涙をぬぐう。それでも涙は収まらなかった。
すこし泣いた後、切り替えの為に水を飲んで、立ち上がった。
他にも生存者がいるかもしれない。ここで無茶をしておかないと、助かるものも助からない。あと、懲罰房の中に入る為にも水道を探そう。水色の蛍光を右手に、守衛室に向かった。
頑丈そうな金属の取手を掴もうとして、ふと思い出す。灯光教会の守衛室は、登録した魔素の本人でないと開かない。まあ、私には関係ない。危険な魔法具がありませんように、と念じて開く。暗い部屋の中を照らすと、何もなかった。本棚にベッド、書き物をするための机に、椅子ひとつもない。
一番防御力が高いから、魔法具とか極秘情報がある筈では?壁を触って、床も触って、叩いてみても、なにもない。どうして、と首をひねって気付いた。
登録した人しか開けないから、普通の人は開こうともしないか。頭の回らなさに頬が熱くなって、廊下に戻った。
ポーション製造室の扉に向かう。ここは誰でも入れるし、暴発の可能性も低い。物理的な爆破装置がありませんように、と念じながらハンドルを引いた。顔を入れて覗き見ても、真っ暗で目を惹くものは見つけられなかった。
蛍光の照明を一本、目の前の床に転がすと、左に戸棚のガラスに水色が反射し、ダイヤルがふたつある金庫にぶつかった。右側にも転がしてみると、ふたつの光が反射して、光が近づくと地面に突き刺さる円筒が姿を現した。転がり続けた照明はレンガの壁にぶつかって、水色が滲んだ。
聖堂の建造は四十五年前。当時のポーション製造機は円筒形を持たない。円筒形は二十年前から出てきたものなので、明らかに誰かが持ち込んでいる。爆破計画の為に持ち込んだとすれば、型番を調べれば購入者をたどれる。けれど優先すべきは生存者が居るかどうか。入って確認するしかない。
恐々とつま先を床に触れさせて叩き、かかとを下ろしてみる。もう一歩踏み込むと、やはり何も起こらなかった。胸を撫でおろして三本目の黄色の照明をつけて、白い箱がないか確かめる。そしてポーション製造機のそばにある上水道も探した。
ポーションには、水のろ過を最低五回した後に蒸留して使う。作業はポーション製造機が行ってくれるが、大量の水を引かなければならない。用事があるのは、その水が出てくる蛇口だ。蛍光の照明を暗闇でかざしながら歩き回ると、ポーション製造機の前についた。正面にある記号と立てられた円筒の数を数えて、一歩下がった。
「クルービオの六本って、最新型……?!」
有名ポーション製造機器の会社が去年発表した、金属不使用の完全ガラス製配管の人工魔素精製型だった。年間の研究室予算の三倍する高級品が、なんでこんな所にある?ふざけんな!研究所に設置させてくれ!見れば見るほど、腹が立ってくる。
「いけない」
嫉妬と怒りに飲まれかけて、頬を蛍光の棒で叩いた。それどころじゃない、懲罰房に入る準備をしなくては。上水道を見つけて蛇口をひねると、透明な水が流れ落ちる。触れてみれば指を冷やして、止まる気配もない。リュックから折り畳みのバケツを取り出し、水で満たした。バケツを扉のそばに移動して歩き回ると、人が閉じ込められているような場所や白い箱はなかった。思わず「よかった」と安堵がこぼれた。
材料を探ってみたり、製造機の製造番号を控えておいたりしたい気持ちをこらえて、バケツを手に懲罰房の前に向かった。戻ってきても、差し込んだペグは動いていなかった。
中の人は扉が一度開いたうえに、爆発の衝撃があっても、起き上がらなかったことになる。一刻を争うかもしれない。ペグを引き抜いてズボンのポケットにしまった。
リュックを下ろして、バケツをひとつ持ちあげる。そして頭から被った。暗闇の中の青白い光が濡れた床に波打つ。上半身はずぶぬれで、ズボンも靴も濡れた。けれど、これでいい。意を決し懲罰房の扉を開いた。
「生きていますか!」
吹き付ける熱は、肌を焦がす。眼鏡のおかげで視界は良好でも、問いかける声は熱を呼び込んで喉を焼きかけた。懲罰房の中は白く照らされて、いつか見たガラス炉の中のようだ。そんな部屋の奥に、ぽつんと人が膝を抱えるように横たわっている。声に反応はなかった。口を手で覆って身をかがめながら、一歩近づいて声をかけた。
「異能魔術研究所所属の探索者、レイ・グランドです!裁定者の依頼でここに来ました!」
入口に背を向けてうずくまる人は、青年というほどの背丈がある。白の服も清潔そうで、かかとを揃えた革靴が傍にあった。白と銀の腰ベルトに西方の無病息災を願う幾何学模様もある。痩せて乾いている肌と艶のない小麦色の髪と、酷く不釣り合いに見えた。こんなにも光が吹き荒れるなかで平気というのは、魔法具がないと難しいはずだ。
「修練中だったら、申し訳ないですけど!近寄りますね!」
一歩、二歩、懲罰房の中心に向かうと、床と壁の境目が見えた。もう一歩と進んだら、青年の肩が動いた。
「くるなよ」
芯のある声が聞こえた。横たわる青年の声と気付くのに、すこし時間がかかった。
「あ、え、起きて」
「探索者が何の用だよ、帰れ。ここは俺が使っている」
こちらを向くことなく、青年の声が続いた。本当に修行につかっている人なのか。小部屋に椅子が六脚あったし、もしや未承認薬の販売に協力している?中腰のまま立ち止まって考え込むと、青年が身体を起こした。
「俺は、悪魔だ」
こちらを向いた青年の眼は、左右で色が違っていた。右目が灰色で、左目が薄い茶色だった。
「近づくと不幸になる」
目の虹彩や髪には自身の魔素の色が反映されることが多い。きっと彼の眼は左右で異なる魔素の鮮やかな色を湛えているはずだ。青年の言葉に、首をひねる。
「二色魔素で、不幸になるとは……?」
やせ細っているが、思いのほか元気そうだ。詳しく話してと一歩踏み込むと、青年は壁に身体を押し付けて立ち上がった。
「違う!俺の魔素は、人を動けなくする!!」
「あなたが未承認薬の大元の魔素の人なのですか」
やはりこの人だったか。では事情を訊かないといけない。「どうも」と会釈すると、青年はこちらをうかがうように睨んでくる。
「なんの話だよ」
自分の魔素を合成した魔素ポーションを、未承認薬として販売していることも知らないらしい。白い服の下で膝が震えている青年に、提案をしてみた。
「あの、お話をしたいので、ここから出ませんか?」
熱いし、痛い。水も乾いてきてしまった。もうちょっと探るにしても、懲罰房の外で話したい。言い終えると同時に青年の拳がこちらに向かってきた。とっさに避けるが、何度も私めがけて拳を振り上げてきた。
「わ、ちょ、なんで!」
「俺は、ここにいなきゃ、いけないンだよ!さっさと出ていけ!」
振り下ろされた拳を、身体をひねって避けた。近寄るなと言ったのに、近寄ってくるのはおかしいよ。何度も殴りかかってくるので、数歩下がると扉に背中がついてしまった。
「ま、まって、まって!」
扉を押して懲罰房から一歩出る。すると、拳が目の前で止まった。青年は悔しそうに口をゆがめて拳を下ろした。
「さっさと行けよ。俺はここに」
うつむいた青年は出ようとしない。隔離されていると書いてあったけど、ここに居たいと思っているのかも。踵を返そうと足を引いた青年に、待ったをかけた。
「では、このままで話しませんか?」
ポケットのペグを開いたままの扉の下に差し込む。廊下の魔素に反応して熱波が強く吹き付けても、出たくないというなら譲歩しよう。微笑んで向き直れば、青年の眉間には険しい谷が出来上がっていた。その皺を無視して話しかける。
「仕事で来ていまして、こちらの事情を話しますね」
相手に話してもらうには、自分も話をした方が早い。資料が熱風で吹き飛ばされないように抑えながら、自称悪魔の青年に掻い摘んで伝えた。
「今年の国王記念日に同時多発的に人が爆発する事件が発生する、という魔術による予言がありまして、魔素を体に留めるポーションが原因だと判明しました。そのポーションは国に認められていない違法な薬物になるので、販売している方々の捕縛と引き渡しが主な依頼です」
資料から視線だけをあげると、青年の眉間の谷は浅くなって、扉の枠に手をつき身体を前かがみにしている。興味はあるらしい。資料に視線を戻して話を続けた。
「加えて、違法薬物の大元である魔素を留める魔素を生成する人物の保護し、異能及び魔術に類するかの検査をしていただきたい……との事です。心当たりはありますか?」
事件の元凶という自覚はあるのか。首をかしげずに真っ直ぐ見据えれば、青年はうつむいて扉の枠を拳で叩いた。
「くそ、くそ、くそが……!!」
その拳は次第に大きく振りかぶって、懲罰房の扉がゆがんだ。枝みたいに細い腕で、金属をへこませるなんて。青年の腕力に足を引くと、そこから這い上がる声がきこえた。
「……動けなくなった人は」
「あ、えっと、生存が確認できたのは十五人です。そちらにいらっしゃいます」
食糧庫を指でさすと、前を向いた青年の顔はゆがんで、締め上げられた喉の音が廊下に響いた。その場に膝をつく彼を、見つめることしか出来なかった。
「どうして、信じちゃったのかな……」
消え入りそうな声でつぶやいた後、懲罰房と廊下の境目に水滴が落ちた。リュックを漁り、青年の前にしゃがんで綺麗なハンカチを差し出す。
「使ってください」
彼が泣き止むまでの時間はある。彼が話せるようになるまで待とう。
青年はこちらを見上げて、ようやく目が合った気がした。切れ長の眼で、健康になったらイケメンだろうな。あった視線は直ぐに外され、青年はハンカチを見たあとに顔をおとした。
「……もう、帰ってくれ、これぐらいなら大丈夫だから」
「いや、救急隊に通報して、生きている人の搬送を」
「人を呼んだのか?!」
険しい顔がこちらを向く。青年の叫びに頷くと、彼は床に手をついて笑い始めた。
「は、はは……もう、俺が死なないとだめか」
「え、いや、死なれると困るというか」
「だめだ、人にうつしたら、だめだ!」
吹っ切れたように言い飛ばす青年の顔は、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっていた。情緒がおかしくなっている。なだめようと手を伸ばすと、肩を突き飛ばされた。よろけて水溜りに倒れ込むと、青年はペグを引き抜いて懲罰房の扉を閉じた。
「大丈夫、俺も一緒にいく」
廊下は真っ暗になった。そして水を踏む音の後に、食糧庫の扉が勢いよく開く音がした。
「え?あ、ちょっと!」
魔素分解したのに、君が入ったらやり直しだよ!床の水色の照明を掴んで、食糧庫に入る。暗がりの中を探してみると、人影はない。え、何処に行ったの?照明を振りかざして数歩中に進むと扉が閉まり、首に何かが巻き付いた。
「うぐ」
締め上げてくる平たいものに爪をかけるが、隙間は出来ない。背後から乾いた笑い声が聞こえた。
「これで人殺しなんて、いよいよだな」
青年の腰にあったベルトか。背後に向かって照明を振ってみるが、当たった感触はない。そしてベルトは首をさらに締め上げてきた。
「大丈夫、死ぬのは一瞬だから、痛くない……!」
「ふ、は……かは」
首からきしむ音がする。息が続かず膝が砕け、喉に頭の重さがのしかかってより苦しくなった。右の耳にぬるい何かがふれる。星がちらつく視界の中で、右の耳元に青年の声が聞こえた。
「もう爆発事件は起きない。お前を雇った連中も喜ぶ。さっさと」
息を無理やり呑んで、右の拳を耳のそばに振り上げる。何かがぶつかる衝撃に合わせてベルトが緩んだ。その隙にベルトに指をかけて前に転がった。息を整えようと肺を出来る限りへこませると、後ろから唸り声が聞こえた。
「さっさとおちろよぉおおお!!」
「うぎゃあぁあああ!!」
ふり返ると、鼻血まみれの青年の顔が暗闇から突然現れた。絶叫し、顔めがけて脚が動いた。足の裏に何かぶつかり、その後に何かが転がってぶつかる音がした。
「……へ?」
そして音が聞こえなくなった。いつの間にか閉じていた目を開いても、青白く染まった白い箱の角以外は真っ暗で、動くなにかの気配もなかった。
「え?なに、なに?!どういうこと?!」
暗がりを這って照らしまわってみると、壁際に力なく手足を投げだした青年を見つけた。肩を掴んで顔を確かめるが、揺らしても起き上がる気配がなく、鼻血はだらだらと床に染みを広げていた。
動揺を吹き飛ばすような気付きが頭を駆け抜けた。
「……て、手当しなきゃ!」
鼻血でこの出血はまずい!青年を倉庫から引きずり出し、鼻血の手当をした。ついでに、彼の顔を濡らす涙も拭いてあげた。
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