物語への思い(ひとよんで「たわごと」という)ーひとやすみの回2ー
その辺のどこにでもいる人間である僕とその作品の使命は「泡沫夢幻」ではあるが、世の中にひとつでも、小さくても何かしら還元できるといいなあ、とお馬鹿なりに考えて作っていたりする。そこには「温故知新」の思いもあるし、「清濁併せ呑む」というのが結構毎回のシリーズ統一主題かもしれない。
他に人生の相聞(※1)を軸に、「人間万事塞翁が馬」、「損して得取れ」、「急がば回れ」という僕の好きなことわざの意味の思いもそこには込められている。後者の三つはどれも突き詰めていけば、「世の中に無駄なことなどなにもない」ということにも繋がる(そうでないと僕の人生報われない・笑)。さらにこれらの個人的解釈は「失敗してもまじめに生きようね。次があるよ」という僕のモットーである。
あきらめとも、負け犬の遠吠えとも思えるけど、これはこれで自己肯定感を持ったポジティブライフである(笑)。チャレンジやリベンジを忘れない気持である。
さて本題。
文科省は一部文学のすばらしさを取り入れたプログラムに国語の授業を寄せていくそうだ(※註2)。僕の中ではずっと行き先不明の方針だったのに、この方針は大賛成である。マスコミの記事での説明や解説では、AIではなく人の頭で考えた文章の多様な表現方法を大切にしていくということが多く述べられていた。素晴らしい発想で、大賛成である(僕ごときに称賛されても嬉しくはないと思うけど、批判よりはいいよね。ポジティブ発想・笑)。小説や詩歌、そして物語のすばらしさは文字を使った芸術文化であり表現方法である。
昨今の社会では、大学は文学部を廃したり、マスコミは評論文の客観性に正義があると言ったりしてきたけど、僕は両極端じゃないほうがいいと思う。随筆や物語文にだってニーズはある。文化にバイアスはいらない。絵画ならキュビズムや点描とそれに対する写実や古典の対立は両方あって成り立つのである。絵画も文学も選択肢は多い方がいい。ロックがあれば、クラッシックやジャズがある。多くの音楽があるからともに競い合い切磋琢磨して、良い作品や話題作が生まれて選ぶ楽しみが増え今日がある。
職業だってそうだ。資格と高収入のための場所に皆がそこにいっぺんに集まってしまったら、やがてそれは朽ち果て、枯れ果てる。経済ではそれを「供給不足」で「需要過多」という。世間的には「希望業種の適正不一致」が始まり、「一極集中化で産業が瓦解する」、「流行が廃れる」という表現をする。そして次の人気にとって変わるものが生まれ、また人々はその人気の職業へと群がる。これが時代や社会の新陳代謝なのだろうけど、いいことか悪いことかは僕には判断つかない。
そういう意味では僕たちはアカデミズムやリベラル・アーツを授業の中で接することが出来た、あるいは感じられた最後の世代なのかなあ、と感じる。ただその後の世の中が、それを必要としないという風潮の中で、それらが履修科目や放送局のプログラムから消えていったに違いない。こういう時代だからこそ、文学や芸術を大切にしたいと思う。全部が資格講座や演芸バラエティ番組ばかりというのもいかがなものかと感じる。
なんて大した知識もないし、社会派でもない僕に、こんなこ難しい考察を真剣には出来ないけど、資格取得に一辺倒化している昨今の高等教育の方針に対して、かの方針が一石を投じた妙案であることは間違いない。資格取得や検定試験だらけの世の中の対極軸にある芸術や人文の教養的な楽しさも残してほしいというのが、細やかな僕の願いである。でもまあ昨今の時代相や風潮からか、みんな食べていくためには仕方ないのかな? なんて角度を変えて思うこともある。
でも、「実学」とは対極の位置にある「教養」。それって本当に大切だ。それがおざなりにされると秩序が崩壊したり、消滅したりする。地域社会やその土地の歴史そのものが消え去る。支え合うという意味での感動や愛情、友情も薄らぐ。
「産土さま」ってなんだか知らないとか、「神明さま」ってなんだか知らないっていう人が実際多数を占める世の中になった。生まれた時に集落でお世話になった神さまだってことや、お伊勢さまを祀る神社だって言い方なら理解してくれるのだが、単語自体の意味は結構忘れられている。これってそもそも神道などの宗教人だけが、もともと知っている言葉ではなかったはず。「千歳飴」、「お食い初め」、「三々九度」に「記紀神話」。これらは宗教儀式やそれらの知識でもあるが、生活儀礼という性質を持ったものでもあったはずなのだ。
そんな古えから続く伝統文化と生活上の儀礼を楽しくエピソードに取り込みながら、今風のジョークや物語として楽しみを主軸にして文学や小説、物語にできたならなあ、というのが僕の創作意欲と出発点である。だから芸術や音楽でも文学でも生活でも、どこか伝統文化に結び付けながら創作小説に持ち込んでいる。
その昔、鈴木三重吉が(『赤い鳥』上梓のあれです)子供向けの児童文学分野で『古事記』を編纂したように、「大人向けの娯楽として伝統を織り交ぜられるといいな」というのが僕の物語創作の出発点である。まあ「ユング的なリビドー」ということなのかな? 創作心のエネルギーである。社会のごく一部に、ほんの少数の人でもその味付けに気付いてくれたらいいなあと思って各作品を生み出している。
まあそんな僕の世迷言が今回のお話。「泡沫夢幻」の戯言と思ってこの場でご放念くだされ(笑)、って感じで今回はこれまで。ああ、夢幻でもいいから美の女神とお酒を飲みに行きたいなあ。おあとがよろしい様で。ではまた。
※註1 相聞 無事な便り。問いかけと応答。恋愛慕情。万葉集における歌のジャンルにあてはめてます。
※註2 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20260514-GYT1T00457/




