リズのまどろみ
小さな私は、暗がりの部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまっている。
紺色のドレスに、涙が染み込んで、色濃い跡をつける。
ここなら誰も来ない。
我が家主催の晩餐会、来客にうまく言葉を返せず、お父様にひどく叱られた後のことだ。
「挨拶ひとつできないとは、クロムウェル家の令嬢として、不出来にすぎる」と。
お母様は「まだ10ですよ」と取りなしたが、お父様の怒りはおさまらず、パーティーの場からでていくように言われた。
私とちがって、お姉様はとてもうまくできる。
まだ、社交界にも出ていない年だけれど、大人たちの輪の中でにこやかに談笑して、人を惹きつける。
お姉様は私の頭をなでて「リズの代わりに私がやるから大丈夫」と言ってくれる。
私には私のいる場所がない。
灯のない部屋の天井を見上げる。
この部屋の暗さと静けさだけが自分の友達だと思うと、寂しさで押しつぶされそうになった。
何も言わぬ暗さが部屋を包み込む。
その時、部屋の重い扉が勢いよく開かれ、オレンジの光が差し込んだ。
「あ、リズ!こんなところにいたんだ!」
幼馴染のカイルだった。そのまま私の近くまで駆け寄ってくる。
無言で顔を伏せる私を、彼は少し困ったように、けれど太陽のような明るさで覗き込む。
「こんな暗い場所でうずくまってたら、俺でも見つけるのに苦労するよ」
実際苦労したのだろう、カイルのシャツは葉っぱやほこりに塗れている。
「……ごめんなさい……」
震える声で謝る私に、カイルは悪戯っぽく微笑んで近づく。
心地よい陽向の匂い。黄金の瞳がキラキラと光る。
「いつでも俺が見つけるから大丈夫!」
その屈託のない笑顔に、心が少し暖かくなる。
「カイル……ありがとう」
涙を拭う私に、カイルは白い布の塊を差し出した。
「これをあげるよ」
「これは?」
カイルは白い塊を広げる。それは大きなローブだった。
「家から持ってきたんだ。リズに似合うと思うんだ!着てみて!」
促されるまま、ローブに袖を通す。
自分には大きく、袖元は少し余るが、分厚くしっかりした布の重みが心地よく、守られているように感じた。
「やっぱりリズには白い服が似合うね!くるっと回ってみて!」
私は言われるがままに、部屋の真ん中でくるりと一回転した。
床に届きそうだったローブの裾がくるりと円を描く。
「うん。やっぱり似合ってる。これなら、リズがどこに隠れていても、俺がいつでも見つけてあげられるからさ!」
カイルのどこまでも明るい笑顔が、凍てついていた私の心をじわりと溶かしていく。
彼が私を「見つけてくれる」と言ってくれただけで、世界は暖かくなった。
だが、光に満ちた光景は一瞬にして闇の場面に反転した。
気づけば、大きくなった私は町中で、石畳にうずくまっていた。
澱む空気の中、傷だらけの腕で自身を抱えていた。
カイルからもらった白いローブは黒く染まり、自身の髪も黒く、町もまた暗闇で覆われる。
「ひっ……なんだ、あの顔」
「うわっ……かわいそうに……」
周囲から降り注ぐ好奇と蔑みの視線が、私の心を切り裂いていく。
逃れたくて、手を伸ばしても誰にも届かない。
(やっぱり……私には私の場所はないんだ……)
絶望が私を飲み込もうとした、その時。
「……ようやく、見つけたぞ……リズ!」
降ってきたのは温もりを持った懐かしい声。
顔を上げると、逞しくなったカイルが立っていた。
あの時と同じ黄金色の瞳で私を見つけてくれた。
傷だらけで、髪もローブも黒く染まった私を。
その事実だけで、世界は再び温かさを取り戻し、鮮やかな色が溢れ出した。
私は色に押されるように立ち上がり、彼の胸へと飛び込んだ。
「――っ!」
カイルは満面の笑顔で、私の全身を力強く抱きとめてくれた。
鼻に香るのは、ずっと焦がれていた、あの懐かしい日向の匂いだ。
傷だらけの私を、カイルは暖かく抱きしめてくれる。
「もう大丈夫だ。どこへも行かせない」
耳元で彼の低く甘い声が響く。
力強い抱擁。
今まで求めていた温もり。
ローブ越しに伝わる熱に身を委ねる。
そうして凍りついた心が柔らかに溶け出す。
「――っ!」
がくん、と大きく上体が揺れ、私はまどろみから引き戻された。
目を開けば、見慣れた診療所の風景が広がっていた。
窓から差し込むのは秋の柔らかな日差し。
私は机に頬杖をついたまま、うたた寝をしていたのだ。
「……夢か……」
鮮明な夢に熱くなった頬を、恥ずかしさを紛らわすように片手でパタパタと仰いだ。
淡い青のコットンワンピースのスタンドカラーから熱気が逃げる。
ここは、王都オムニスの一角にあるささやかな診療所。
白い漆喰の壁が高い天井へ伸び、窓から差し込む秋の陽光を照り返す。
金木犀の甘い香りと、干した薬草の清涼な香りが混じりあう。
棚に並ぶ薬瓶は、日差しを受けて色とりどりにかがやく。
今、私の居場所はここにある。
かつての暗い部屋から抜け出て、私はいるべき場所で、やるべきことをやれている。
ようやく手に入れた穏やかな日々に私は感謝していた。
それでも全てが満たされていたわけではない。
大事なものが欠けていた。
私を暗い部屋から連れ出してくれたカイルがこの場にいない。
それがようやく終わりを告げる。
あのアントラーの夜から、一年。
王都を離れ、辺境の任務に就いていたカイルが、今日、ついに戻ってくるのだ。
(だから……だから……あんな夢を見てしまうのも、仕方ない……)
夢の中で抱きしめられた感覚がまだ体に残っている。
その鈍くて甘い感触に、いたたまれなくなって、椅子に座ったまま膝を折る。
柔らかな日差しの中、椅子の上でエプロンごと丸くなった私は、抱きしめられた感覚を反芻して、独りひそかに頬を染めていた。
カイルは一年ぶりに城門を見上げていた。
王都オムニスの名物、白い城門は、北方の辺境で孤独な日々を過ごしてきたカイルには眩しすぎた。
城門の前で馬から降りたカイルは、この城門の白は、あの冷え切った絶望の雪原と同じ白だというのに、どうしてこうも違って見えるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えてしまう。
(ようやく、会える……!)
無期限の北方警護の任務は、一年が経過しようというタイミングで、突然終わりを告げた。
ヨハン王子から「即刻帰還せよ」という命を受けとり、北方司令部への挨拶もそこそこに、早馬を飛ばして王都へと駆け戻ったのだ。
すぐさま帰還の報告をすべきだが、どうしても一目、リズに会いたかった。一年待ったのだ。
辺境での任務中、幾度かリズからの手紙を受け取った。
曰く、王都で小さな診療所を開いた――と。
また、能力に頼ることなく、治療しているから心配しないでほしい――と。
カイルはリズの細く優雅な筆跡の手紙を何度も何度も読み返していた。
そこには診療所の住所も書いてあった。
何度も何度も読んだので、完全に覚えている。
王都の北東、静かな街区。
そこは、貴族の別邸や古い学舎がたち並ぶ、落ち着いた一角だった。
街路を進むと、金木犀が香る。
秋の陽だまりの中、小さく白い建物が見えた。
リズそのもののたたずまいの様な外観を見て、カイルの頬がほころぶ。
秋空の澄んだ青に映える、白い漆喰の壁。
門から玄関へと続く小道には、様々なハーブが茂り、その間を縫うように白い小石が敷かれている。
小石の向こうには緑のドア。
看板も何もない。
限られた人だけが知る診療所。
「……リズ」
はやる気持ちを抑えて、カイルは小石を踏みしめて、緑のドアへと向かう。




