カイルのまどろみ
カイルは淡い白銀の光の中にいた。
(ここは?)
部屋とも大地ともつかない場所。
どこまでも広がる光の中、仰向けに横たわっていた。
鎧はつけておらず、亜麻の肌着だけをまとっていた。
ゆっくりと上体を起こそうとした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
見れば、白い肌着に赤黒い血が滲んでいる。
まくり上げると、肌着が乾いた血が剥がれる感触とともに、鍛えられた腹が露わになる。
その脇には、刃で斬り裂かれたような傷があった。
まだわずかに血に濡れた生々しい傷口。
(なぜこんなところに傷が?)
ぼんやりとその傷を見つめていたカイルの意識は、柔らかな感触によって染め上げられた。
絹のように白く滑らかな掌が傷口に触れた。たおやかで繊細な指。
「……カイル……」
鈴の音のような、柔らかな声が耳に入る。
カイルの目に、海の色をたたえた瞳が飛び込んでくる。
片時も忘れたことのないリズの青い双眸。
自分の横で、リズが真白な薄手のドレスを着て、足を横に投げ出して座り、心配そうに彼を見つめていた。長いドレスが足を隠しながらも、その肢体の曲線を形作っている。
ドレスから覗く足首には一本の赤い傷が誇らしげに浮き出ていた。
月の光がひところに集まったようなその清廉さに、カイルは息を飲んだ。
カイルが見たことがないリズの姿。
リズが長い睫毛を伏せて、カイルの傷口を見つめ、そっと撫ぜていく。
傷一つない彼女の真白い手が、カイルの血に塗れた傷口の上を滑っていくと、傷は何事もなかったかのように消えていく。
痛みが引き潮のように消えていく。リズの指はなおもカイルの鍛えられた肌を撫でる。
その引きずるような感覚に、体の奥底から強い衝動がこみ上げてくる。
「っ……リズ」
思わず彼女の手首を掴む。真白く、傷ひとつない彼女の素肌を。
「……カイル?」
カイルはそのまま、腕を引き寄せ、彼女との距離を縮める。
吐息のかかる距離。
「カイル……?あ、あの……ち……近い……です」
リズが戸惑いとともに、頬を染めると、甘い匂いが立ち上り、カイルの衝動をさらに駆り立てる。
掴んだ手首から伝わる、彼女の確かな鼓動。
自分の鼓動が彼女の高鳴りに同調するのを感じる。
(……リズ……俺のリズ……もう……離さない)
カイルは衝動のままに、彼女の華奢な肩を引き寄せる。
銀糸のような髪がカイルの頬にかかる。
カイルはくすぐったさを感じながらも、銀糸を分け入って、その小さな唇にまでの距離を縮める。
ガタン。鈍い音と共に、カイルの身体は冷たい床に落ちた。
目を開けば暗い石造りの部屋。北風が外の木々を震わせる音が聞こえる。
「くそっ!夢か……」
カイルは顔を覆い、呼吸を整えて、手を見つめなおす。
拳を握り、開き、また握り直しながら、夢の中で掴んだ彼女の手首の柔らかさを思い出す。
だが、手が掴むのは冷え切った空気だけだった。
カイルは深い溜息をついて、床から立ち上がる。
調度品などなく、せいぜいベッドと粗末な椅子とテーブルがあるだけだ。
昨晩、かじった干し肉と硬いパンが散らばっている。
扉が軋む音と寒さのせいで、もう一度寝入る気にもならず、カイルは外套を手に取り、扉を開け外に出た。部屋に容赦ない雪混じりの北風が吹き込む。
ここは北方辺境の防衛拠点。
目の前に広がるのは、荒涼とした大地。亡霊のようにポツポツと立つ枯れ木を風雪がさいなんでいる。
切り裂くような冷気が、彼の頬を叩き、夢の温もりを容赦なく奪っていく。
カイルは、遠くから響く波音に誘われるように、歩を進めた。
辿り着いた断崖の先には、灰色の冬の海が広がる。
逆巻く白波は全てを拒絶するようにどこまでも荒れ狂う。
思えば今日は満月だ。銀盤のような月は、リズを思い起こさせる数少ない喜びだが、それも今は厚い雲に隠されている。
ここには、自分が守るべきなにかも、戦うべき敵もいない。
ただただ、孤独な魂の牢獄のようだった。
「拘留と言うよりは流刑だな……」
自嘲気味に呟いた白い吐息が、鋭い北風の中に消えていく。
あの夜、アントラー侯爵邸の燃える篝火の下で二度と失わないと誓ったものの、その決意とは裏腹に、リズと会えなくなって、三ヶ月もの月日が流れていた。
アントラー邸での奪還劇は、無視できない火種となった。
黒い噂の絶えないベラム・ゲセンとはいえ、有力な侯爵が瀕死の重傷を負ったのだ。
王家への累が及ばぬよう、カイルは職を辞したが、それは結果の前には虚しい弁明でしかなかった。
あの夜、リズとの晩餐の後、宿屋を出た二人を、ヨハン王子が待ち構えていた。
兵たちを背に立つ王子が、厳しい表情で二人に近づく。
「カイル・ケストラ。当面、北方辺境の防衛任務を命ずる」
ヨハン王子はカイルに急な辞令を下した。
期日も定められない防衛任務は懲罰的な左遷を意味していた。
カイルは顔をこわばらせて頭を下げた。
「……謹んで拝命いたします」
冷たい宣告とは裏腹に、王子の目はいたわりに満ちている。
カイルはその視線に、王子の計らいを感じ、目を伏せて応えた。
これだけのことをしでかしたのだ。
本来は死罪でも文句は言えない。
王子はリズに慈愛の瞳を移し、告げる。
「エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル令嬢。事情は聞かせてもらった。
あなたの身柄は王家が庇護する」
そして、王子はカイルとリズに近寄り、小さな声でそっと優しく告げた。
「ほとぼりが冷めるまで、カイルにはしばらく王都を離れてもらう。だが、私が二人を引き裂くような非常な人間だと思わないでほしい。かならず二人の時を約束しよう」
その時の王子の温情の言葉を何度も反芻して、北の大地の一日一日を過ごしている。
風に吹かれた雪片が目に入り、視界がゆがむ。
責任を取るのは当然のことだ。それだけのことはした。
それよりもカイルの胸を苛むのは、自らの誓いを果たせなかったことだ。
自分はリズを守れなかった。むしろ守られたのは自分の方だった。
騎士として、男として、彼女を守るという誓いを守れなかった。
5年前のあの時、胸を灼いた悔恨。それを忘れず、彼女を守れるよう、自らを鍛えてきた。
自らの誓いを二度も果たせなかったのだ。
その罪のためならいかなる罰も受けよう。
さらにもう一つ、彼の心を重くする深い負い目があった。
自分はリズという女性を、ただ、か弱く、守らねばならぬ存在としてしか見ていなかったのではないか。
結果として、自分は彼女を救うことはできず、逆に、彼女は自分を救ってくれた。
自らを犠牲にして。
それは彼女が宿した特別な力のおかげかもしれない。
人の傷を癒し、相手に返す不思議な力。
だけれど、カイルは、カイルの魂は、それ以上の真実を理解していた。
彼女の強さは、その超常的な力にあるのではない。
絶望の中でも失われなかった心の優しさ、他者を想い、慈しむ高潔な精神。
それこそが、彼女の気高い強さだ。
(俺は……彼女の強さに値する男なのだろうか)
(俺に……彼女を愛する資格があるのだろうか)
凍てつく大地に立ち尽くし、カイルは終わりのない自問を繰り返していた。
罪悪感と無力感の荒波に呑み込まれそうになりながらも、心の奥底を占めるのは、やはり狂おしいほどのリズへの熱い想いだった。
「リズ……」
凍えた唇から、愛おしい名が零れる。
カイルは荒れ狂う海に背を向け、南の空を仰いだ。
分厚い雲に覆われた暗い空の遥か彼方、王都オムニスに彼女はいる。
王家の庇護があれば、彼女の身の安全は保障されているはずだ。
頭では分かっている。
守ろうという気持ちも自分のわがままにすぎない。
それでも、カイルは自分自身の手でリズを守りたかった。
なによりも彼女の隣にいたかった。
(いつ彼女の下へ戻れるのだろうか……)
この地での任務の期限は定められていない。
この三ヶ月だけで、魂が乾いていくのを感じる。
自分はどれだけ耐えられるのだろうか。
リズがあの夜、別れ際に見せた、消え入りそうなほど悲しげな笑顔。
(あの時、自分はどんな顔をしていただろうか……)
自分の心に問いながら、カイルは荒れ果てた石造りの建物へとその重い足取りを消した。




