ベーコンと猫と暗がりの蛇
宿屋の一角、使い込まれた木のテーブルの上には、うら若き女性の食事とは思えない光景が広がっていた。
「はいよ。いつもの特盛りだ」
威勢の良いおかみの声と共に並べられたのは、香ばしく焼き上げられた鶏肉のソテーに、脂の乗った分厚い豚肉のロースト。そして、指の太さほどもある自家製ベーコンの厚切り。熱い鉄板の上で脂がパチパチとはぜる音を響かせ、燻製の香ばしい匂いが部屋中に充満する。
皿の隙間が見えないほどに積み上げられた肉。
大食漢を自負する騎士のカイルでさえ、圧倒される量だった。
だが、そんな彼の目の前で、純白の美貌を取り戻したリズは、優雅な所作で次々と肉を平らげていく。
カイルが信じられないような目で見つめる。
「……っ。ごめんなさい……です。力を使った後は、どうしても、その……お腹が空いてしまって……」
リズが申し訳なさそうに眉を潜めるが、フォークは止まらずに分厚いベーコンを口に運んでしまう。
「す……すまない。いや、見ていて気持ちいいよ」
カイルは慈しむように見つめた。
その黄金色の瞳には、隠しきれない愛しさがあふれている。
リズはその目を見て戸惑いながらもベーコンを飲み込む。
「は……恥ずかしいので、あまり見ないでください……です……っ」
リズは真っ赤になって顔を伏せる。
かつては傷で隠されていた、その透き通るような赤色に、カイルは目を細めた。
「リズがおいしそうに食べているのを見るのは、俺の幸せなんだ」
「あ……ありがとう」
真っ直ぐな言葉に、リズが言葉を詰まらせてさらに赤くなったその時、足元から、弱々しい「ニャア」という鳴き声が聞こえた。
見れば、白黒の看板猫が、片足を引きずりながら痛々しげに近寄ってきている。
「猫ちゃん……その足、どうしたんです……?」
「あぁ。ボス猫と喧嘩したみたいでね。まぁ、そのうち治るだろうよ」
おかみの言葉が終わるより早く、リズは椅子から滑り落ちるようにして、猫の傍らに膝をついて、指を差し出す。
「大丈夫……ですよ。おいで」
猫が、白く柔らかな指先をすんすんと嗅ぐ。
リズはゆっくりと、猫の毛並みを優しく撫でて、そのまま、流れるように、猫の傷ついた足にそっと触れる。
「痛いの痛いの飛んでいけ……です」
リズの手のひらから禍々しい黒い塊が溢れ出した。
それは猫の傷を吸い出し、蛇のようにリズの足首へと這い上がっていく。
黒い泥が消えた時、猫の傷は消え、リズの真っ白な足首に、赤い新たな傷跡が刻まれていた。
「リズ……!お前、また……!せっかく綺麗になったのに、どうしてそんな!」
カイルが悲鳴のような声を上げ、彼女の肩を掴む。
だが、リズはきょとんとした顔で彼を見上げた。
「どうしたのですか?」
リズは自分の肌に刻まれた傷など気にせず、ただ、猫を抱いて年相応の少女らしい純粋な微笑みを浮かべていた。そのあまりにも残酷な優しさを前にして、カイルは深く溜息をつき、首を振った。
「……いや、いい。なんでもない」
カイルは呆れたように笑い、けれど今までで一番優しい手つきで、彼女の髪を撫でた。
「俺は、そんなリズが好きだったんだな」
「なっ……!何を、急に……っ!?」
不意にこぼれた愛の言葉に、リズの頬は咲き誇る薔薇のように爆発した。
その拍子に、猫が驚いて飛び出し、食堂の奥へと逃げていく。
慌てふためくリズと、それを見て今度こそ心から楽しそうに笑い声を上げるカイル。
5年間の凍りついた二人の時間が、ゆっくりと溶けていく光景だった。
アントラー領主館、その最奥。
贅を尽くした主寝室は、今や死臭と薬品の交じり合った匂いに満ちていた。
一命を取り留めたベラム・ゲセン侯爵は、寝台の天蓋を見つめたまま、浅い呼吸を繰り返している。
体を焼くような激痛。リズが肩代わりしてきた数千の傷の苦痛が、彼を蝕んでいた。
「クソっ……私がこんな目に……」
苦痛に歯を食いしばり、みしりと音を鳴らす。
「……あ、あぁ……。く、くく……っ」
傷でねじくれた唇から、乾いた笑い声が漏れる。
傷だらけの腕を震わせながら天蓋へ向けて伸ばし、宙を掴む。
「傷を癒し……傷を与える力……なんという……なんという、崇高な力だ……」
彼は空を掴んだ自らの拳を狂おしげに見つめた。
「欲しい。……あの力!かならず手に入れる!必ずだ!……ゴフッ!」
激しく咳き込むと、純白のシーツにどす黒い鮮血が飛び散った。
暗い寝室に、蛇が這いずるような粘り気のある執念が満ちていく。
その淀んだ空気の中で蛇の牙は昏く研がれていた。




