傷跡令嬢のリバーシ(1)
ベラム・ゲセン侯爵邸の豪奢な応接室に、リズは座っていた。
テーブルには、贅を尽くした料理が並んでいる。
だが、リズは冷え切った目でそれらを見つめていた。
「そうおびえずともよいでしょう。私は、自分の宝は大事にする性質でね」
向かい側に座るベラム・ゲセン侯爵は、ガーネット色のワインを揺らしながら、リズを値踏みするように見つめる。リズはこの男に所有物のように見られていることが、嫌でたまらない。
ベラムは上機嫌で持ちかける。
「その力で商売をしてみませんか?金持ちの貴族連中が列を成すでしょう」
リズは沈黙のまま、拒絶の視線を返した。
「どんな金持ちも、自らの健康のためにはすべての財を差し出すもの。あなたの力にはとてつもない価値があるのですよ」
「私はこの力を金儲けのために使おうとは思いません……です」
熱っぽい勧誘を、リズは震える声で切り捨てた。
ゲセン侯爵は心底理解できないといった風に、大仰に肩をすくめてみせる。
「何故だ?金には苦労しているように見えるが?」
「貴方のような方に、分かっていただこうとは思いません!」
侯爵が冷笑を浮かべ、沈黙の時が流れた時、遠くから怒号と金属音が響き渡った。
「何事だ」
問いに答えるように、老執事が転がり込むように入ってきた。
「も、申し訳ございません……何者かが襲撃を……!単身のようですが、兵が押されており……」
その言葉が終わるより早く、応接室の扉が大きな音ともに蹴破られた。
「リズッ!!」
現れたのは、鬼気迫る表情を浮かべたカイル・ケストラ。手に握られた大剣はおびただしい血に濡れ、彼自身の身体にも無数の切り傷が刻まれている。
口を覆った両手の隙間から、リズの叫びが漏れる。
「カイル……!なぜっ……!」
鬼神のようなカイルの表情が一瞬緩む。
「リズ……」
だが、すぐに険しい顔を取り戻し、侯爵に告げる。
「アントラー侯爵べラム・ゲセン!リズを返してもらおう!」
「やれやれ何という野蛮な闖入者だ。無論、お断りする」
「……力ずくでも、返してもらう!」
カイルが剣を構え直す。
侯爵は落ち着き払った動作で腰を上げ、あざ笑うようにカイルへと近づいていった。
「困りましたな。これでは交渉になりませんな……」
「貴様と交わす言葉などない!」
カイルは数歩先に対峙する侯爵に言い捨てる。
侯爵は呆れた風に肩をすくめ、手をだらりと下げる。
「なるほど。ですが、私は彼女の力に惚れ込んでいましてね。……ちょうどいい。彼女の力がどれほどのものか、実験に貴方に協力してもらうとしましょう」
「何を――」
侯爵の手がジャケットの懐へ滑り込み、鈍く光る金属の塊を取り出し、その筒先をカイルに向ける。
そして耳をつんざくような音が応接に鳴り響く。
カイルの身体が、後ろに大きくのけぞった。
「私は珍しいものに目がなくてね……これは『銃』……西方で開発されたホイールロック式拳銃と言います」
硝煙が漂う中、侯爵は細かい装飾の銃を見せびらかした。
「あ……が……っ」
カイルの厚い胸板から血が噴き出し、彼は重たい音と共に、仰向けに絨毯へ倒れた。
「カイルーーーーーッ!!」
悲鳴とともに、リズはなりふり構わず彼のもとへ駆け寄った。
「この国では見ることのできない珍しい武器です。
貴重な弾丸を使ったのです。それにふさわしい光景を見せていただきたいものです」
蛇のような男は酷薄な笑みを浮かべ、指揮者のように優雅に手を広げる。
「さて、貴女の『奇跡』……再び見せていただきたい。どうぞ、その男の命の灯が消え果てる前に」
「はぁ、っ……や、やめろ、リズ……。もう、傷つく必要は、ない……っ」
溢れ出る血を吐き出しながら、カイルが弱々しく手を伸ばした。
リズはその手を両手で握りしめ、必死に首を振る。
「喋らないで、カイル!すぐに、今すぐに治しますから!」
「いいんだ……俺はもう一度、リズに救ってもらった……」
「!?」
リズは目を見開いた。
「……あの時、俺を救ってくれて……ありがとう……」
不意に落ちた感謝の言葉に、リズの思考が止まった。
「知っていたの……!?」
「もちろん……」
カイルの瞳には、長年にわたって積もった感謝と愛情の灯があふれていた。
カイルは震える手でそっとリズの左目の傷を撫でた。
「ずっと……伝えたかった……俺の想いも……生きていてくれてよかった……ありがとう……リズ……」
「カイル……っ!」
リズは零れ落ちる涙を拭いもせず、彼の胸に両手を当てた。可憐な唇がきつく引き締められる。リズの祈りに応えるように、両の手から濃い黒の塊が溢れ出した。
ドロリとした塊が、カイルの分厚い胸元を素早く包み込む。
「やめろ、リズ!これ以上……君が……苦しむことはない!」
カイルは必死にリズの腕を押し戻そうとする。
だが、リズの決意は揺るがない。
「私が救います!」
赤い火花が散り、黒い塊が宙に浮く。
その禍々しい塊は、リズの胸元へと吸い込まれ、彼女の柔らかな肌を赤黒く苛んだ。
「う、あぁ……っ!!」
リズは痛みに身を震わせ、肩で息をする。だが、かろうじて崩れ落ちるのを耐えた。
荒い息をこらえながらも、傷だらけの手をカイルの胸に触れ、指でそのたくましい胸板をなぞる。先ほどまであったむごたらしい銃の傷は消えている。指に伝わるのは、力強い刻まれる鼓動。
「リズっ!!」
「良かった……」
リズは、カイルの無事を確認したことで緊張の糸が切れ、その場に倒れ込んでしまった。
「すばらしい!実にすばらしい!」
高価な銃を弄びながら、ベラムがゆっくりとリズに歩み寄る。
「瀕死の重傷さえ瞬時に癒す。戦場においても、政治の場においても、この価値は計り知れんな……これほどの宝が手に入るとは……良い夜だ……」
ゲセン侯爵が喜悦の笑みを浮かべ、弱り切ったリズの手首を乱暴に掴み上げた。
瀕死の重傷を吸い取ったリズ。
その目は光を失い、体は人形のようにだらりと垂れ下がる。
黒いローブとバサリと垂れる黒髪が、死の影を落としているように見えた。
「リズ!」
カイルの顔が絶望に凍り付せながらも、立ち上がる。
「これはまたとないコレクションだ!我が宝にふさわしい!」
リズの容態を気にもせず、賞賛する侯爵の酷薄な声が部屋に響く。
「貴様!」
カイルが食い殺さんばかりの勢いで侯爵ににじり寄る。
だが、侯爵は左手でリズの腕をつかんだまま、銃を再びカイルの胸元に向ける。
「2度も撃たれるつもりか?次は治るか分からんぞ?」
カイルは苦しげに銃口を見つめる。だが、その視界の端にきらめくものがあった。侯爵に腕を掴まれたままのリズの目が光を取り戻していた。
(リズ……!!)
カイルは泣きそうな目でリズの瞳を見つめる。
(あぁカイルが無事で良かった……)
混濁する意識の中でリズは思った。
でも、カイルはまだ苦しそうな顔をしている。
何故だろう?
暗くなりかけた視界を上に振り、侯爵に向ける。
そこには再びカイルに向けられた銃口があった。
それを見た瞬間、リズの意識は泥濘から引きずり出された。
(カイルが危ない!)
リズの心の奥底に光が灯る。
(カイルを……私の大事な人を……これ以上、傷つけさせはしない)
心に灯った思いはみるみる、膨れ上がっていく。
普段は夜の海のように穏やかなリズの目が、熱を持ち、猛り狂う。
嵐と踊り狂う波濤のような激情。
リズはすっくと立ち上がり、掴まれたままの腕に力を入れ、逆に侯爵の手首をつかむ。
「もう立ち上がれるのか?!素晴らしいな!」
カイルに銃を向けたまま、なおも喜悦の表情を浮かべるベラムの表情を見て、リズは自身の心の鎖を断ち切った。
「……貴方だけは……決して……決して……許しませんっ……!」
リズの叫びが、周囲の空気を拍動させる。
そして、彼女の全身を、顔を覆う、ありとあらゆる傷跡――切り傷、ネジくれた古傷、刺されたような痕――そのすべてが、赤黒い光を放ち始めた。黒いローブがその不思議な光にあおられる。
「な、何だ……これは!?」
不可思議な現象に、侯爵がたじろぐ。
「コンウェルシオ・マキシマ……」
リズが古く失われた言葉を小さく口にすると、彼女の肌の上で、傷跡がミミズのように蠢き、這い回り、集い始めた。それらはどす黒い血の色の蛇となって、リズの肌を駆け巡り、浮き上がる。その線は、赤色から、漆黒の線となり、螺旋となって彼女の体の周囲に舞い、包み込むつむじ風へと変貌する。
リズは仇敵の腕を力いっぱい掴んで叫ぶ。
「……『リバーシ』!!!」
リズが、自身で絶対に使うことがないと思っていた力の名前。
全ての傷を反転させる力『リバーシ』
螺旋の速度はみるみる増し、黒いローブをはためかせる。黒く、禍々しいその風は、風切りの音さえも響かせつつあった。その風は、リズが引き受けてきた傷そのもの。黒いつむじ風はローブの、リズの髪の黒色をも吸い取り、より濃い漆黒の螺旋を形作る。積年の幾千もの傷が黒いつむじ風となって、ゲセン侯爵の体に襲い掛かる。
「ぐ、あぁぁぁぁっ!」
侯爵の悲鳴が轟いた。リズがこれまで吸い取ってきた数々の傷そのものが、襲い掛かったのだ。男の皮膚という皮膚に、切り傷が、刺し傷が、裂傷が、火傷が、あらゆる傷が無数に刻まれ、鮮血を撒き散らしていく。
つむじ風が過ぎ去った後、そこには変わり果てたゲセン侯爵の姿があった。
贅を尽くした衣装はズタズタに切り裂かれ、その下にあった潔癖な肌は、ありとあらゆる醜い傷跡で埋め尽くされている。全身から血が噴き出し、白目をむいて、あお向けに崩れ落ちた。
そして、暴風が止んだ中心に、彼女は立っていた。
カイルは息を呑むのも忘れた。
そこにはもう「傷だらけの黒い魔女」はいなかった。
彼女を呪縛していたどす黒いローブは、祝福された花嫁のケープのようにまばゆい白を放つ。
その光のローブからこぼれるのは、天界の糸を織り上げたような白銀の長髪。
窓から差し込む月光をきらめかせ、微かに残る風に揺蕩う髪は、滑らかに空を撫でる。
肌を覆っていた古傷は、跡形もなく、白磁を磨き上げたような滑らかさを取り戻し、月の光を透かす。
そこに差した淡い桃色の血色は、儚げな、そして芯のある美しさを湛えていた。
ゆっくりと、長い睫毛が震え、その瞳が開かれる。
潰れていたはずの左目には、夜の海を封じ込めたような瞳が宿っていた。
右目の輝きと共鳴し、その双眸が時を止める。
指先の一つ、睫毛の一本に至るまで、穢れのない完全無欠の美。
――エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル
慈悲に輝く銀白鉱。
彼女の令嬢としての名通りの、本来の姿だった。
リズは、ほぅと一息を漏らすと、そっと自身の白く輝く両の手をみやり、そして、カイルへと、穏やかな微笑みを向けた。




