カイルの悔恨
町の広場に立ち並ぶ多くの天幕、その中央にひときわ大きな白亜の天幕が、紺の紋章旗をはためかせていた。天秤と剣の紋章。子供でも知っているヴィア・ストライド王家のもの。
その天幕の入り口で、テオは喉を引き裂かんばかりに叫ぶ。
「お願いします!!騎士のにーちゃんに……カイル!騎士のカイル・ケストラに伝言があるんだ!」
その声に集まった兵たちが少年の行く手を阻む。
「坊主。どうした?ここは子供が来るところじゃないぞ」
「リズねーちゃんが大変なんだ!カイルのにーちゃんにどうしても伝えなきゃいけないんだ!俺、カイルのにーちゃんに頼まれたんだよ!」
テオは懸命に声をからす。必死ではあるが兵たちには何のことだかわからない。
兵たちが顔を見合わせていると、天幕の内側から柔らかな声がする。
「通してあげなさい。これほど必死な伝令を無視するわけにはいくまい」
「は!承知しました!」
兵たちに連れられて天幕の中に入ったテオが見たものは、テーブルと多くの椅子。広げられた地図と書類の数々。簡素に仕立てられた執務室のような空間だった。訓練の行き届いた兵士と文官がせわしく行きかう空間は、テオにはなじみのないものだった。
テオは自分が場違いに感じて、身を縮こまらせた。
テーブルの主は、豪華な衣装を着た大人だった。テオへ穏やかな微笑を向ける。
鋭くも、優しい笑み。金髪から除くエメラルドの瞳が気品を漂わせている。
「少年よ、報告を聞こう」
その堂々とした態度にテオは少し安心し、一気にまくしたてる。
「あの!リズねーちゃんが悪い奴らに捕まったんだ!にーちゃんに、すぐに伝えないと……!」
「落ち着きなさい。悪い奴らとは?」
「侯爵様だよ!リズねーちゃんが馬車で連れてかれたんだ!まだこの街にいるはず!」
その名が出た瞬間、エメラルド色の眼光が険しくなった。
「ゲセン卿……アントラー侯爵…か……視察に来て早々にこれとはな。カイルを呼べ」
傍らの兵に短く命じ、兵は即座に天幕を出た。
「頼むよ!カイルにーちゃんだけが頼りなんだ!」
「急くな、少年。カイルは確かに頼りがいのある男だが――こう見えて、私も少しは役に立つぞ?」
テーブルに両肘をつき、少年にいたずらっぽい視線を投げかける。
「……にーちゃん、誰なんだよ」
テオの純粋な問いに、男は落ち着き払って優雅に名乗る。
「ヨハン・ストライド。この国の第一王子であり、王太子である」
「えっ……」
思いかけない名前に、テオは息をのんだ。
1分もしないうちに、カイルが天幕に飛び込んできた。
「王子!お呼びでしょうか」
「カイル、勇敢な伝令兵の報告だ。……聞きなさい」
促されたカイルはテオに気付く。兜の隙間から見える表情に緊張が走る。
「テオ!?……リズはどうした!」
「ねーちゃんが……ねーちゃんが悪い奴らに連れていかれちゃった!助けなきゃ!」
テオが叫び終わる前に、カイルが鋭く問う。
「場所はどこだ」
「北西の門……でも、もうそこにはいないかも。おっきい馬車でつれていかれたんだ」
テオは申し訳なさそうに下を向く。
「アントラー侯爵の別邸だろう。上角区……北の街区にあるはずだ」
ヨハン王子の頭の中には、街の構造が入っているようだった。
「明日には面会し、ゲセン卿の疑惑を問いただす予定だったが……まさか、今この瞬間にも悪事を重ねているとはな……」
腕を組み思案する王子の前で、カイルは拳を握りしめる。
鎧の籠手の軋む音が響く。
「カイル、どうした?」
彼は王子の問いに答えず、膝をつき、王家の紋章が刻まれた鎧を脱ぎ、地面に置いた。
「王子……申し訳ありません。このカイル・ケストラ、たった今、近衛騎士の職を辞させていただきます!」
「何!?」
「これから私がやることは王家とは無縁。全て、私一人の責任です!」
言うが早いか、カイルは腰の剣を強く握り締め、翻した背中で風を切った。
王子の許しも待たず、夜の闇へと飛び出していく。
残されたヨハン王子は、しばし呆然とその背中を見送っていたが、やがてくすりと、楽しげに肩を揺らした。
「驚いたな……あの堅物が一人の女のために、全てを投げ捨てるとはな」
王子はゆっくりと腰を上げた。その瞳には、驚きと呆れ、それを上回る興味が宿っている。
「その女、会ってみたくなった――軍を動かすぞ。ゲセン卿は危険な男だ。カイルの身が危うい。隊長を呼べ」
王子は表情を引き締め、傍らの兵に命じた。
「はっ!」
兵たちに緊張が走る。
夕闇の街路、カイルはアントラー侯爵邸を目指し、駆けていた。
あれから5年、リズを探し続けていた。
近衛騎士として護衛の任務で、様々な土地を訪れるたびに、探し回った。
このアントラーの地で「傷を治す魔女」の噂を聞いたときは耳を疑った。
千載一遇の機会。そしてそれは間違いなくリズだった。
ようやく会えたというのに。
ここでリズを失うわけには行かない。
胸を締め付ける苦しみが、5年前の惨劇を思い起こす。
クロムウェル家が賊に襲われたあの日、カイルはリズを助けるために荒れる屋敷に飛び込んだ。
そこにいたのは賊というより兵のような男たちだった。
統率の取れた動き。紋章を隠した鎧。
まだ十五のカイルにとって手に負えない恐ろしい男たちだった。
暗がりの廊下をリズが駆けてくる。
廊下の向こうから鳴り響く金属音が襲撃の激しさを物語る。
リズも誰かに追われているようだった。
「カイル?!どうしてここに?」
「話は後だ」
カイルはリズの手を引いて、厨房の脇にある凹みに身を引きよせる。
地下貯蔵庫の扉が空いている事に気づき、リズをその中に逃がす。
「リズ……ここに隠れていてくれ。俺が賊を迎え撃つ」
「カイル!やめて!」
叫ぶリズを、地下貯蔵庫に逃がし、重い扉を閉める。
リズを守るべく、剣を構えるカイルの前に現れたのは、縮れた黒髪の男。
賊には似つかわしくない、流麗な身のこなし。とんでもない手練れ。
野盗にはありえない、流れるような剣技の持ち主だった。
カイルは数合も持たず、劣勢になる。
横薙ぎの強烈な一撃を受け、態勢を崩された。
そして、左目に熱い刃筋が走り、視界が朱に染まる。
体勢を立て直す間もなく、冷たい刃がカイルの喉を深く横に薙いだ。
「ゲフッ……」
致命の一撃を喰らって、カイルは仰向けに倒れる。
「筋は良いが……流石に幼いな……」
長髪の剣士は、周囲を見渡すと、再び館の奥へ駆けていった。
カイルは残った右目で、遠ざかる賊の背中を見つめる。
「……ぐ…ゴボっ……!」
喉を満たす血に、死を感じた。
だが、リズを賊の手にさらす恐怖が胸の内を占める。
扉を開けて、リズを逃さなくては……しかし、心の中の叫びも虚しく、指を動かすことすらできなかった。
薄れゆく意識の中で、カイルは懸命に叫ぶ。
(……リズ……を逃さなくては……リズを……)
だが、死の泥濘が、意識をさらに深い闇に引きずり込む。
その最中、不意に、温かな感触を頬に感じた。
「——っ!?」
痛みが吸い取られ、体の奥底から生命が沸き立つ。
傷口がふさがり、神経がつながっていく感覚。
斬り裂かれた左目すら、その光を取り戻していくのを感じた。
(これは……奇跡か……)
希望にすがりながら、薄目を開けるカイル。
ぼんやりと視界に入ってきた光景は奇跡ではなく、思いがけない絶望だった。
泣きはらすリズ。
その美しい左目は無惨に潰れ、喉にも大きな傷があった。
それは自分が負ったはずの傷。未熟さの代償。
何が起きたのかはわからない。ただ、リズが自分の傷と死の運命を負ったことを直感した。
(リズ……!)
叫びたいが、喉に詰まった血がそれを許さない。
失った血の多さに、意識が遠のく。
リズは地面に置いた白い本を手に取って、立ち上がり、屋敷の廊下を駆けていく。小さくなっていくリズの後ろ姿。
(リズ……すまない……せめて……無事でいてくれ……)
灼ける鉄のように激しい悔恨を胸に刻みながら、カイルは意識を失った。
あれから5年。
あの時の悔恨を糧に、肉体と剣技を鍛え上げた。そして揺るがぬ意思も。
交易都市アントラー上角区
アントラー侯爵ベラム・ゲセン別邸。
カイルは今、リズを救うべく、黒い館の前に立っていた。
見上げた先には、堅牢な石造りの建物がある。
無数の篝火に囲まれた邸宅は、禍々しいばかりの富と権益を誇っている。
(……あの時は、何もできなかった)
過去の痛みを思い起こして、喉に手をやる。
(だが、今は違う)
手で左目を覆い、リズに誓いを立てる。
(リズ……必ず助ける)
腰に差した大剣を抜き払う。
刃筋が篝火を照り返す。
「俺は……二度と……リズを失わない!」
カイルは黄金の瞳で、夜闇の中、煌々と照らされた不気味な扉を睨みつける。




