べラム・ゲセン侯爵の強欲
夕暮れ時、アントラーの雑踏に近づくカイルの姿を見て、リズの背すじは熱く、そしてすぐ氷のように冷たくなった。
リズは弾け出すように逃げ出してしまう。走りながら、あの時、失った左目を押さえる。
(カイル……!カイル……!)
会えない。
この姿で会えるわけがない。
リズはわき目も振らず、人ごみを縫って、石畳を進む。
後ろで、カイルが何か叫んでいるように聞こえるけど、雑踏のざわめきが、それをかき消してしまっている。
会えない、それでも会いたい。
心の奥底では会いたいと思うけれど、焦燥に駆られる脚は止まらず、カイルとの距離はみるみる離れていってしまう。
カイルの声が遠くなっていく。
会いたい。会えない。
入り混じる思いがなおも足を駆る。
リズは、人波をかき分けて、石畳を進む。
だが、早鐘を打つ鼓動と切迫が、駆ける歩幅を乱し、足をもつれさす。そして、積み上げられた荷台に体がふれ、ローブの裾をひっかけ、リズは転んでしまった。その小さな体が、鈍い音を立てて、石畳の上を転がる。
転んださなかに、深く被っていたフードが脱げてしまう。
リズの顔が、冷え始めた秋の空気に触れる。
夕陽のもと、衆目にさらされたのは、額から頬、喉に至るまで縦横無尽に走る無数の傷跡。
潰れた左目。美しい面影を無残に塗りつぶした、傷だらけの顔だった。
市場の通りを行き交う人々が驚いて歩みを止める。
「ひっ……なんだ、あの顔」
「うわっ……かわいそうに……」
突き刺さるような蔑みと好奇の視線、警戒と同情の息遣いがその場に満ちる。
空気が冷たくなったような感触。リズは震える手で顔を覆い、地面にうずくまった。
カイルにだけは見られたくない。この姿を。この傷を。
カイルが冷たく見下ろす様を想像してしまい、心がかき乱される。
今すぐに逃げ出したいが、心に絡まる鎖が足取りを縛る。
ざわつく人混みの中を、一歩、また一歩と重い足音が近づいてくる。
重い鎧の金属音。
リズは固く目を閉じ、石畳を掻いた。
(あぁ来ないで!!)
その時。
「……ようやく、見つけたぞ……リズ!」
降ってきたのは、拒絶ではなく、慈愛に満ちたカイルの声だった。
聞きなれた声。
何年もの間、自分が欲しかった言葉。
リズの凍りついた心が僅かに緩む。
それでも、顔を上げることができない。
「……っ、人違い……です!」
叫ぶように告げて、リズは立ち上がった。
混乱する人混みを力任せに押し退け、細く暗い路地に入る。
「リズ!」
カイルの必死の呼びかけを振り切るように、リズは影の中へと走り去った。
その後を追おうとしたカイルの行く手を、路地の狭さが阻む。
「くそっ……!」
リズの姿を見失った焦燥がカイルの端正な顔を歪ませる。
「……テオ!すまない、頼みがある」
カイルは膝をつき、少年の目線に合わせてその肩を強く掴んだ。
「彼女を……リズを追いかけて、居場所を教えてくれ。俺は今、護衛任務から離れるわけにはいかないんだ」
「えっ?うん。いいけど。でも、どうやって教えればいいの?」
テオは無邪気にも気安く請け負う。
「王家のキャラバンまで来てくれ」
「キャラバン?」
「昨日から王家の一団が、中央の広場で野営をしている」
カイルは、北東の広場を指さした。
「そこにこの鎧と同じ紋章が――剣と天秤の紋章だ――入った大きな天幕がある。そこでカイル・ケストラに言伝があると伝えてくれ。誰か取り次ぐはずだ……いいか、今、頼れるのは君だけだ!」
立派な近衛騎士が少年に必死の願いを託す。ありえない行為だが、テオは胸を張ってその依頼を受けた。
「わかった。黒いねーちゃんを見つけて、天幕に行けば良いんだね」
「頼んだぞ。テオ。礼は必ずする」
カイルは後ろ髪惹かれるように、市場の街路に向かった。
一方、リズは湿った暗い路地の隅で、激しく上下する肩を抑えて立ち尽くしていた。
肺が焼けるように熱い。
けれど、それ以上に胸の奥が、熱く速く脈打っていた。
(……見つけて、くれた)
傷だらけのこの姿でも、カイルは一目で、迷うことなく「リズ」だと呼んでくれた。
自分はカイルの心のなかにまだいた。それどころか、自分を探してくれていたのだ。
それだけで報われた。もう、これだけで十分だ。
これ以上望めば、きっと彼を不幸にしてしまう。
リズは思いを振り切るように、路地の向こうの、街の北西門へと足を向けた。
リズの背後から、軽い足音が近づく。
「ねーちゃん!待ってよ!」
テオが手を振りながら駆け寄ってきた。
「ねーちゃん、行っちゃうの?あのにーちゃん、すげー必死にねーちゃんを探してたよ!?」
「……会うわけにはいきません……です」
「なんでだよ!あのにーちゃん、ねーちゃんの名前呼んで泣きそうな顔してたのに!」
真っ直ぐな言葉が、リズの心に鋭く突き刺さる。
自覚があるほどに、耳たぶが熱く火照っていく。
フードがその赤みを隠してくれていることに感謝しながら、
「これでいいんです……」
と未練を断ち切るように歩き出した。
「良くないよ!だって俺、にーちゃんに頼まれたもん!」
リズは追いすがるテオを無視するわけにも振り切るわけにもいかず、困った顔をしながらも歩き続け、門に続く広い通りに出た。
その広い通りに地響きのような音がした。
石畳を踏み敷く車輪の音。荒々しい馬の蹄の音。
馬は、大きな黒塗りの馬車を率いて、門をくぐり抜けてくる。
車体に黄金の蛇の紋章が刻まれている。馬車の後方に十数人の兵が付き従う。
「侯爵様の馬車だ!」
テオが声を上げる。黒い馬車は二人の目の前を勢いよく過ぎ去り、砂塵を周囲に撒き散らす。
その大きな馬車は二人から十メートルほどの位置で停止した。
急な停車で車輪が石畳にこすれ、火花を散らす。
御者が車室に近づいて、恭しく扉を開くと、澱んだ冷気が溢れ出す。姿を現したのは、蛇を思わせる酷薄そうな男。男が、二人に視線を送る。
「これは運がいい」
男は馬車を降りながら、白い絹の手袋でリズを指さす。
「……傷を治した黒い魔女とは、貴女のことですね?」
低く、どこか芝居がかった声に、リズは身構える。
「あなたは?」
「申し遅れました。私はアントラー侯爵べラム・ゲセン。この一帯の領主です」
テオの見立ては正しかった。ただ、侯爵に声を掛けられる理由は無いはずだ。
リズは怪訝そうな顔をして身構える。
「黒いフードの小柄な傷だらけの女。ふむ。聞いた通りですね」
侯爵の視線が自身の腕に注がれているのを見て、リズはローブで腕を隠す。
「なぜ侯爵様が私の事を知っているのですか?」
侯爵の放つ底知れない気配を警戒して、リズはあえて名乗らずに、質問をする。
「ハッハッハ……聞いたことはありませんか?アントラーの噂は風よりも速い……交易の町ですからな……そして……面白そうな話は必ず領主の私のところに即座に届く」
ゲセン侯爵は指先を自身の耳にあてながら、自信たっぷりの笑みを見せる。
テオが小声でリズの耳元でささやく。
「本当だよ。侯爵様はいろいろヤバい噂があるから気を付けたほうが良いよ」
「聞こえてますよ?少年。ただ、町の子供にまでそう思われているのは悪くない。さて、魔女殿、噂は本当ですか?」
テオはリズをかばうように前に出る。
「……私は、魔女ではありません……です」
「そうだぞ!このねーちゃんは、傷だらけだけどすげー優しいんだ。魔女じゃないぞ!」
ゲセン侯爵は二人の反論を気にかけることなく、両手を広げて自分語りを始める。
「私は価値ある希少なものを愛しています……宝石、絵画、彫刻、衣服、能力、人材……あらゆる宝を集めるのが私の趣味なのです……」
リズとテオは警戒の視線を侯爵に送る。
「『人の傷を治す能力』……まるでおとぎ話のようです……見たことも聞いたこともない!是非ともその『奇跡』を私に見せてはいただけませんか?」
「……お断り、します……です」
無礼な要求をリズはにべもなく断った。
「何、謝礼は望みのままさしあげましょう。もっとも、その力があれば、金などいくらでも稼げるかもしれませんがね」
ゲセン侯爵の人間を品定めするような視線。
それはリズが最も嫌うものだった。
「私の力は……見せ物でも、金儲けの道具でもありません……です」
「なんと。善意で治していると?これはまた無欲な……」
侯爵が薄く笑い、一歩踏み出す。
リズは生理的な嫌悪を感じ、思わずあとずさって、
「私はこの町を出ます……失礼します……」
と一言告げて、会釈をする。
「あぁ、魔女殿がこのアントラーを去られるとは、なんとも残念だ」
なおも芝居がかった口調で、蛇のような侯爵は語り続ける。
「ご存じないかもしれませんが……私は……欲しいものは必ず手に入れる性分でね」
侯爵の腰から剣が引き抜かれた。かがり火を反射する白刃に、リズとテオは身を震わせる。
しかし、男が向けた刃の先は、リズでもテオでもなかった。
肉を断つ嫌な音が響き、鮮血が石畳に飛び散る。
「……!!」
侯爵は、傍らにいた自らの手下の腕を深く斬り裂いたのだ。リズは眼の前で起きた凶行に声を失った。侯爵は、血を噴き出す腕を押さえながらへたり込む手下を見下ろし、さも困ったように眉を下げてみせた。
「これは困りましたね。急所は外れているようですが、このままでは私の大事な部下が失血死してしまう」
「正気……ですか……っ!?」
リズは歯を食いしばって、ゲセン侯爵を睨みつける。
「正気ですよ。私は貴女の力がどうしても見たい。だが貴女は善意でしか動かないという。ならば、こうして救うべき人を用意して差し上げるしかないじゃあないですか」
侯爵の眼には、一切の動揺はなかった。
狂っている。リズの背すじを冷たい汗が伝う。
「……それでも、お断りします……」
歯を食いしばって拒絶するリズ。
「仕方ありませんね」
侯爵は軽い身のこなしでテオの背後に回って、細い腕を強引に捻り上げ、少年の喉元に冷たい刃を押し当てたのだ。
「離してよ!」
テオは身動きできず、悪態をつくので精一杯だ。
「こんなやり方は優雅さに欠けるので好みではありませんが……さあ、選んでください。早くしないと、治療が必要な人間が、もう一人増えることになりますよ?」
喉元に当てられた刃が、テオの柔らかな皮膚に食い込む。
「……っ!治します!!……治します!!」
やむにやまれず、リズは倒れ伏した侯爵の手下の手を握った。
禍々しい黒い泥がリズの腕を這い、傷を吸い上げていく。
代わりにリズの体には、新たな痛みの傷が刻まれる。
その光景を、侯爵は歓喜に震える瞳で見つめていた。
「すばらしい……!これはどれだけの価値があるかわからんな!」
治療が終わり、荒い息をつくリズの顎を、侯爵は白い手袋越しに、掬い上げた。
「決めました。貴女は、今日から私のものだ」
「……テオを、離してください」
「解放すれば、私に大人しく従うと誓いますか?」
「……従います……」
屈辱に唇を噛み、リズはうなだれた。
「よろしい。我が屋敷に招待しましょう」
侯爵はリズの手をつかみ、馬車に引き込む。
馬車の重厚な扉を閉めながら、年老いた執事が侯爵に伺いを立てる。
「旦那様、王子がこの先のキャラバンでお待ちです。いかがなさいますか?」
「挨拶は取りやめだ。どうせ明日、正式な面会がある」
「かしこまりました」
扉は閉められ、馬車は北の街区へ向けて走りだした。
篝火が揺れる門の前で、テオは、去り行く馬車を見ながら、涙をこらえていた。
でも、泣いている暇はない。意を決して、テオは走り出した。
中央広場の王家の天幕。
騎士カイル・ケストラの元へ。




