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傷跡令嬢のリバーシ  作者: ビヨンドほうじ
第一章 傷だらけのリズ
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傷だらけのリズ

昼下がりの路上で、少年が背を丸め、痛みに震えていた。

「痛っ……ぁ……っ」

修繕の足場から地面に落ちたのだ。

手首が赤黒く腫れ、脂汗を流している。

「テオ!大丈夫か!」

親方が足場の上から大声で呼びかける。

通りの人々がざわついて苦しむ少年を見つめているが、誰も近寄らない。


細い路地から衣擦れの音がした。石畳の影がそのまま伸びるように、小柄な人影が現れ、少年に近づく。深く被った黒いフードの隙間からのぞく唇が、そっと開いた。

「……怖がらなくていい……です」

弱々しいながらも気遣う響く声。黒い人影は少年のそばでゆっくりと膝を折って、手を伸ばす。

少年は痛みをこらえながらも、目を見開いた。ローブの袖からのぞいた細い腕が、無数の傷跡に覆われていたのだ。

白く美しい肌ではあったのだろう。だが、その腕は、鋭い切り傷、火傷な傷跡、様々な傷跡で埋め尽くされている。その無残にも痛々しい手が、少年の赤黒く腫れた手を優しく包み込む。

「大丈夫。痛いの、痛いの……飛んでいけ……です」

慈しむような囁きと、彼女の手のひらから禍々しい黒い何かが湧き出た。それは泥炭のようにドロリと蠢き、少年の手首にまとわりついていく。

少年がびっくりして手をひこうとするのを、黒衣の女性は微笑みで制した。

手首を包んだ黒い塊から赤い火花が散り、ふわりと宙に浮かぶ。黒い塊は少年の手を離れ、彼女の白い手首にへばりつく。


「っ……」

黒い塊が肌に吸い込まれ、腕をビクリと震わせる。


不思議な黒い物体がすべて消えると、そこには切り傷がじわりと浮き上がっていた。

少年の傷と同じ位置。


少年の手は、染み一つ無く治っていた。

その怪我が傷として女性に移ったのだ。


少年が驚きながら顔を上げると、彼女は傷ついたばかりの手を素早くローブの奥に隠し、少年の頭を、優しく撫でた。


「もう、無茶をしてはいけません……です」


ローブとぼさぼさの黒髪で目は見えなかったが、唇は穏やかな笑みを浮かべている。


「あ……ありがとう!すごい!治ってる!今の何?!」

無邪気に喜ぶテオの肩を、足場から降りてきた親方がぐいとつかんで、距離を取らせる。


「……おい、テオ!あまり近づくな……あんた……今のはなんだ?!」


向けられたのは、感謝ではなく忌避の視線。

周囲の人も遠巻きに警戒の視線を投げかける。


視線に耐えるように、フードの奥で小さく唇を噛んだ。

黒いローブをきつく合わせ、身を隠すように背を向ける。

「ありがとう!黒いねぇちゃん!俺はテオ。名前、なんて言うの?」

少年の純真な問いかけに、立ち去りかけていた背中が揺れた。彼女は足を止め、迷いを払うようにうなずく。無視して消えることもできたであろう。けれど、黒いローブの女性は誠実に答えた。

「……エリザベス」

消え入りそうな、けれど銀鈴のように澄んだ声が漏れる。

フードの端を指先で強く握りしめ、言葉を継いだ。

「エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル……です」

傷だらけの陰気な女にはおよそ不釣り合いな貴族然とした名前。

シャンデリアの残火のような、儚くも美しい名乗りだった。

「エリザ……えーと、エリザ……うーん、長いよ、ねーちゃん!」

テオはあっさりと覚えることをあきらめ、

「とにかく、ありがとう!黒いねぇちゃん!」

と浅黒い顔に屈託のない笑顔を浮かべ、手を大きく振った。

「長ければ、ただ『リズ』と……」

リズは優しく笑みで返した。

「わかった!」

「では、失礼します……です」

「ねぇねぇ!黒いリズねーちゃん!お家はどこ?」

お辞儀をして立ち去ろうとするリズに、少年は懲りずにまとわりついていった。

親方は二人の背に怪訝そうな視線を送った。



交易の町アントラー、その夕暮れの市場で、親方が騎士に詰問を受けていた。

「……その聖女は、本当に、子供の傷を治したんだな!?」

「あぁ!本当だって!」

王家の紋章を刻んだ甲冑を着込んだ大柄な騎士が、逃げようとする親方の肩を掴み、逃がさぬと言わんばかりに詰め寄る。

「けどよ、聖女なんて上等なもんじゃねぇ。黒い傷だらけの陰気な魔女だ。禍々しい術を使ってたしな……」

魔女。その言葉を聞いた男の眉間が険しく歪み、掴んだ手にみしりと力がこもる。

親方がヒッと短く悲鳴を上げた。

「噂ではなく、本当に起こったことなんだな?」

「そうだ!俺はこの目で見た」

「……その人は、今どこにいる」

有無を言わせぬ威圧的な低い声。

だが、答えはあてにならないものだった。

「し、知らねえよ!よそ者だろうから、どっかの宿に泊まってるんだろうが……」

「……っ」

大柄な男は騎士らしからぬ焦燥の表情を浮かべた。

「その子供はどこだ」

「テオの野郎、あの陰気な女についていっちまったから、どこだか……そのうち帰ってくるだろうが……向こうの通りの宿屋のあたりにいるかもしれん」

親方が指した先には、多くの人がゆき交う広い通りが見えた。

街の人々が傾く日差しに赤く照らされていた。

「ありがとう。今は余裕がない、これで勘弁してくれ。私は王家近衛騎士のカイル・ケストラだ。後で王家のキャラバンに来てくれればさらなる礼をする」

男はアントラー銀貨を一枚取り出し、大工の手のひらに押し付けた。

「お……おぅ……」

「それと、彼女は魔女ではない。心優しい女性だ。覚えておいてくれ。」

「なんだ?あの女と知り合いなのか?!」

「……わからない」

断言とはうらはらにおぼろげな回答。カイルは自らの表情を曇らせながらも、片時も忘れたことのない名を、祈るように呟いた。

「……リズ、なのか?」

カイルは人混みをかき分けながら、通りに向けて走り出した。




宿の固いベッドの上。リズは仰向けに横たわり、細い腕を天井へとかざした。

窓から差し込む夕日が、彼女の腕を赤く浮かび上がらせる。そこには、先ほどの少年テオから引き受けた新たな傷が、筋となって刻まれていた。リズの能力は負傷そのものではなく、その傷跡だけを彼女の肉体へと移す。血が流れることはない。ただ、誰かが引き受けるはずだった痕だけが、彼女の肌に蓄積されていくのだ。

リズは愛おしむように、その傷を指先でなぞった。指に伝わる凹凸の感触がこれまでの放浪の旅を思い出させる。世間の人から見れば、目を背けたくなるような醜い傷たち。けれど、リズはこの傷が嫌いではなかった。少なくとも、自分が誰かの役に立った証なのだから。

指先が前髪の下に移り、隠されたひときわ深い古傷、左目の傷に触れた瞬間、リズの指が止まる。

「……カイル」

こぼれ落ちたのは、胸の奥に閉じ込めていた幼馴染の名。

彼を救った代償として刻まれた、最大にして最愛の傷。

後悔はしていない。けれど、彼と会うことは二度とないだろう。

(この傷の理由を知れば、カイルは……きっと、一生、彼自身を責めてしまう……)

カイルの眩しい太陽のような笑顔を思い浮かべると、胸が重くなる。

そしてつい、もっと悪いことを思い浮かべてしまう。

(こんな傷だらけの姿では、私だと気づいてさえもらえない。髪の色だって、あのころとは違う)

彼の記憶から私はとっくに消えてしまっているかもしれない。

手をそっと、左目から喉の傷に伸ばす。

その喉の奥に、熱いものが込み上げ、残された右目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って耳へと流れる。涙の熱さが、孤独をつのらせる。


(……なぜ、名乗ってしまったんだろう)

リズは涙をぬぐうように両手で顔を覆った。

隠遁の身でありながら、捨てたはずの「クロムウェル」の名を明かしてしまった。

テオの無邪気な瞳が、かつてのカイルに重なって見えてしまったせいだろうか。


五年前、我が家、クロムウェル家が襲われた日のことを思い起こす。

家族を失ったあの日を境に、名を捨てた。

残された家財は純白の魔導書一冊だけ。


「……早く、この町から離れないと」

誰かに気付かれる前に。

そして何より――万が一にも、彼にこの姿を見られてしまう前に。

ぐぅ。と情けない音が静かな部屋に響いた。

途端に、切ない感傷が霧散していく。

能力を使った後は、いつもこうだ。


「何か……食べてから、町を出ましょう……」

自分に言い聞かせるように呟きながら、ベッドから身を起こし、手早く黒いローブを纏い直した。


リズは手荷物を抱え、宿屋の食堂へと降りてきた。

夕餉の香りが立ち込め、宿泊客たちの賑やかな声が漏れ聞こえてくる。

足元では、白黒の看板猫が「にゃあ」と喉を鳴らして彼女の裾に身体を擦り寄せてくる。

リズはしゃがんで猫の背を撫でる。名残を惜しむように、立ち上がっておかみさんに告げる。

「……今日、この町を発ちます……です。宿代を……」


「なんだい急だね。そろそろ日も暮れるよ。せめて朝まで待ちな。夜道は物騒だ」

恰幅の良いおかみが怪訝な顔をする。

「申し訳、ありません……です」

カウンターに銀貨を置こうとするリズを、女将が止める。

「いいんだよ、宿代なんて!あんたはうちの旦那の命の恩人なんだ」

「でも……」

「路銀だって物入りだろう、取っておきな」

おかみの固辞に、リズは頭を下げる。

「すいません……お世話になりました……」

温かな厚意を振り切るように、宿の扉を開け、外へと足を踏み出した。ドアの上には、この宿屋の看板――「かささぎ亭」の由来である美しい鳥の金属のレリーフ――夕日に照らされている。

(始めて、ここに来たときもこんな夕方だったっけ……)

感慨にふけっていると、通りの人混みの向こうから、元気な声に呼び止められた。

「あ!いた!おーい、黒いねーちゃん!」

テオが、波打つ人混みを縫うようにしてこちらへ走ってくる。

「テオ……?どうしたの?」

「はぁ、はぁ……!あのさ、ねーちゃん、リズっていうんだよね?すげー強そうな騎士の人がねーちゃんを探してるんだ!」

テオが指差した、通りの向こう側。夕日に照らされた人波を割って進んでくる、一際大柄な青年の姿が見えた。白銀の甲冑がきらめく。涼やかな目、刈り込んだ黒い髪、その大きな肩。

その姿を目にした瞬間、リズの瞳は引き寄せられた。

カイルは一歩一歩近づき、その声まで聞こえる距離まで来た。


「おい、少年。そう急ぐな。……おっと、失礼。お怪我はありませんか?」

不意にぶつかりそうになった通行人を片手で支え、穏やかに詫びる、その低くて心地よい響き。

一日たりとも忘れたことのない、愛おしい声。

(カイル……っ!?)


カイルだ間違いない。

記憶にある姿より背丈は伸びているが、その優し気な顔はかつての姿と全く同じだ。

なぜ、ここに?私を探して?!

カイルまでの距離が、一歩ずつ近くなるのを見て、リズは手を宙に差し出す。


会いたい。

でも、この姿を彼に見せるわけにはいかない。

リズは手を引き、踵を返して背を向ける。

「えっ?あっちょっと!」

テオの呼びかけを振り切って、リズはローブの胸元をぎゅっと掴みながら、その場から逃げ出してしまう。

「ねーちゃん!?待ってよ!」

テオが手を伸ばすが、リズは通りの向こうまで駆けていってしまっていた。


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