傷だらけのリズ
昼下がりの路上で、少年が背を丸め、痛みに震えていた。
「痛っ……ぁ……っ」
修繕の足場から地面に落ちたのだ。
手首が赤黒く腫れ、脂汗を流している。
「テオ!大丈夫か!」
親方が足場の上から大声で呼びかける。
通りの人々がざわついて苦しむ少年を見つめているが、誰も近寄らない。
細い路地から衣擦れの音がした。石畳の影がそのまま伸びるように、小柄な人影が現れ、少年に近づく。深く被った黒いフードの隙間からのぞく唇が、そっと開いた。
「……怖がらなくていい……です」
弱々しいながらも気遣う響く声。黒い人影は少年のそばでゆっくりと膝を折って、手を伸ばす。
少年は痛みをこらえながらも、目を見開いた。ローブの袖からのぞいた細い腕が、無数の傷跡に覆われていたのだ。
白く美しい肌ではあったのだろう。だが、その腕は、鋭い切り傷、火傷な傷跡、様々な傷跡で埋め尽くされている。その無残にも痛々しい手が、少年の赤黒く腫れた手を優しく包み込む。
「大丈夫。痛いの、痛いの……飛んでいけ……です」
慈しむような囁きと、彼女の手のひらから禍々しい黒い何かが湧き出た。それは泥炭のようにドロリと蠢き、少年の手首にまとわりついていく。
少年がびっくりして手をひこうとするのを、黒衣の女性は微笑みで制した。
手首を包んだ黒い塊から赤い火花が散り、ふわりと宙に浮かぶ。黒い塊は少年の手を離れ、彼女の白い手首にへばりつく。
「っ……」
黒い塊が肌に吸い込まれ、腕をビクリと震わせる。
不思議な黒い物体がすべて消えると、そこには切り傷がじわりと浮き上がっていた。
少年の傷と同じ位置。
少年の手は、染み一つ無く治っていた。
その怪我が傷として女性に移ったのだ。
少年が驚きながら顔を上げると、彼女は傷ついたばかりの手を素早くローブの奥に隠し、少年の頭を、優しく撫でた。
「もう、無茶をしてはいけません……です」
ローブとぼさぼさの黒髪で目は見えなかったが、唇は穏やかな笑みを浮かべている。
「あ……ありがとう!すごい!治ってる!今の何?!」
無邪気に喜ぶテオの肩を、足場から降りてきた親方がぐいとつかんで、距離を取らせる。
「……おい、テオ!あまり近づくな……あんた……今のはなんだ?!」
向けられたのは、感謝ではなく忌避の視線。
周囲の人も遠巻きに警戒の視線を投げかける。
視線に耐えるように、フードの奥で小さく唇を噛んだ。
黒いローブをきつく合わせ、身を隠すように背を向ける。
「ありがとう!黒いねぇちゃん!俺はテオ。名前、なんて言うの?」
少年の純真な問いかけに、立ち去りかけていた背中が揺れた。彼女は足を止め、迷いを払うようにうなずく。無視して消えることもできたであろう。けれど、黒いローブの女性は誠実に答えた。
「……エリザベス」
消え入りそうな、けれど銀鈴のように澄んだ声が漏れる。
フードの端を指先で強く握りしめ、言葉を継いだ。
「エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル……です」
傷だらけの陰気な女にはおよそ不釣り合いな貴族然とした名前。
シャンデリアの残火のような、儚くも美しい名乗りだった。
「エリザ……えーと、エリザ……うーん、長いよ、ねーちゃん!」
テオはあっさりと覚えることをあきらめ、
「とにかく、ありがとう!黒いねぇちゃん!」
と浅黒い顔に屈託のない笑顔を浮かべ、手を大きく振った。
「長ければ、ただ『リズ』と……」
リズは優しく笑みで返した。
「わかった!」
「では、失礼します……です」
「ねぇねぇ!黒いリズねーちゃん!お家はどこ?」
お辞儀をして立ち去ろうとするリズに、少年は懲りずにまとわりついていった。
親方は二人の背に怪訝そうな視線を送った。
交易の町アントラー、その夕暮れの市場で、親方が騎士に詰問を受けていた。
「……その聖女は、本当に、子供の傷を治したんだな!?」
「あぁ!本当だって!」
王家の紋章を刻んだ甲冑を着込んだ大柄な騎士が、逃げようとする親方の肩を掴み、逃がさぬと言わんばかりに詰め寄る。
「けどよ、聖女なんて上等なもんじゃねぇ。黒い傷だらけの陰気な魔女だ。禍々しい術を使ってたしな……」
魔女。その言葉を聞いた男の眉間が険しく歪み、掴んだ手にみしりと力がこもる。
親方がヒッと短く悲鳴を上げた。
「噂ではなく、本当に起こったことなんだな?」
「そうだ!俺はこの目で見た」
「……その人は、今どこにいる」
有無を言わせぬ威圧的な低い声。
だが、答えはあてにならないものだった。
「し、知らねえよ!よそ者だろうから、どっかの宿に泊まってるんだろうが……」
「……っ」
大柄な男は騎士らしからぬ焦燥の表情を浮かべた。
「その子供はどこだ」
「テオの野郎、あの陰気な女についていっちまったから、どこだか……そのうち帰ってくるだろうが……向こうの通りの宿屋のあたりにいるかもしれん」
親方が指した先には、多くの人がゆき交う広い通りが見えた。
街の人々が傾く日差しに赤く照らされていた。
「ありがとう。今は余裕がない、これで勘弁してくれ。私は王家近衛騎士のカイル・ケストラだ。後で王家のキャラバンに来てくれればさらなる礼をする」
男はアントラー銀貨を一枚取り出し、大工の手のひらに押し付けた。
「お……おぅ……」
「それと、彼女は魔女ではない。心優しい女性だ。覚えておいてくれ。」
「なんだ?あの女と知り合いなのか?!」
「……わからない」
断言とはうらはらにおぼろげな回答。カイルは自らの表情を曇らせながらも、片時も忘れたことのない名を、祈るように呟いた。
「……リズ、なのか?」
カイルは人混みをかき分けながら、通りに向けて走り出した。
宿の固いベッドの上。リズは仰向けに横たわり、細い腕を天井へとかざした。
窓から差し込む夕日が、彼女の腕を赤く浮かび上がらせる。そこには、先ほどの少年テオから引き受けた新たな傷が、筋となって刻まれていた。リズの能力は負傷そのものではなく、その傷跡だけを彼女の肉体へと移す。血が流れることはない。ただ、誰かが引き受けるはずだった痕だけが、彼女の肌に蓄積されていくのだ。
リズは愛おしむように、その傷を指先でなぞった。指に伝わる凹凸の感触がこれまでの放浪の旅を思い出させる。世間の人から見れば、目を背けたくなるような醜い傷たち。けれど、リズはこの傷が嫌いではなかった。少なくとも、自分が誰かの役に立った証なのだから。
指先が前髪の下に移り、隠されたひときわ深い古傷、左目の傷に触れた瞬間、リズの指が止まる。
「……カイル」
こぼれ落ちたのは、胸の奥に閉じ込めていた幼馴染の名。
彼を救った代償として刻まれた、最大にして最愛の傷。
後悔はしていない。けれど、彼と会うことは二度とないだろう。
(この傷の理由を知れば、カイルは……きっと、一生、彼自身を責めてしまう……)
カイルの眩しい太陽のような笑顔を思い浮かべると、胸が重くなる。
そしてつい、もっと悪いことを思い浮かべてしまう。
(こんな傷だらけの姿では、私だと気づいてさえもらえない。髪の色だって、あのころとは違う)
彼の記憶から私はとっくに消えてしまっているかもしれない。
手をそっと、左目から喉の傷に伸ばす。
その喉の奥に、熱いものが込み上げ、残された右目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って耳へと流れる。涙の熱さが、孤独をつのらせる。
(……なぜ、名乗ってしまったんだろう)
リズは涙をぬぐうように両手で顔を覆った。
隠遁の身でありながら、捨てたはずの「クロムウェル」の名を明かしてしまった。
テオの無邪気な瞳が、かつてのカイルに重なって見えてしまったせいだろうか。
五年前、我が家、クロムウェル家が襲われた日のことを思い起こす。
家族を失ったあの日を境に、名を捨てた。
残された家財は純白の魔導書一冊だけ。
「……早く、この町から離れないと」
誰かに気付かれる前に。
そして何より――万が一にも、彼にこの姿を見られてしまう前に。
ぐぅ。と情けない音が静かな部屋に響いた。
途端に、切ない感傷が霧散していく。
能力を使った後は、いつもこうだ。
「何か……食べてから、町を出ましょう……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ベッドから身を起こし、手早く黒いローブを纏い直した。
リズは手荷物を抱え、宿屋の食堂へと降りてきた。
夕餉の香りが立ち込め、宿泊客たちの賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
足元では、白黒の看板猫が「にゃあ」と喉を鳴らして彼女の裾に身体を擦り寄せてくる。
リズはしゃがんで猫の背を撫でる。名残を惜しむように、立ち上がっておかみさんに告げる。
「……今日、この町を発ちます……です。宿代を……」
「なんだい急だね。そろそろ日も暮れるよ。せめて朝まで待ちな。夜道は物騒だ」
恰幅の良いおかみが怪訝な顔をする。
「申し訳、ありません……です」
カウンターに銀貨を置こうとするリズを、女将が止める。
「いいんだよ、宿代なんて!あんたはうちの旦那の命の恩人なんだ」
「でも……」
「路銀だって物入りだろう、取っておきな」
おかみの固辞に、リズは頭を下げる。
「すいません……お世話になりました……」
温かな厚意を振り切るように、宿の扉を開け、外へと足を踏み出した。ドアの上には、この宿屋の看板――「かささぎ亭」の由来である美しい鳥の金属のレリーフ――夕日に照らされている。
(始めて、ここに来たときもこんな夕方だったっけ……)
感慨にふけっていると、通りの人混みの向こうから、元気な声に呼び止められた。
「あ!いた!おーい、黒いねーちゃん!」
テオが、波打つ人混みを縫うようにしてこちらへ走ってくる。
「テオ……?どうしたの?」
「はぁ、はぁ……!あのさ、ねーちゃん、リズっていうんだよね?すげー強そうな騎士の人がねーちゃんを探してるんだ!」
テオが指差した、通りの向こう側。夕日に照らされた人波を割って進んでくる、一際大柄な青年の姿が見えた。白銀の甲冑がきらめく。涼やかな目、刈り込んだ黒い髪、その大きな肩。
その姿を目にした瞬間、リズの瞳は引き寄せられた。
カイルは一歩一歩近づき、その声まで聞こえる距離まで来た。
「おい、少年。そう急ぐな。……おっと、失礼。お怪我はありませんか?」
不意にぶつかりそうになった通行人を片手で支え、穏やかに詫びる、その低くて心地よい響き。
一日たりとも忘れたことのない、愛おしい声。
(カイル……っ!?)
カイルだ間違いない。
記憶にある姿より背丈は伸びているが、その優し気な顔はかつての姿と全く同じだ。
なぜ、ここに?私を探して?!
カイルまでの距離が、一歩ずつ近くなるのを見て、リズは手を宙に差し出す。
会いたい。
でも、この姿を彼に見せるわけにはいかない。
リズは手を引き、踵を返して背を向ける。
「えっ?あっちょっと!」
テオの呼びかけを振り切って、リズはローブの胸元をぎゅっと掴みながら、その場から逃げ出してしまう。
「ねーちゃん!?待ってよ!」
テオが手を伸ばすが、リズは通りの向こうまで駆けていってしまっていた。




