小雨降る厩舎
二人は小雨が降り注ぐ夜のアントラーを進んでいた。
「カイル……大丈夫? しっかりして……!」
「少しは動けるが……どこか……身を隠せる場所を……」
カイルの声は掠れている。
血は流れていないようだが、深手を負っているのは間違いなかった。
「カササギ亭は?」
「……いや、彼女たちにまで……累が及ぶのは避けたい」
「それなら、宿屋の裏にある厩舎は?あそこなら、目立たずにやりすごせるかも」
「厩舎か……そうしよう……馬もいるしな……」
そして、辿り着いた厩舎の奥。
暗がりに潜むカイルの愛馬が鼻を鳴らし、主の異変を察して不安げに脚を鳴らす。
カイルは糸が切れたように崩れ落ち、厩舎の壁に背を預ける。
「くぅ……っ!」
「カイル!」
リズは自分の白手袋を外し、震える指先で、彼の鎧の留め金を一つひとつ解いていく。重厚な鉄が外れると、鎧の中に溜まっていた鮮血が藁の上にこぼれ落ち、生々しい匂いが立ち込めた。
「なんてこと……傷が深い……!」
「リズ、俺は、まだ……」
「喋らないで!」
リズは叫ぶと、血に濡れたカイルのシャツを捲り上げた。
露わになった脇腹の傷は内臓に達しているようにもみえた。
彼女は迷わず、その傷口に自身の手を重ねた。
リズは瞳を閉じ、深く集中する。
彼女の掌から、黒い泥炭のような塊がどろりと湧き出し、カイルの傷口を覆う。
不気味な黒い塊から赤い火花が散り、重力に逆らうようにふわりと宙に浮かんで、彼女の同じ脇腹のあたりへ吸い込まれていった。
「……っ!」
リズの喉から、苦しみの吐息が漏れる。
カイルの傷は塞がり、その逞しく、つややかな腹筋があらわになった。
「カイル……よかった……本当に、よかった……」
リズは涙で滲む視界のまま、痛みが去ったばかりの彼の肌を、愛おしむようにそっと撫でた。
「うっ……」
カイルが思わず声を上げ、身体を起こすと、二人の顔が吐息の届く距離で重なった。
「あ……すまない、驚かせて……」
カイルは慌てて距離を取ろうとしたが、横たわったままのリズの腕が、それを許さなかった。リズはカイルを逃さないと言わんばかりに、彼の胸に抱きついた。
カイルは再び仰向けに倒れ、リズはその逞しい胸板の上で、震える身体を預けて安堵の溜息を漏らす。
「リ……リズ?」
「……カイルが死んでしまうかと……」
リズは頭を胸元にこすりつけた。
カイルは穏やかな微笑みを浮かべ、ローブ越しに彼女の柔らかな頭を撫でる。思いを吐き出すように長い溜息を吐いて、リズに囁いた。
「……俺はリズに助けられてばかりだな。格好がつかない」
「私に助けられるのは、嫌……ですか?」
涙を溜めて見上げる彼女の瞳に、カイルの理性が揺れる。彼は大きな手をリズの背に回し、優しく、けれど力強く抱きしめ返した。
「嫌なものか。嬉しいよ。ありがとう、リズ」
静まり返った厩舎に、雨音と二人の鼓動だけが響く。
「……干し草の、匂いがする……」
「そうか? ここは厩舎だからな」
「知らないの? カイル、あなたからはいつも、お日様にあたった干し草のような、とてもいい匂いがするのよ」
「えっ?俺が……?」
慌てて自分の肩のあたりを嗅ぐカイルの仕草に、リズの唇が自然と綻んだ。
「私は昔から、この匂いが大好きだったの」
リズはゆっくりと顔を上げ、彼の熱い眼差しを受け止めた。
リズはそっと顔を寄せ、カイルの唇に、羽根が触れるような口づけをした。
カイルは答えるように、少しだけ力強く抱きしめた。
小雨の降る薄暗い厩舎に甘いひとときが流れる。
「……そうだ……テオはどうした?」
カイルが我に返ったように言う。
「わかりません。無事に逃げていると良いですが……」
「流石にあのザラでも、子供に手を出しはしないだろうが……朝を待って、すぐに次の手を考えるしかないな……」
リズも夜の空を見てうなずく。
「リズ、今日は休め。俺が見張りをしている」
「そんな。カイルこそ休んでください」
「俺は北方で一年も海を見て見張りしていたんだぞ。見張りのプロだ」
自信満々で指を立てて言うカイルがおかしくてリズは笑ってしまう。
「じゃあカイルに任せようかな」
「おう、任せろ」
「それにしてもあの剣士はまた来るのでしょうか」
「間違いなく来るだろうな。すごい使い手だった……だが、手の内は見えた。次こそは……」
カイルは拳を握りしめる。
「次戦う時は、私もお手伝いします」
「やめとけ。危ない」
カイルはギョッとして答える
「またそういう事を言う。私だってできることあるんですよ。例えば……」
「例えば?」
と怪訝そうに眉をひそめるカイルの不器用な横顔を見つめながら、リズは優しく言葉を紡ぎ続けた。
小雨が夜を優しく包み込む厩舎の中、二人は互いの体温を感じながら、穏やかに語り合いながら夜を明かした。
厩舎に朝の澄んだ光が差し込む頃、リズは干し草の匂いに包まれていた。
(あぁ……カイルの陽向の匂いだ……)
うっとりしながらまどろんでいると、突然、扉が勢いよく開く音がする。
「あんた達!こんなところにいたのかい!?探したんだよ!」
頭上から響いたかささぎ亭のおかみの切迫した大声に、リズは寝ぼけ眼を開けようとする、目の前に見えたのは、シャツをはだけたカイルの逞しい胸元だった。
(え……っ!?わた……私のあ、頭が、カイルの胸に……っ!?)
リズは動転し「はぅっ!?」と悲鳴を上げてカイルの胸に手をついて、飛び起きた。
「あっ……あの!これは違うんです!いえ、違わないのですが!これは、昨夜、やむにやまれぬ事情で、厩舎をお借りしていて、そのっ!あの……っ!!そんな特に何も!」
狼狽して支離滅裂な事を言いながら、リズは両手で赤くなった顔を覆う。
カイルもようやく目を覚まし、何が起きたのか分からず寝癖のついた頭を押さえながら身を起こした。
「そんなことはどうでもいいんだよ!それどころじゃないんだ!」
いつもは朗らかなおかみの顔が、恐怖で青ざめている。
カイルが立ち上がり、おかみさんに聞く。
「大変って……一体何があったのです?」
「騎士さん、あんたさ!あんたを名指しで、領主からの布告が出ているんだよ!」
「俺を名指しで……布告だと?」
カイルが眉をひそめると、おかみは震える指で外の通りを指差した。
「あぁ、さっき、お役人が高札を立てて行ったんだ。説明するより、見たほうが速い!」
カイルとリズは慌てて厩舎を飛び出す。
冷たい朝靄が残る通りに、一本の高札がたち、人が群がっている。
そこにはこうあった
「王都近衛騎士カイル・ケストラへの最後通牒」
と。




