二つの対価
「二つの対価?」
侯爵の立てた二本の指を見て、リズは怪訝そうに問う。
「一つめ、この黒の魔導書『ノワール』を貸し出して、貴女のその『癒しの力』を魔導書に戻させてさしあげよう。クロムウェルの血筋を引くあなたにならこの黒の魔導書が使えるはずだ。これは貴女を破滅から守る唯一の方法だ」
侯爵は無法な要求を突きつけた。
「なっ……!」
リズは驚きの声を上げる。
対価と言っておきながら、力を奪おうという強欲な要求。
あまりにも無茶な言い様だが、そこには一片の理があった。
「二つめ、クロムウェル家再興に助力し、子々孫々に至るまで、アントラー侯爵家が手厚く保護しよう」
リズは沈黙したまま下を向く。
「貴女は……またあなたの子孫も、平穏な日々を手に入れられる。流浪することもなく、命を狙われることもない。このベラム・ゲセン、約束は守る男ですぞ」
返答がないのを良いことに、侯爵はなおも語り続ける。
「おぉそうだ。クロムウェル家を再興すれば、貴女が当主だ。しきたりに囚われること無く、想い人と結ばれることもできましょうな。そう。例えば幼馴染の騎士殿とも……」
侯爵は両手をテーブルについて、上目遣いのいやらしい表情で二人を見る。
リズは両手を足の上で握りしめ、肩を震わせる。
「一方的な言い様ですね……金で魔導書と力を買うと?」
「それは人聞きが悪い。貴女が得るのは金ではない。安全で穏やかな未来だ。金よりも大事なものです。違いますか?」
さも良いことを言っているようだが、背後に見えるドス黒い欲望にリズは自分の想いに泥をなすりつけられたような気分になった。
(こんなこと受けられるはずがない……かと言って……)
困惑する頭の中に、ふと、昨晩カイルと過ごしたクロムウェル家の大広間が頭をよぎる。まずノワールを自分の目で見てみる必要がある。
「お申し出はわかりました……まずは……その黒い魔導書『ノワール』をみせていただけませんか?私は幼い頃から見てきましたので本物か判別できると思います」
と切り出す。
「これが偽物かもしれないと?ふむ慎重ですな?しかし、もっともな申し出だ。よろしい。この状況で王族特使の貴女が持ち逃げするとも思えませんしな」
侯爵は老執事に顎で指示して、黒い魔導書をリズの前によこした。
リズは黒い魔導書を受け取る。
いつも手に持つ白い魔導書と全く同じサイズと感触。
それだけで本物であることは確信できた。
注意深く、ページを繰る。
唯一文字が書かれたページ、それは確かに白の魔導書と同じページ、同じ文字と紋様だった。
あの時、カイルを助けたいと強く願ったときに、白い魔導書が、黒い魔導書に収められた魔法を、白い魔導書に写し取り、自身に与えてくれたのだろう。
素晴らしい力だとは思う。
ただ、これはカイルを助けたいというだけで、たまたま手に入れた力でもある。もともと過ぎた力でもあるし、無ければ無いで困りはしない。
そもそも、この世の誰もが持っていない能力なのだから。
(だからといって、この力を手放したいとも思えない……)
自身の心に迷いを感じながら、黒の魔導書を閉じる。
(あるいは、この本を取り戻して、今更、どうすればいいのか……)
悩みながら本を見るうちに、その黒い表紙に染み込んだ血痕があることに気づいた。
クロムウェル家の大広間、黒い魔導書が収められた場所に残された血痕に繋がる形。
お姉様がこの本を守ろうとした跡。
それが、リズの心を突き動かした。
「いかがですか?返答をお聞かせいただきたい」
侯爵は余裕たっぷりに返答を迫る。
「その前に一つ聞かせてください……」
「ゲセン侯爵閣下、あなたが6年前、クロムウェル家を襲った黒幕なのですか?お姉様は……私の姉、イザベラ・クロムウェルは生きているのですか?!」
「さて、なんのことやらわかりませんな」
自身の決死の問いをはぐらかすゲセンの態度に、リズの頭がカッと熱くなった。
「本を奪うために、我が家を襲い、家族を殺しておいて、さらに対価を払うから本と力を寄越せですって……!?そんなこと、到底受け入れられません!」
激しい怒りにリズの身体が震える。しかし、侯爵はその怒りを、小馬鹿にするように肩をすぼめて受け流した。
「おぉ、恐ろしい剣幕だ……しかし、よく考えていただきたいが……これは過去の死人の話ではない、貴女自身の未来の話だ。一考に値するとは思いませんか?」
「ふざけないでください……っ!」
リズは声を荒げた。目の前の男の歪んだ余裕の笑みが、吐き気がするほどおぞましく感じる。
「本当に、ふざけた話でしょうか?」
侯爵はねじれた笑みをより深くする。
「話になりません!」
「そうでしょうか?お隣に立つ、頼もしい騎士殿にもお伺いを立ててみては?」
侯爵の言葉に、リズはハッとして隣を振り向いた。
(カイルも『ふざけるな』と一喝してくれるはず……)
そう思って見上げたカイルは、複雑な、困惑した表情をしていた。
いつも真っ直ぐな黄金色の瞳が、今はふるふると泳いでいる。
(カイル……?どうしたの……?)
リズの心に影がさし、心臓が早鐘を打ち始める。
その沈黙を破り、カイルの唇から、リズの耳を疑うような言葉がこぼれ落ちた。
「リズ……侯爵の申し出は一方的だが……考えてみる価値はある……と、思う……」
「えっ?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
その一言に、リズの全身から一気に血の気が引く。
心臓の音が焦燥で跳ねる。
「カイル……?なぜ……そんな事を言うの……?」
かろうじて声を絞り出して、カイルの目を見ようとする。
だが、カイルは目を合わせること無く、気まずそうに視線を床へと逸らしている。
「家族が殺されて!あなただって、命を落とすところだったのよ!?」
叫び声が震える。
「そうだ……!決して許せることではない!」
カイルが顔を上げ、苦しげに吠える。
その瞳には、痛々しい情念が渦巻いている。
「だが、考えてみてくれ!この力は、君のためにならない!優しい君は、この先も誰かの傷を、他人の傷を受け続けるだろう……そしていつか、取り返しのつかないことになる!俺には、それが耐えられないっ!」
「そんなっ……」
「この力はあまりに強大すぎる!この力がある限り、君は一生、誰かに狙われ続ける!……力さえ手放してしまえば、君はもう傷つかず、安全に暮らせるんだ……!」
カイルの言葉が、リズの胸に容赦なく突き刺さる。
思いがけないカイルの裏切りの言葉に、悔しさと、引き裂かれそうなほどの悲しみが涙となって溢れ出る。
ガタンッ!!と激しい音が響き、リズは勢いよく席を立つ。
「リズ!」
カイルが引き留めようと手を伸ばすが、リズはそれをかわし、ひったくるようにして白いローブと魔導書『ブラン』を胸に抱きしめた。
視界が涙で歪む。リズは振り返ることもせず、勢いよく部屋を飛び出し、ドアを力任せに閉めた。
「おぉ、残念。交渉は決裂かな?クロムウェル嬢は特使が席を蹴るということの意味をおわかりではないようだ」
なおもからかうような口調で、侯爵は両手を広げる。
「ベラム……貴様!」
「騎士殿。私の申し出はすでにお伝えしました。どうぞクロムウェル嬢に取りなしていただきたい」
侯爵はカイルの怒りを受け流して、告げた。
「言われるまでもない」
カイルは吐き捨てるように言って、リズを追うべく、扉に向かう。
「騎士殿、このアントラーは私の庭、逃げようとしても無駄なことですよ。逃げようなどとゆめゆめ思わぬことだ」
侯爵が釘を刺して言う。
「分かっている。これで失礼する」
カイルは一礼もせずに、部屋を出ていった。




